第32話 宴席にて
王都のドミナント公爵邸は、夜だというのに昼間のように明るかった。
大広間には貴族たちの笑い声と弦楽器の音が満ち、磨かれた床には無数の灯りが映っている。その華やかさの中で、ヴェラ様の周囲だけは空気が一段低かった。
近づく前から、頬がひやりとする。
「ようこそ、カルロス。レティツィア様も」
ヴェラ様は銀青色のドレスで微笑んだ。冷気をまとっているのに、その笑顔だけは社交界のお手本のように柔らかい。
「お招きありがとうございます」
私が礼をすると、隣のカルロス様も短く挨拶した。
その肩がわずかに固い。大広間には暖炉がいくつもあるのに、ヴェラ様の近くでは役に立っていないらしい。
「寒いですか」
小声で聞くと、カルロス様は前を向いたまま答えた。
「寒くない」
今日は温かい茶器も外套もない。本人申告の信頼度は、かなり低かった。
ヴェラ様は私たちを上座近くへ案内した。
挨拶に来る貴族たちの多くは、ダンヴァル領の話をした。荒れていた土地に芽が出たことまで、もう王都では知られているらしい。
「奇跡ですな」
「統治不能という話は何だったのやら」
笑い混じりの言葉に、少し前なら顔を曇らせただろう人たちもいる。
ヴェラ様は、そのたびに穏やかに笑っていた。
「本当によかったわね、カルロス。あなたは昔から変わらないのね。何度転んでも、諦めが悪くて」
灰色の目が彼女へ向く。
「そうか」
それだけだった。
ヴェラ様の微笑みが、ほんの一瞬だけ薄くなる。
私はその横顔を見た。
領地の収穫や税の話をしている時とは違う。カルロス様へ向ける目だけが、妙に長く留まる。
けれど当の本人は、近くを通った給仕から温かい料理を受け取る方を優先していた。
たぶん、本当に気づいていない。
やがて楽団の演奏が止まり、乾杯の時間になった。給仕たちが一斉に杯を整える。
私の前にも、カルロス様の前にも、透明な葡萄酒が注がれた。
甘く華やかな香りが立つ。ヴェラ様が杯を掲げた。
「今夜は王都式の正式な乾杯です。皆様、どうぞ注がれたままお召し上がりくださいませ」
その言葉を聞いた瞬間、私は隣を見た。
――“温めずに飲め”。ヴェラは暗にそう言っているのだ。
カルロス様もこちらを見る。
馬車に乗る前に確認したことを、彼も覚えている。
普段なら温める葡萄酒を、今夜はそのまま飲む。
胸の奥がざわついた。
私は自分の杯を持ち上げる。
香りに異常はない。
次に、隣から漂った匂いへ意識を向けた。
華やかな葡萄の香りの下に、ほんのわずかな違和感がある。
青臭い。
さらに、その奥に鉄を思わせる匂い。
市場で折った、生のアルベリス。
厨房で見つけた、加熱前の粉。
同じ匂いだった。
息が止まりかけた。
私は杯を口元へ運ぶふりをして、カルロス様へ顔を寄せた。
「これを飲まないでください」
小さく言う。
カルロス様の手が止まった。
「匂います」
それだけで通じたらしい。
私は会場の端を見る。
エドワードと目が合った。
ほんのわずかに視線を動かすと、彼は隣に立つサイラスへ頷いた。
ヴェラ様の声が響く。
「それでは、ダンヴァル領の再生と、皆様の変わらぬ繁栄を願って」
杯が一斉に上がる。
私は立ち上がった。
「お待ちください」
大広間の視線が、一斉に私へ向いた。
楽団も給仕も動きを止める。
ヴェラ様だけが、杯を持ったまま微笑んでいた。
「どうなさったの、レティツィア様」
「その乾杯はできません」
ざわめきが広がる。
私はカルロス様の前にある杯を指した。
「この葡萄酒に毒が入っている可能性があります」
誰かが息を呑んだ。
カルロス様は杯を卓上へ置いた。私の前へ出ようとする気配がしたので、視線だけで止める。
ここは私が説明するところだ。
「何を言っているの」
ヴェラ様の声は穏やかだった。
けれど、彼女の周囲の冷気が強くなった。近くの杯に薄く曇りがつく。
「敗血草――現在はアルベリスと呼ばれている薬草です。通常は焙煎や煮出しをして使います。ですが、加熱していないものは性質が違う」
「それは滋養に使う薬草でしょう? 毒ではありません」
「加熱したものなら」
私はカルロス様の杯へ目を落とした。
「これは、生のアルベリスを圧縮した粉末を混ぜた可能性があります。熱を通していないため、危険な成分が残っている」
「匂いだけで毒だと?」
「だから、確認していただきます」
私は会場の端へ向き直った。
「サイラスさん。お願いします」
人垣が割れ、眼鏡をかけた男が進み出た。
「王宮薬師ギルド所属、サイラス・ジャッジです。簡易判定を行います」
会場が静まる。
サイラスは手袋をはめ、カルロス様の杯を受け取った。小箱から細い硝子管と試験紙を取り出し、葡萄酒を数滴移す。
「アルベリスは通常の食品検査でも微量成分が出ます。ただし、未加熱で濃縮された場合は反応の出方が違う」
淡々と説明しながら試薬を加える。
私は呼吸を忘れそうになった。
間違っていてほしい気持ちが、どこかにある。
もし何も出なければ、私は宴席を台無しにしただけで済む。
その方がずっといい。
硝子管の中の液体が変化した。
サイラスが目盛りを確認する。
「……敗血草由来の成分、陽性です」
音が消えたようだった。
さっきまでざわめいていた大広間が、完全に静まる。
数字と反応は、相手の身分を気にしない。
公爵夫人の微笑みも、そこで初めて固まった。
「簡易検査でしょう」
ヴェラ様が言う。
「それだけで、わたくしを疑うおつもり?」
「この杯が危険だという確認には十分です」
私は答えた。
「それに、この匂いを私は以前にも確認しています。加熱前のアルベリス、領主館へ入り込んだ粉、そして今の葡萄酒です」
ヴェラ様の目が細くなる。
「薬草を少し知っているだけで、随分と大きな顔をするのね」
「少しで助かる命もあります」
言い返すと、冷気が頬を刺した。
けれど、もう寒さは気にならなかった。
「敗血草は、毒としてしか扱わなければ、加熱すると危険な性質が失われることを見落としやすい。でも私は薬師です。薬として使われるという観点からも、この草を見てきました」
私はヴェラ様から目を逸らさなかった。
「イリスさんの手記も、亡くなった人たちの記録も、厨房に残った粉も、一つずつ照らし合わせました。誰かが馬鹿にして捨てたような小さな記録が、ここまでつながったんです」
ヴェラ様の瞳が冷たく光る。
「随分と物語を作ったものね」
「物語なら、私もその方がよかったです」
私は静かに答えた。
隣でカルロス様が立ち上がる。
今度は止めなかった。
彼は私のすぐ横に並び、毒の入った杯とヴェラ様を見た。
寒さが苦手なはずなのに、一歩も引かない。
ヴェラ様の冷気が大広間へ広がっていく。
「検査が陽性だった。それで?」
笑みを取り戻そうとするように、彼女の唇がわずかに上がる。
「では、その杯を誰が用意したのか。圧縮した敗血草がどこから来たのか。わたくしの宴に泥を塗った犯人を見つけ出さなくてはなりませんね」
問いかけが、大広間へ落ちた。
ヴェラはいけしゃあしゃあと被害者ポジションを取るつもりのようだった。
私は彼女を見返した。
その質問を待っていたのだ。




