エピローグ この地に、根を張って
診療所の灯りが消えない夜は、今でもある。
ただし、昔と違って私一人のせいではない。
「レティさん、こっちは終わりました」
棚の向こうから声をかけてきたコリンは、もう見習いではなかった。正式な医療師として認められ、自分の患者を持ち、今年から若い弟子まで預かっている。
十歳の頃、祖父の咳を心配して診療所へ迷い込んできた少年が、今では薬草の分量を弟子に注意している。
年月というものは、気づかないうちにかなり大胆な仕事をするらしい。
「では、その記録も確認して帰ってください。明日の朝でも構いませんよ」
「レティさんにだけは言われたくないです」
「私は今日は帰ります」
「本当ですか?」
「その疑い方は失礼では?」
コリンは笑った。
机には、彼がまとめた患者の記録が置かれていた。読みやすい字で、症状の変化と薬の効き方まで細かく残されている。
「これ、弟子にも同じ書き方を教えます。レティさんから教わったことを、次に教えたいので」
「それなら一つ訂正があります」
「何ですか、先生」
「先生ではなく、先輩と呼んでください」
「そこですか?」
「そこです」
私は教師になったつもりはない。
薬師として知っていることを伝えただけだし、私だって今でも失敗する。薬草は毎年同じ育ち方をするわけではないし、人の体は教本どおりに反応してくれるほど素直でもない。
「じゃあ先輩。先輩は何を調べてるんです?」
見つかった。
私は机の端に置いていたノートを閉じた。
「新しい薬です」
「またですか」
「まだ、作りたい薬があるんです」
呆れられたけれど、それでいい。
病気がなくならないなら、薬師の仕事もなくならない。以前は助けられなかった症状にも、今なら別の方法を試せるかもしれない。
コリンが帰ったあと、私は少しだけ、と決めてノートを開き直した。
その「少しだけ」がどのくらいだったのかは、扉が開くまで気づかなかった。
「まだ仕事か」
顔を上げる。
カルロス様が立っていた。
昔と同じ言葉だった。
「もう少しだけです」
私の返事まで、昔とあまり変わっていない。
カルロス様は呆れたように息を吐いた。
「帰れと言っても?」
「この頁まで」
「そうか」
叱られると思ったのに、それ以上は何も言わなかった。
代わりに、向かいの椅子を引いて座る。
「待つ」
「眠くなりますよ」
「お前を一人にするよりいい」
私はノートへ目を戻した。
最初にこの人から「そうか」と言われた時、その言葉は会話を終わらせるためのものだった気がする。
それから何度も聞いた。
驚いた時も、納得した時も、嬉しい時も。
今の「そうか」は、私が終わるまで隣にいる、という意味らしい。
同じ二文字なのに、ずいぶん遠くまで来たものだ。
「カルロス様」
「何だ」
「もう少しだけ、お付き合いください」
「ああ」
窓の外には、領地の灯りが点々と続いていた。
昔は暗かった夜の中に、今は人が暮らしている明かりがある。
私はその景色を一度見てから、もう一度ノートを開いた。
さらに年月が過ぎた。
窓の外を、小さな白い頭が駆けていく。
「走ると転びますよ!」
「だいじょうぶ!」
元気な返事の直後、庭の向こうからジルドさんの声がした。
「坊っちゃん、花壇の中はおやめください!」
私は思わず笑った。
執事を引退したジルドさんは、今では庭仕事をしている。本人は「静かに余生を過ごしております」と言うけれど、私たちの子が庭へ出るたびに追いかけているので、以前より忙しそうに見える日もある。
窓辺から身を乗り出すと、陽の光を受けた白い髪が草の間を動いていた。
私にもカルロス様にもない、珍しいほど白い髪。
あの子が生まれた朝、クオはいなくなった。
前の日まで領主館の庭で丸くなっていたのに、気づいた時にはどこにも姿がなく、柔らかな土の上に小さな足跡だけが残っていた。
勿論、私も身体が回復してから探した。
