第31話 クオの姿
次の瞬間、淡い光がクオの白い毛並みに沿って広がっていった。
私は思わず足を踏み出しかけたが、カルロス様の腕が前へ出て止められた。
「待て」
クオの周囲で土が低く鳴った。
風はない。それなのに枯れた草が一斉に伏せ、地面の奥から何かが目を覚ますような震えが足裏まで伝わってくる。
「クオ……?」
呼びかけると、白狐はこちらを見た。
「長い間、この土地を見ていた」
はっきりしたこの世界の、人の言葉だった。
私もカルロス様も動けなかった。異変に気づいて駆けつけたジルドや農夫たちまで、その場で息を呑んでいる。
「人間は争いを起こし、獣を傷つけ、土地を荒らすものだと思っていた。だから、ただ見ていた」
クオの声は幼くも老いても聞こえなかった。
「だが、そなたらは違った。水を清め、傷ついた者を助け、実らぬ土にも何度も手を入れた。己のためだけではなく、この土地で生きる者のために」
胸の奥が熱くなる。
私たちは、この区域を諦めたわけではない。ただ、人間の知識で原因を確かめられるところまで確かめ、それ以上を壊さないために手を止めた。
その判断まで、クオは見ていたのだろうか。
「今回ばかりは、力を貸そう」
光が弾けた。
眩しさに目を細める。足元へ光の筋が走り、ひび割れていた土の奥へ吸い込まれていった。
その時、左手が温かいものに包まれた。
カルロス様だった。
私の手を握ったまま、彼も光を見ている。
何も言わなかった。
私も、今だけは何も言わずに握り返した。
翌朝、私は日の出とほぼ同時に区域へ向かった。
昨日まで灰色だった地面のところどころに、小さな緑が見える。
「芽……」
しゃがみ込み、土を採って確かめる。深さを変えて採取し、これまで保存していた標本とも比べた。
水分だけではない。根が伸びる層の状態そのものが変わっていた。
「これは、私たちがした改良では説明できません」
「そうなのか」
「一晩で様変わる方法なんて、私は知りません」
隣で老人が震える手を土へ伸ばした。
「この土地が、こんな顔をするのは……わしが子どもの頃以来だ」
その日のうちに噂は広がった。
三日後には、王都から視察官まで来た。以前、改善不足と記録した区域が変わったと聞き、確認に来たらしい。
視察官は芽の出た土を見て、何度も以前の記録と見比べた。
「原因は説明できますか」
尋ねられ、私は首を横に振った。
「人間の技術として説明できる根拠はありません。ただ、以前と同じ方法で土を調べても、結果が変わっています」
視察官は長く黙ったあと、記録紙へ筆を置いた。
「……記録に残せる説明ではない。だが、改善は事実だ」
その一言で、肩から力が抜けた。
作物が育たない土地を抱え、改善の見込みもない。その評価は、ダンヴァル領を統治不能とする大きな根拠だった。
けれど今、その根拠の一つが消えた。
夜、執務室へ戻ると、エドワードが王都からの報告を持って待っていた。
「廃領の話は後退しています。ドミナント派も、この状態で王家管理へ移すのは難しいと判断されたようです」
「では、ヴェラ様の計画は」
「少なくとも、領地を潰して奪う道は崩れました」
カルロス様が静かに息を吐く。
けれどエドワードの顔は緩まなかった。
「ただ、ドミナント様が動いています。最後の手を打ってくるかもしれません」
その直後、扉が叩かれた。
ジルドが銀盆に一通の封書を載せて入ってくる。
封蝋には、見覚えのあるドミナント公爵家の紋章。
中に入っていたのは、王都で開かれる宴席への招待状だった。
招待状を読み終えると、カルロス様は即座に言った。
「行く必要はない」
「行きましょう」
返事が重なった。
カルロス様がこちらを見る。
「危険だ」
「わかっています」
「わかっていて、なぜ行く」
私は招待状を机へ置いた。
「廃領計画が崩れた直後に、ヴェラ様本人から招待が来ました。向こうが直接動くなら、こちらにも準備する余地があります。それに、証拠を揃える最後の機会になるかもしれません」
エドワードも腕を組んだ。
「侵入者を送り込んだ側とつながる証言は得ています。しかし、ドミナント公爵夫人本人へ届く証拠はまだ弱い」
「だから危険なんです。でも、何をされるかわからないまま待つよりはいいです」
カルロス様はしばらく黙っていた。
「俺も行く」
今度は誰も止めなかった。
「なら、宴席での決まりを確認しておけ」
「何かありますか」
「正式な乾杯では、注がれた杯に手を加えず、そのまま口をつけるのが礼儀だ」
私は顔を上げた。
「温めるのも駄目なんですか」
「ああ。俺は普段、葡萄酒も温めるが、正式な場ではそうはいかない」
胸の奥で警鐘が鳴った。
カルロス様がこれまで無事だった理由として、加熱は無視できない。
「宴席では、絶対に先に飲まないでください」
「乾杯でか?」
「はい。礼儀より命です」
「お前は時々、貴族令嬢とは思えないことを言うな」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてはいない」
それでもカルロス様は否定しなかった。
その日のうちに、エドワードが王都のサイラスへ使いを出した。
返事は翌朝届いた。
「宴席へ中立の鑑定人として同席できるそうです。鑑定道具も持参すると」
「助かります」
「それから、捕らえた侵入者の証言も正式な文書になりました。誰に金を渡され、何を燃やすよう命じられたかまで署名させています」
「証人は揃った、ということですね」
エドワードが頷いた。
私は机の上へ視線を落とす。
イリスの手記。厨房の粉。圧縮魔導師への支払い。商会のつながり。侵入者の証言。
まだ足りない一箇所がある。
ヴェラ本人から命令へつながる部分だ。
宴席で何が起きるかはわからない。
けれど、何も起こらないと思って出向くほど、私は楽観的ではなかった。
出発の朝、玄関前には二台の馬車が用意されていた。
私が一台目へ乗り込もうとすると、カルロス様が当然のように隣へ上がってくる。
「同じ馬車でいい」
後ろからエドワードの声がした。
「……閣下、馬車は二台ありますが」
「聞こえなかった」
カルロス様は扉を閉めた。
私は向かいではなく隣に座った彼を見る。
「聞こえていましたよね」
「何がだ」
「いえ。何でもありません」
馬車が動き出す。
窓の外では、芽吹き始めた土地が遠ざかっていく。
私の膝の上には薬箱。カルロス様の腰には剣。
そして頭の中には、彼が言った一つの決まりが残っていた。
正式な乾杯では、杯に手を加えられない。
王都へ近づくほど、その言葉が妙に重くなっていった。
宴席は、今夜だった。




