第30話 クオの察知
クオは窓の外を睨んだまま、低く唸っていた。
カルロス様が茶器を置く。さっきまで書類をめくっていた人とは思えないほど素早く立ち、私を窓から遠ざけた。
「下がれ」
声を抑えている。
私も頷き、机の灯りを小さくした。
廊下には護衛がいる。窓は二階。普通なら、侵入者を警戒するには十分なはずだった。
その時、窓枠の向こうで微かな金属音がした。
クオの唸り声が一段低くなる。
カルロス様が剣へ手をかけ、扉を開けた。
「エド!」
短い呼び声と同時に、廊下の奥で何かが倒れる音がした。
正面から窓を破るつもりではない。別の場所から館へ入り、こちらへ近づいている。
私は机を振り返った。
ここには厨房の粉と商会記録の写しがある。イリスの手記そのものは別室へ移していたが、今まで集めた証拠のつながりを示す一覧は、この机にしかない。
持ち去られるか、燃やされれば困る。
机の下から革鞄を引き出し、重要な紙だけをまとめて入れた。
「レティ、何をしている」
「記録を移します」
「置いて来い」
「すぐ終わります」
「今言うことか、それは」
もっともである。
けれど、敵がわざわざここまで来た理由を考えれば、私より記録を先に狙う可能性もある。
壁際の棚をずらすと、ジルドから教わった小さな耐火箱がある。鞄を押し込み、錠をかけたところで、廊下から足音が迫った。
次の瞬間、扉の前で激しい物音がした。
「動くな!」
エドワードの声だった。
続いて鈍い衝撃音。誰かが床へ押さえつけられる。
カルロス様が廊下へ出る。私も扉の内側から覗くと、黒い服の男がエドワードと二人の騎士に取り押さえられていた。男の腰には短剣、懐からは小さな油瓶が落ちている。
燃やすつもりだったのだ。
「他に仲間がいないか調べろ」
カルロス様の声が冷えた。
「承知しました」
エドワードが男を騎士へ預け、私を見る。
「奥様、怪我はありませんか」
「ありません」
「なぜ避難されなかったんです」
「記録の方が大事なので」
答えた途端、エドワードの眉間に皺が寄った。
「もっと大事なものが――」
しかし、エドワードはその先を口にせずにカルロス様を見た。
「お前のほうが大事だ」
今度はカルロス様だった。
振り向くと、彼はもう私の目の前にいた。
「手を」
「え?」
「怪我はないと言ったな」
「はい」
言ったのに、カルロス様は私の右手を取った。
指先から手首まで確かめるように見て、それから手を掴んだまま動かなくなる。
強い力ではない。
振りほどこうと思えばできるくらいなのに、私は動けなかった。
さっきまで侵入者がいた廊下で、自分の鼓動だけが妙にはっきり聞こえる。
「カルロス様?」
呼ぶと、彼の指がわずかに強くなる。
何か言いかけて、結局、口を閉じた。
私も何を言えばいいのかわからなかった。
足元ではクオがいつの間にか唸るのをやめ、私たちの間にちょこんと座っている。
金色の目が、交互に私とカルロス様を見上げていた。
しばらくして、カルロス様はようやく手を離した。
「今夜は部屋を移せ」
「はい」
「書類は騎士に運ばせる」
「……はい」
「お前が自分で持つ必要はない」
「そこまで言わなくてもわかります」
「そうも思えなくてな」
反論できなかった。
翌朝、食堂へ行くと、カルロス様はすでに席についていた。
私を見るなり口を開く。
「昨日のことだが」
そこで止まった。
「昨日の?」
「……いや」
熱い茶へ視線を落とす。
話が途中なのに、耳だけ少し赤かった。
朝食が半分ほど進んでも、カルロス様は続きを言わなかった。
こちらから聞くべきか迷っていると、彼がようやく茶器を置いた。
「昨日は、恐ろしかった」
私は匙を止めた。
「侵入者が、ですか」
「違う」
灰色の目がまっすぐこちらを見る。
「お前を失うかと」
言葉の意味が胸へ落ちるまで、少し時間がかかった。
「私を?」
「……そうだ」
カルロス様はそれだけ答え、熱い茶を飲んだ。
昨日、何も言えずに私の手を掴んでいた理由が、ようやく言葉になった。
「私の立場を憚ってくださり、ありがとうございます」
「礼を言われることではない。それに、立場のことでは……」
「でも、心配してくださったので」
「それは、当然だ」
当然。
形式だけの妻にも使う言葉なのかもしれない。
そう考えようとしたのに、昨日の手の温度まで思い出してしまう。自分の思考へ都合よく冷却魔法をかける方法があるなら、少し習ってみたい。
「……どう、いたしまして」
不意にカルロス様が言った。
「……今、何と?」
「聞こえただろう」
「聞こえました」
たった一言なのに、なぜか聞き返してしまった。
カルロス様も気まずそうに視線を逸らす。
白い結婚を申し出た頃なら、こんな会話はしなかった。
何が変わったのか、きちんと名前をつけるにはまだ早い。
けれど、何も変わっていないとはもう思えなかった。
昼前、私は診療所へ戻った。
調合台に向かい、いつもの薬研へ手を伸ばす。
そこで止まった。
「……これは」
昨日まで置いてあった古い薬研がない。
代わりに、同じ大きさの新しい薬研が置かれていた。石肌は滑らかで、握りも手に馴染む。試しに乾燥葉を少量入れて擦ると、力を入れなくても細かくなる。
背後を通ったジルドを呼び止めた。
「薬研が替わっています」
「はい」
「壊れてはいませんでしたよ」
「縁が欠け始めておりました」
「でも、まだ使えました」
「閣下も同じことを仰いました」
「では、なぜ」
ジルドは淡々と答えた。
「昨夜遅く、閣下から『あの薬研を新しくしろ』と申しつけられましたので」
私は新しい薬研を見下ろした。
「昨夜、ですか」
「はい。侵入者を引き渡した後でございます」
あのあと。
カルロス様は眠るどころではなかったはずだ。
警備の確認も、捕らえた男の尋問もあっただろう。その夜に、なぜ私の古びた道具を思い出したのか。
「前のものはどうしました?」
「保管しております。奥様なら捨てるなと仰ると思いまして」
「よくおわかりで」
まだ使える道具を捨てるのは落ち着かない。
けれど新しい薬研は、悔しいほど使いやすかった。
昨夜のこととは関係ない。
必要な道具を新しくしただけ。
そう考えるには、交換された時刻が少しだけ邪魔だった。
薬草を擦っていると、窓の外を白い影が横切った。
「クオ?」
いつもなら診療所の入口で寝そべる時間だ。
私は手を止めて外へ出た。
クオは振り返りもせず、領地の東へ歩いていく。
胸騒ぎがして後を追うと、やがて例の作物が育たない区域が見えてきた。
これまでクオは、必ずその境界で止まっていた。
一歩も中へ入らず、ただ中央を見つめていた。
今日も同じだと思った。
けれど。
クオは境目で一度だけ私を振り返ると、白い前足を荒れた土の上へ置いた。
「クオ……?」
もう一歩。
さらに一歩。
初めて区域の中へ入り、そのまま中心へ向かって歩いていく。
私は息を呑み、後ろから追ってきた足音に振り返った。
カルロス様も、同じ光景を見ていた。
クオは荒れ地の中央まで行くと、静かにこちらを向いた。
その金色の目が、かすかに光った。