森にも、荒地だった場所にも、水路の周りにも行った。
けれど、見つからなかった。
子が生まれるまで。
ずっと昔、クオが言った言葉を思い出して、私はようやく探すのをやめた。
役目を終えたのだと思う。
寂しくなかったと言えば嘘になる。
それでも、白い髪をなびかせて庭を走る小さな背中を見るたびに、完全にいなくなったような気もしなかった。
「奥様、こちらを」
振り向くと、診療所から若い医療師が書類を持ってきていた。
コリンの弟子だ。
「この処方、コリン先生が確認してほしいと」
「先生と呼ばれているんですね」
「はい。何か?」
「いえ。少しだけ嬉しくなっただけです」
私は書類を受け取った。
市場も大きくなった。
リンダさんの店は、今では王都から来た商人がまず立ち寄る場所になっている。本人は相変わらず腕を組んで値段交渉をし、「昔はこんなに客はいなかった」と文句を言いながら、誰より楽しそうに働いていた。
騎士団には、エドの息子が見習いとして入った。
初日に「父のようになりたいです」と挨拶したところ、エドは無表情で「やめておけ」と答えたらしい。けれど、その日の訓練をいつもより丁寧に見ていたことを、私は知っている。
イリスさんの薬草茶の本も、王都で版を重ねている。
診療所の棚には今でも一冊置いてあり、頁の端は何度もめくられて柔らかくなっていた。
彼女がまとめきれなかったものは、今では知らない誰かの暮らしの中にまで届いている。
私は窓際の机へ戻った。
開いたノートには、まだ名前のない薬の試案が並んでいる。
前世で薬剤師だった頃にも、今の世界で薬師として生きてからも、全部の病気を治せる薬なんて見たことはない。
だから、まだやることがある。
「また増えているな」
背後から声がした。
カルロス様が私のノートを覗き込んでいる。
「勝手に見ないでください」
「窓からでも見える量だ」
「それは字ではなく、紙の枚数ですね」
彼は私の隣へ立ち、窓の外を見た。
庭では、私たちの子がジルドさんから逃げ、その先で騎士見習いに捕まっている。少し離れた道を薬草を積んだ荷車が通り、その向こうには青々とした畑が続いていた。
初めてこの土地を見た日の景色を、私は今でも覚えている。
割れた窓の向こうに荒れた土地が広がり、どこまで行っても灰色に見えた。
あの時の私は、ここで生きていくしかないと思っていた。
今は違う。
ここで生きていきたい。
私が根を下ろしたから、この土地を好きになったのか。
この土地が私を受け入れてくれたから、根を張れたのか。
たぶん、どちらでもいい。
水を直し、土を耕し、薬を作った。助けられたことも、助けてもらったこともある。そうして過ごした年月の一つ一つが、もう私の暮らしそのものだった。
カルロス様の手が、机の上に置いた私の手へ重なる。
昔は触れるだけで互いに驚いていたのに、今ではずいぶん自然になった。
「今日はいつまでやる」
「夕食までには終わります」
「本当か」
「信用がありませんね」
「実績がある」
何年経っても、そこだけは忘れてくれないらしい。
庭から笑い声が届いた。
私はその声を聞きながら、ノートへ新しい頁を足す。
まだ知らないことがある。
まだ試したいことがある。
それを面倒だと思わなくなったのは、きっとこの土地で、失敗しても次を試せると知ったからだ。
カルロス様が頁を覗き込む。
「何を作るんだ」
私はペン先を紙へ置いた。
「まだ決めていません。でも、面白いものになります」
それだけ言って、彼のもとへと駆け寄った。
〜END〜
最後まで読んでくださりありがとうございました!!!
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読んで頂きありがとうございます!!!
これからも執筆活動を続けていきますので、どうぞよろしくお願いします!!
NIKE




