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婚約破棄された薬師令嬢ですが、死神伯爵の妻になった結果、毒殺陰謀を暴きながら不器用な夫の溺愛を向けられることになりました  作者: NIKE


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第35話 縋り付いても遅いです

 応接室へ入ると、ライホールド様は立ち上がった。


 以前より痩せて見えた。仕立てのいい上着も、王都で会っていた頃ほど彼を立派には見せてくれない。


「レティツィア」


「お久しぶりです、ライホールド様」


 私は向かいの椅子へ座った。


 カルロス様は私の隣ではなく、少し離れた壁際に立った。腕を組み、何も言わない。頼んで同席してもらったわけではないけれど、出ていく様子もなかった。


 ライホールド様は一度だけ彼を見てから、私へ向き直った。


「単刀直入に言う。カーラとは縁を切る」


「そうですか」


「ヴェラ・ドミナントがあれほどのことをしていたとは知らなかった。私は敗血草にも、ダンヴァル伯爵を狙った件にも関与していない」


「はい。それは王都の調査で確認されています」


 私が答えると、彼の顔に安堵が浮かんだ。


「なら、そのことを証言してほしい。君なら王宮も耳を傾ける。クレイツ家まで同類のように見られているんだ」


「求められれば、事実はお話しします」


「ありがとう。では――」


 そこで彼は少し身を乗り出した。


「戻ってきてくれないか」


 一瞬、意味がわからなかった。


「どちらへでしょう」


「私のところへだ。婚約破棄は撤回する。父上にも話す。君がこれほど有能だとは、私が見誤っていた。ダンヴァルとは離縁して、今すぐにでも――」


 胸の中に、昔なら痛んだかもしれない言葉が落ちた。


 けれど今は、不思議なくらい静かだった。


「戻る理由がありません」


「だが、君はもともと私の婚約者だった」


「もともと、です。過去の話にしたのは貴方の方ですが」


 私は彼を見る。


「婚約を終わらせたのはライホールド様です。そして私は、今の暮らしを捨てたいと思っていません」


「伯爵家に嫁いで辺境で薬師をしていることが、侯爵夫人になるより大事だと?」


「比べるものではありません」


 診療所の匂い。リンダさんの市場。薬草を抱えて走るコリン。ジルドさんの帳簿。エドワードの呆れた顔。暖炉の前で寒くないと言い張る人。


 思い浮かべるのに時間はいらなかった。


「私は今、ダンヴァルで薬師をしています。作りたい薬も、診たい人もいます」


 そして、自然に言葉が続いた。


「帰る場所があります」


 口にしてから、自分で少し驚いた。


 屋敷へ来たばかりの私は、ここを帰る場所だとは思っていなかった。


 けれど今は、迷わなかった。


 ライホールド様は何か言おうとした。


「しかし私は――」


 その視線が私の後ろへ動く。


 振り返らなくても、誰がいるのかわかる。


 カルロス様は何も言わなかった。ただ腕を組んで立っているだけだった。


 ライホールド様の言葉が止まったのは、私の返事だけが理由ではなかったのかもしれない。


 やがて彼は立ち上がった。


「……わかった」


「関与していないことについては、必要なら事実を証言します」


「最後まで、そういうところは変わらないんだな」


「そうでしょうか」


 昔の私は、もっと相手の顔色を読んでいた気もする。


 彼が去ったあと、応接室に沈黙が残った。


「帰る場所、か」


 カルロス様が言った。


「はい」


「ここが?」


「はい」


 今度も迷わなかった。


 灰色の目が少しだけ柔らかくなる。


「……そうか」


 それだけなのに、さっきより胸が落ち着かなかった。


 数日後、市場から戻ったリンダさんが、ひどく楽しそうな顔で教えてくれた。


「王都じゃ、あんたを手放した見る目のない男って言われてるらしいよ。次の婚約話もさっぱりだってさ」


「それは私に教えなくてもよかった情報では?」


「面白いだろ」


「リンダさんが、ですね」


 笑いながら薬草籠を受け取った。


 過去に勝ったとは思わない。


 ただ、もう戻らなくていい。


 それだけで十分だった。


 それからほどなくして、王都からさらに大きな知らせが届いた。


