第36話 クオの言葉
国王陛下の一行が去った翌朝、私は診療所へ向かう途中で、庭の中央に座るクオを見つけた。
昨日から妙に私たちを見ていた白狐は、今日も同じ場所で背筋を伸ばしている。
「おはようございます、クオ」
声をかけても動かない。
いつもなら尻尾くらいは振るのに、金色の目は私ではなく、少し後ろを見ていた。
振り返ると、カルロス様が領主館から出てくるところだった。
「どうした」
「クオが、何か言いたそうで」
「狐が?」
「以前は話しましたから」
「……そうだったな」
あれを経験しておきながら、まだ狐という分類に戻そうとするところがカルロス様らしい。
私たちが並ぶと、クオが立ち上がった。
白い毛並みの縁から淡い光がこぼれる。
眩しいほどではない。朝靄の中に灯りを置いたような、静かな光だった。
「ずっと待っていた」
クオの声が、はっきり聞こえた。
私は息を止める。
「この土地が死にかけていた。水は濁り、土は痩せ、人も獣も離れていった。だから見ていた」
クオは領地の向こうへ顔を向けた。
水路には朝日が反射し、その先の畑には人影がある。荷車が市場へ向かい、遠くで子どもの声まで聞こえた。
「でも今は違う」
白い尾が一度だけ揺れた。
「人が水を守り、土を耕し、傷ついたものへ手を伸ばしている。この土地は、もう自分で生きていける」
胸の奥が、じんと温かくなった。
荒れた畑しか見えなかった頃を思い出す。あの時は、ここまで変わるとは私も思っていなかった。
「では、クオはもういなくなるんですか」
口にしてから、思った以上に寂しい声が出たことに気づいた。
クオが私を見る。
「もう少しいる」
「本当ですか」
ほっとした私の隣で、カルロス様も小さく息を吐いた。
「どのくらい?」
私が尋ねると、クオは少し首を傾げた。
「子が生まれるまで」
「……はい?」
思わず聞き返した。
隣も動かない。
私はカルロス様を見る。
カルロス様も私を見る。
どちらも同じ言葉を理解しているはずなのに、確認しても意味は変わらなかった。
「子、というのは」
私が慎重に尋ねる。
クオはもう答えなかった。
淡い光が消え、四本の足で地面を掻くと、いつもの白狐の顔で大きな欠伸をする。
「待ってください。今のところは説明が必要です」
クオは前足で耳の後ろを掻いた。
「普通の狐に戻るのが早くありませんか」
返事はない。
それどころか、私の足元を通り過ぎ、庭の向こうへ歩いていく。
残された私は、もう一度カルロス様を見た。
白い結婚として始まった関係である。
子どもが自然発生する可能性は、少なくとも薬師として聞いたことがない。
つまり、クオの言葉を文字どおり受け取るなら、その前に必要なことがある。
考えた瞬間、頬が熱くなった。
「……診療所へ行きます」
「そうか」
カルロス様の返事も、いつもより一拍遅い。
私たちはなぜか別々の方向へ歩き出しかけ、同時に止まった。
診療所も執務室も、同じ側だった。
クオはずいぶん遠くまで行ったところで振り返り、こちらを見ていた。
あの狐、全部わかって言ったのではないだろうか。
午後になっても、私は薬草を量るたびに「子どもが生まれるまで」という言葉を思い出した。
量りは正確なのに、私の心拍だけが妙に落ち着かない。
夕方、仕事を終えて廊下へ出ると、カルロス様が待っていた。
偶然だと言うには、壁にもたれて待つ姿勢が完成しすぎている。
「何か?」
「ああ」
カルロス様は一度口を閉じ、それから私を見た。
「一つ、聞いていいか」
「はい」
返事をすると、カルロス様はなぜかすぐには話さなかった。
廊下の真ん中でする話でもないらしく、私たちは小さな談話室へ移った。
暖炉には火が入っている。
カルロス様は迷わずその近くの椅子を選んだ。ヴェラ様がいなくなってから、この屋敷の室温はずいぶん穏やかだ。
向かいへ座ると、彼が尋ねた。
「ここが好きか」
予想していた質問とは違った。
「この領地が、ですか」
「ああ」
「好きです」
答えると、カルロス様の視線が少しだけ動いた。
「なぜ」
私は窓の外を見た。
夕方の道を、仕事を終えた人たちが歩いている。診療所の前には洗った薬瓶が干され、市場の方から荷車の音がした。
「作るものがあるからです」
「薬か」
「はい。まだ試したい処方もありますし、領地で育てられる薬草も増えました」
少し考えて続ける。
「それから、会いたい人がいます。帰る場所もあります。それで十分です」
カルロス様は黙った。
やがて、少しだけ身を乗り出す。
「……会いたい人というのは」
「コリンとリンダさんと、エドとジルドさんと」
一人ずつ顔が浮かぶ。
そして最後に、目の前の人を見る。
「あなたも」
「……俺も」
「はい」
カルロス様が完全に止まった。
そんなに意外だっただろうか。
「毎日会っていますけれど」
「そうだな」
「それでも、いなければ気になります」
カルロス様は視線を落とした。
火の音だけが部屋に響く。
「……俺も、お前に会いたいと思う」
低い声だった。
私は目を瞬いた。
「毎日顔を見ていても、明日も見たいと思う」
胸の奥が、急に騒がしくなった。
あまりにもカルロス様らしい言い方だった。
花を贈るでも、きれいな言葉を並べるでもない。
明日も顔を見たい。
でも、その言葉が何よりもこの人らしく聞こえた。
「それは」
私が口にすると、カルロス様が少し眉を寄せる。
「お前のそれは……、好きということか」
今度は私が黙る番だった。
前世を含めても、薬の効能ならもっと明確に答えられる。恋愛感情には用法用量も判定基準もない。
けれど。
危険な時に手を掴まれたことを覚えている。
温かい茶を置かれたことも、新しい薬研を用意してくれたことも、何度も玄関で待っていたことも。
そして、帰る場所を思い浮かべた時、この人のいる屋敷が浮かんだ。
否定する理由は、もうなかった。
「……そうだと思います」
私が答えると、カルロス様はしばらく動かなかった。
「そうか」
たった二文字だった。
これまで何度も聞いた言葉なのに、今度の「そうか」は、今までのどれとも違って聞こえた。
口元がわずかに緩んでいる。
私まで頬が熱くなる。
「カルロス様は?」
「何がだ」
「私だけ答えるのは不公平ではありませんか」
逃げ道を塞ぐと、彼は珍しく言葉に詰まった。
やがて観念したように息を吐く。
「好きだ……と、思う」
「思う、なんですね」
「お前もそう言っただろう」
「確かに」
お互い、告白というのをするには少し練習が必要らしい。
でも、それでよかった。
白い結婚だと言われた日の私なら、こんな会話をする未来を想像できなかっただろう。
私たちは同じ場所にいて、明日も顔を見たいと思っている。
今は、それで十分だった。
その時、扉の向こうで小さな物音がした。
何かが壁に当たり、慌てて離れたような音だ。
私は扉を見る。
「誰かいます?」
返事はなかった。
けれどカルロス様は額へ手を当てた。
「……放っておけ」
どうやら、心当たりがあるらしい。




