第34話 前妻の墓参りに行く
イリスさんの墓は、領主館から少し離れた丘の上にあった。
朝の空気は冷たく、なだらかな坂を上るたびに草の先についた露が靴を濡らす。先を歩くクオは気にする様子もなく、白い尾を揺らしていた。
カルロス様は黒い外套の襟をいつもより高く立てている。
「寒いですか」
「寒くない」
反射のような答えだった。
風が吹くたびに外套の前を押さえているので、今日は追及しないことにした。
丘の頂近くに、小さな墓地がある。
古い石壁に囲まれた一角で、カルロス様が足を止めた。
そこには、イリス・ダンヴァルの名が刻まれた白い墓石があった。
私はジルドさんに用意してもらった花を供え、少し後ろへ下がった。
カルロス様は何も言わない。
ただ墓石を見ていた。
長い沈黙だった。
私は急かさず、隣に立った。
この人は、イリスさんが亡くなってからずっと、自分のそばにいたせいで彼女まで死んだのだと思っていた。
でも実際には、別の誰かが命を奪おうとしていた。
その事実がわかったからといって、失った時間まで戻るわけではない。
「守れなかったと思っていた」
不意に、カルロス様が口を開いた。
低い声だった。
「俺のそばにいたから死んだ。俺が遠ざけなかったからだと」
風が墓地を抜けていく。
「でも実際は……」
そこで言葉が止まった。
私は墓石へ目を向けた。
「イリスさんは、最後まであなたに渡したいものがあると書いていました」
「ああ」
「まとまっていない、とも」
手記の最後に残っていた震えた文字を思い出す。
彼女は自分の体に何が起きているのかを知ろうとしていた。確信を持てないまま、それでも誰かへ伝えようとしていた。
「イリスさん自身は、最後まで答えをまとめられなかったのかもしれません。でも、残してくれたものがあったから、私たちは真相まで辿り着けました」
カルロス様がゆっくり墓石へ近づく。
手袋を外し、石の上へ手を置いた。
何かを言うのかと思ったけれど、唇は動かなかった。
それでいいのだと思う。
謝罪でも、別れでも、感謝でも、私が名前をつけることではない。
しばらくして、カルロス様の肩から少しだけ力が抜けた。
目に見えるほど大きな変化ではない。
けれど、長い間そこにあったものが、ようやくほどけたように見えた。
まとまらなかったものは、なくなったわけではなかった。
誰かが拾い、記録し、つなぎ直せば、遅れて形になることもある。
薬の調合とはずいぶん違うけれど、私はその方が少し好きだった。
「行こう」
カルロス様が手袋をはめ直した。
「はい」
丘を下り始める。
クオが先を歩き、時々こちらを振り返る。領地の向こうには、以前より濃くなった緑が見えた。
しばらく無言で歩いていた時だった。
「レティ」
呼ばれて、私は足を止めた。
「はい」
振り返る。
カルロス様も足を止めていた。
呼んだ本人の方が、少し驚いたような顔をしている。
「……なんでもない」
「そうですか」
それだけで会話は終わった。
なのに、私はすぐ歩き出せなかった。
レティ、と呼ばれたこと自体は初めてではない。
危険が迫った時にも、人前でも呼ばれている。
けれど今は、何かを命じるためでも、誰かに私を示すためでもなかった。
ただ呼ばれた。
だから余計に、胸の奥へ残った。
カルロス様は先に歩き出したが、数歩進んだところでこちらを振り返った。
「来ないのか」
「行きます」
追いつくと、歩調が自然に揃った。
クオは少し先で、こちらの遅さに呆れたように座っている。
「クオに待たれていますね」
「狐に急かされる覚えはない」
「たぶん向こうは、かなり前からそう思っています」
私が言うと、カルロス様の口元がほんの少し動いた。
笑った、ように見えた。
確認しようと顔を覗き込むと、すぐいつもの表情へ戻る。
「何だ」
「いえ。なんでもありません」
「そうか」
少し前なら、本当にそれで終わっただろう。
今は、その「なんでもない」に別の意味が含まれていることを、互いに少しだけ知っている気がした。
領主館へ戻る途中、診療所の前でコリンと出会った。
「レティさん!」
薬草を入れた籠を抱えたまま駆けてきて、私の隣を見た途端、ぴたりと止まる。
「カルロス様も一緒なんだ」
「ああ」
カルロス様が答える。
コリンはなぜか私と彼を交互に見た。
「何ですか」
「ううん」
その顔は、明らかに何か言いたそうだった。
私はしゃがんで籠を見る。
「薬草の仕分けですか?」
「そう。リンダさんから届いたやつ。あとで診療所に持ってく」
「助かります」
コリンは頷いたものの、まだカルロス様を見ている。
「さっき、笑ってた?」
カルロス様が黙る。
「見間違いだ」
「でも笑ってたよ。俺、初めて見た」
「見間違いだ」
二度言った。二度言うほど大事なことだろうか。否定は回数を増やしても証拠にはならない。
私は口元が緩みそうになるのを抑えた。
「レティ」
「はい」
「お前まで笑うな」
「笑っていません」
「顔がそう言っている」
「それは困りました」
今度こそ、カルロス様の口元がわずかに上がった。
コリンが目を丸くする。
「ほら!」
カルロス様は無言で歩き出した。
耳が少し赤い。
私はコリンに「内緒にしてあげてください」と頼んでから、その背中を追った。
領主館へ戻ると、ジルドさんが玄関で待っていた。
いつもなら落ち着いている彼の表情が、少し硬い。
「お帰りなさいませ。奥様にお客様がお見えです」
「私に?」
「はい。王都から、先ほど到着されました」
誰だろう。
父なら先に書状を寄越すはずだし、サイラスさんなら用件を明かすだろう。
ジルドさんが名を告げる。
「ライホールド・フォン・クレイツ様です」
足が止まった。
婚約破棄の手紙を最後に、まともに話していない人の名だった。
隣でカルロス様も立ち止まる。
穏やかだった帰り道の空気が、一瞬で変わった。
私は玄関の奥を見た。
どうやら、過去の方からこちらへやって来たらしい。