「国王陛下が、こちらへ?」


 書状を二度読んでも内容は変わらない。


 荒地が一夜で息を吹き返したという噂が王都まで届き、陛下自らダンヴァル領を見たいという。


「少々、噂が育ちすぎではありませんか」


「事実だろう」


 カルロス様が言う。


「一晩で土が変わったのは事実ですが、私が説明できないことまで立派に説明されたら困ります」


「説明できないと言えばいい」


「陛下相手にもですか」


「ああ」


 簡単に言ってくれる。


 数日後、王家の紋章を掲げた一行が到着した。


 陛下は形式的な挨拶を短く済ませると、水路、診療所、畑、市場まで順に見て回った。


「これを、お前たちが?」


 改修された水路を前に尋ねられ、カルロス様が頷く。


「領民と共に進めました」


「以前の報告とは別の土地のようだな」


 私は横で記録を示した。


「良くなっていない場所もありますので、そちらもご覧ください」


 陛下が少し笑った。


「普通は、王には良いところだけ見せたがるものだ」


「悪いところを隠すと、あとで治せなくなります」


「薬師らしい答えだ」


 最後に、問題だった東の区域へ向かった。


 今では若い芽が地面を覆い、以前の灰色の土が見えない場所も増えている。


 そこへ、白い影が駆けてきた。


「クオ」


 呼ぶと、クオは私の足元を通り過ぎ、陛下の前で止まった。


 護衛たちが一斉に身構える。


「大丈夫です。この子は――」


 言い終わる前に、クオの毛並みが淡く光った。


 あの日ほど強い光ではない。


 それでも昼の陽射しの中ではっきり見えるほど、白い輪郭が金色を帯びる。


「……これは」


 陛下が言葉を失った。


 クオは一度だけ頭を下げるような仕草をし、何事もなかったように私の隣へ戻った。


「私にも説明はできません」


 先に言っておいた。


 陛下はしばらくクオと畑を見比べ、それから笑った。


「正直でよろしい」


 視察の終わりに、陛下は領主館で正式な書状を読み上げた。


 ヴェラから剥奪された薬草取引の利権の一部と、その管理権がダンヴァル領へ与えられる。


 希少薬草の産地として、領地自身が流通を管理できる範囲も広がるという。


 長く他人に値段を決められ、安く買いたたかれてきた土地にとって、それは収穫量が増えることと同じくらい大きい。


「ダンヴァル伯爵」


 陛下がカルロス様を見る。


「よくやった。死神などという不名誉な呼び名も、いずれ消えるだろう」


 カルロス様は頭を下げた。


「恐れ入ります」


「領地をここまで戻したのは、お前の手腕か」


 その問いに、カルロス様は少しだけ私を見た。


 私はてっきり、領民やジルドさんたちの話をするのだと思った。


 けれど。


「妻のおかげです」


 顔を上げてしまった。


 カルロス様は平然としている。


 陛下は私へ視線を移し、面白そうに目を細めた。


「そうか。良い妻を得たな」


「はい」


 今度は一拍も置かなかった。


 形式だけでいいと言った人が、公の場で私を妻と呼んだ。


 宴席で「大切な人」と言われた時とは、また違うところが落ち着かない。


 視察団が帰ったあとも、その言葉は領主館に残った。


「レティさん!」


 廊下の向こうからコリンが走ってくる。


「カルロス様が陛下に『妻のおかげです』って言ったんだって!」


「もう知っています。そこにいましたから」


「市場でもみんな言ってる!」


「どうしてそんなに早いんですか」


「俺が教えた!」


 原因が目の前にいた。


「コリン」


 背後から低い声がした。


 カルロス様だった。


 コリンの顔が引きつる。


「診療所の仕事は終わったのか」


「今から!」


 逃げるように走っていった。


 私は笑いを堪えながらカルロス様を見る。


「ずいぶん広まりましたね」


「忘れろ」


「陛下の前で言った言葉をですか?」


「……忘れなくていい」


 小さく言い直された。


 その足元へクオがやって来た。


 白狐は私とカルロス様を交互に見上げると、その場に座った。


 妙に真剣な顔だった。


 まるで、私たちにまだ何か言いたいことがあるように。


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