第29話 勢の圧力
書庫の扉が開き、カルロス様が入ってきた。
「何を見つけた」
私は机の上の法令集と古い台帳を示した。
「今回の税率引き上げには、異議を申し立てられます。現在の生産状況を反映せず、過去の不振だけを根拠に税率を上げるのは不当だと主張できます」
カルロス様は台帳を手に取り、私が印をつけた箇所へ目を落とした。
「通るのか」
「通る、とまでは言えません。でも、審査させる根拠にはなります。視察時の記録と、水路整備後の収穫見込み、過去の再算定例を添えれば、少なくとも一方的に決められるのは防げます」
ジルドが静かに頷く。
「書式はこちらで整えられます。ただし、正式な異議申し立てには領主の署名と印が必要です」
カルロス様は迷わなかった。
「やる」
「まだ全部説明していませんが」
「必要な説明は聞いた」
「慎重なのか大胆なのか、ときどき判断に困ります」
「お前が見つけた。俺が動く。それでいい」
あまりに簡単に言われて、今度は私が黙った。
侯爵家にいた頃、私の知識は嫁ぐための備えだった。役に立つかどうかではなく、令嬢なら覚えて当然だと言われてきた。
それを、この人は使えるものとして受け取る。
妙な感じだった。
「……では、遠慮なく使っていただきます」
「ああ」
そこからは早かった。
私が根拠となる条文と数字を整理し、ジルドが正式な文面へ直す。カルロス様は領地側の状況を確認しながら、必要な箇所に自分の言葉を加えた。
完成した文書の最後に、彼が署名する。
ダンヴァル伯爵家の印が赤い蝋へ押された瞬間、ただの紙だったものが、領主の意思を持つ文書へ変わった。
「これを最速で王都へ」
「承知いたしました」
ジルドが文書を持って出ていく。
私はようやく椅子の背へもたれた。
「終わりましたね」
「まだだ」
「そうでした。受理されるまでですね」
「違う」
カルロス様が私を見る。
「顔色が悪い」
「集中していただけです」
「昼を食べていないだろう」
時計を見る。
とっくに昼食の時間を過ぎていた。
「忘れていました」
「忘れるな」
「努力します」
「努力ではなく倒れるな」
言い直す声が妙に強かった。
私は少し目を瞬く。
「……わかりました」
そう答えると、カルロス様はようやく視線を外した。
その日の遅い昼食には、いつもより大きな器の温かいスープが出た。誰の指示かは聞かなかった。聞けばたぶん「たまたまだ」と返ってくる。
三日後、王都から早馬が来た。
異議申し立ては正式に受理され、税率引き上げ案は再審が終わるまで保留となった。
「やった……」
思わず声が漏れた。
隣でジルドが深く息を吐き、エドワードは珍しく口元を緩めた。
カルロス様だけは、書状を読み終えても表情をほとんど変えなかった。
「これで領民に余計な負担をかけずに済みます」
「ああ」
「もう少し喜んでもいいんですよ」
「喜んでいる」
「わかりにくいです」
「そうか」
いつもの返事だった。
けれど、書状を机へ置く手からは、少しだけ力が抜けていた。
夕方、別の封書がエドワード宛てに届いた。
王都で動いている法律家からの私信だった。
「何かありましたか」
読み進めていたエドワードの表情が消える。
「異議が受理された直後、ドミナント派の者たちが集まったそうです」
私は手を止めた。
「ヴェラ様も?」
「いたとあります」
エドワードは一度、カルロス様を見た。
「その場にいた者の話では、公爵夫人は怒らなかったそうです」
「では?」
エドワードが紙を握り直す。
「笑って、『面白いわね』と」
部屋が静まった。
ヴェラ様が怒らなかったことの方が、私には不気味だった。
税で潰せないとわかって、それでも笑った。
なら、もう次を考えている。
そして今度は、領地ではなく別の場所を狙ってくるかもしれない。
税率引き上げの異議が受理された翌日、私は執務室で証拠の一覧を整えていた。
厨房から回収した粉の保管記録。圧縮魔導師への支払いを示す商会帳簿の写し。イリスの手記から転記した記述。ばらばらだったものが、ようやく一本の道になりかけている。
ただし、道が見えたということは、向こうからもこちらの位置が見えるということだ。
扉が開き、エドワードが入ってきた。いつも以上に足音が硬い。
「閣下。王都から知らせです」
カルロス様が顔を上げる。
「言え」
「ドミナント派とつながる男が、領主館の見取り図を探しています。特に書庫と、奥様の私室の位置を」
私の筆が止まった。
「私の部屋まで?」
「はい。金を渡して使用人を買収しようとした形跡もあります。王都の協力者が、その男が『記録を持っている女を先に黙らせる』と話していたのを聞いています」
室内の空気が変わった。
カルロス様が椅子を引いて立ち上がる。
「門と裏口の警備を倍にしろ。夜番も増やせ」
「承知しました」
「レティを守れ。書類より先だ」
名前を呼ばれたことより、その後の言葉に胸が詰まった。
「書類も大事です」
「お前が死ねば意味がない」
反論の余地が、きれいになくなった。
エドワードがほんの少し口元を緩めた気がしたが、私と目が合う前にいつもの無表情へ戻った。
「奥様には護衛をつけます」
「診療所にもですか」
「もちろんです」
どうやら私の自由行動は、本日をもって処方停止らしい。
夕方までに窓と通用口が点検され、見慣れた廊下にも騎士が立った。私は証拠の一覧を作り終え、日が落ちてから自室へ戻った。
けれど、眠れるはずもない。
机に灯りを置き、商会の記録をもう一度照合する。厨房への納品日と圧縮魔導師への支払日には、妙に近い時期がいくつもあった。
あと少しだけ。
そう思って頁をめくった時、扉が叩かれた。
「起きているのか」
カルロス様だった。
「灯りが見えた」
「もう少しで終わります」
「倒れるな」
「今日で終わります」
「今日だけとは思えないが」
痛いところを突かれた。
私は書類の山を見て、それから彼を見る。
「……では、一緒に消してください」
「何を」
「この山です。確認済みを右、未確認を左へ分けるだけでも助かります」
カルロス様はしばらく黙っていた。
追い返されるかと思ったが、彼は向かいの椅子を引いた。
「どれからだ」
それから二人で、黙々と紙をめくった。
カルロス様は細かな薬草の記述には首を傾げたが、領地の納品記録になると私より早い。私が日付を読み上げ、彼が帳簿を探す。時々、同時に同じ紙へ手を伸ばして指が近づき、そのたびにどちらともなく手を引いた。
妙に落ち着かなかった。
命を狙われているかもしれない夜に気にすることではないと思うのだけれど、人間の注意力は薬のように都合よく配分できないらしい。
やがて未確認の束が残り二枚になった。
「本当に消えましたね」
「ああ」
カルロス様が私の机の端へ温かい茶を置いた。いつ持ってきたのか気づかなかった。
「飲め」
「ありがとうございます」
湯気に指先を近づける。
窓の外は暗く、廊下には護衛がいる。危険がなくなったわけではない。それでも今だけは、不思議と怖くなかった。
カルロス様が何も言わず、そこにいたからだと思う。
その時だった。
寝台の脇で丸くなっていたクオが、突然顔を上げた。
白い耳が窓へ向く。
「クオ?」
次の瞬間、低い唸り声が喉の奥から響いた。
今まで一度も聞いたことのない声だった。
カルロス様が立ち上がる。
クオは窓の外を睨んだまま、牙を見せていた。
机の下で眠っていたクオが、ふいに顔を上げた。




