第28話 圧縮魔法の痕跡
ヴェラ様が去った翌朝、領主館の廊下からようやく冷気が消えていた。
カルロス様はいつもより長く暖炉の前にいたが、寒くないと言い張ったので、それ以上は触れないことにした。
私は厨房で見つかった粉の仕入れ経路を追うため、リンダの店を訪れた。帳簿には、香辛料を納めた商会の名が残っている。
「この商会、知っていますか」
名前を見せると、リンダの顔が曇った。
「最近できたところじゃないよ。けど、扱ってる品がころころ変わる。薬草も香辛料も、安く大量に集めてるって話だ」
「詳しい人は?」
「いるよ。カイって商人なら、ここらの薬草と王都の流通にかなり詳しい」
紹介されたカイは、市場の奥で乾燥薬草を選別していた。年は三十代半ばほど。私が事情をぼかして尋ねると、彼は例の粉を白い皿へ少量だけ出し、鼻先へ近づけた。
「これは普通に干したアルベリスじゃないですね」
「わかりますか」
「乾燥させたものなら、もっと香りが抜けます。これは青臭さが強すぎる。それに粒が妙に細かい」
カイは粉を指先では触らず、細い匙で押した。
「圧縮したものを砕いた感じに近いです」
「加熱せずに?」
「可能でしょう。圧縮魔法なら」
胸の奥が静かに重くなった。
私は生のアルベリスと焙煎済みの葉を見せた。カイは順に匂いを確かめ、粉へ視線を戻す。
「生の方に近い。ただ、粉の方はもっと濃いですね。普通に粉にしただけじゃ、ここまで匂いは残らない」
「圧縮したあと、砕けば」
「濃縮した粉にできます」
イリスの手記にあった、熱を通さなかったという疑問。
王都で見つけた、圧縮魔導師への不自然な支払い。
厨房に紛れ込んだ粉。
今まで別々だった記録の距離が、また縮まった。
「その魔導師の名前まで追えますか」
私が尋ねると、カイは少し考えてから頷いた。
「表の契約なら難しくない。ただ、こういう仕事は名前を隠すこともあります」
「隠していても、支払いは残ります」
「奥様、商人みたいなことを言いますね」
「薬師です。記録を見る癖があるだけです」
夕方までに、カイは二つの商会記録を見つけてくれた。
一つは厨房へ香辛料を納めた商会。
もう一つは、王都で圧縮魔導師へ報酬を払っていた商会。
名義は違う。けれど出資者を辿ると、同じ貴族の名前へ行き着いた。
ドミナント家の派閥に属する人物だった。
私は紙を見つめた。
まだヴェラ様本人の命令書があるわけではない。
けれど、圧縮魔法と厨房の粉を結ぶ道筋は、以前よりはっきりした。
領主館へ戻ると、カルロス様とエドワードが執務室にいた。
「どうだった」
カルロス様に聞かれ、私は記録を机へ広げた。
「粉は、加熱せず圧縮したアルベリスである可能性が高いです。厨房へ納めた商会と、圧縮魔導師へ金を払った商会は、出資元を辿ると同じ派閥へつながります」
エドワードの目が鋭くなる。
「ドミナント派ですか」
「はい。ただし、これだけでヴェラ様本人を指すことはできません」
「十分近づいた」
カルロス様が低く言った。
私は頷く。
「だからこそ、今は急がない方がいいです。相手が証拠を消す前に、こちらが先に固めます」
その時、扉が強く叩かれた。
ジルドが入ってくる。いつもの落ち着いた顔ではなかった。
「閣下。王都より急使です」
差し出された書状をカルロス様が開く。
読み終えた彼の眉間に、深い皺が刻まれた。
「何が?」
私が尋ねると、彼は書状を机へ置いた。
「ダンヴァル領の税率を、引き上げる動きが出ている」
エドワードが息を呑む。
私は書状へ手を伸ばした。
視察で押し切れなかったなら、今度は領地そのものを締め上げる。
ヴェラ様が帰って、まだ一日しか経っていなかった。
王都から届いた書状には、ダンヴァル領へ課す税を大幅に引き上げる案が記されていた。
理由は、収穫量の低迷と領地経営の不安定さ。改善の兆しがあるとはいえ、王国への納付能力を確保するため――文章だけなら、もっともらしい。
けれど、視察で提出した記録を読んだ者なら、今この時期に負担を増やせば何が起きるかくらいわかるはずだ。
「この提案者、ドミナント派ですね」
書状の末尾に並ぶ名を見ながら言うと、ジルドが頷いた。
「中心になっている三名は、いずれも公爵家と近しい方々です」
ヴェラ本人の名はない。
だから、彼女の命令だとは言えない。ただ、彼女が領地を去った直後に、彼女に近い貴族たちから税率引き上げの話が出た。それは記録しておくべき事実だった。
その日の午後、診療所へ行くと、薬包を運んでいたコリンが私を見つけて駆け寄ってきた。
「レティさん。税金、上がるんですか」
もう市場にも話が広がっているらしい。
「まだ決まっていませんよ」
「でも父ちゃんが、また畑を手放すことになるかもしれないって。うちは大丈夫ですか」
胸が詰まった。
水路を直し、畑を耕し、ようやく冬を越す見通しが立ち始めた家がある。今ここで税が増えれば、その小さな余裕から先に削られる。
「大丈夫にするために、今、調べています」
「ほんと?」
「はい。ですからコリンは、薬包を落とさないように運んでください」
コリンは両腕の箱を慌てて抱え直した。
「それは絶対やります」
「助かります」
笑って送り出したものの、約束した以上、調べるしかない。
領主館へ戻った私は、ジルドに税と収穫に関する古い台帳を出してもらった。
分厚い革表紙を開き、年度ごとの課税額と災害、収穫量を追う。見慣れない数字ばかりのはずなのに、別の記憶が引っかかった。
婚約していた頃、侯爵家の娘として必要だからと、貴族法の講義を何度も受けさせられた。
当時は、結婚後に役立つからと言われても半信半疑だった。薬草の名前なら喜んで覚えられるのに、税制の条文はなかなか頭へ入らなかったものだ。
それでも、嫌々覚えたものまで消えてくれるほど、私の頭は親切ではなかった。
「ジルドさん。貴族領の税率変更に対する異議の条文を確認したいです」
「異議、でございますか」
「はい。領地の実情と算定の根拠が一致しない場合、過去の課税記録と生産状況を添えて再審を求められたはずです」
書庫から法令集を持ってきてもらい、頁をめくる。
あった。
古い文体を三度読み直す。間違いない。
「この条文が使えます」
私は台帳へ手を伸ばした。
「ジルドさん。この領地で、以前にも収穫減少を理由に税率を変更された記録はありますか。その後、実情に合わせて再算定されたものです」
ジルドが別の台帳を開き、年代を遡っていく。
やがて、その指が止まった。
「……ありました」
差し出された頁には、三十年以上前の記録が残っていた。
一時的な凶作を理由に課税基準が見直され、その後の回復状況に応じて再算定された経緯。今回の案が、現在の改善記録をほとんど反映していないことを示す比較材料になる。
「これなら、異議を出せます」
口にした瞬間、肩から少し力が抜けた。
ジルドが私と法令集を交互に見る。
「奥様は、どこでこの条文を?」
「婚約者だった頃に読まされました。できれば二度と見たくないと思いながら」
「……なるほど」
ひどく納得された。
少し複雑である。
けれど、前世の薬学でも、特別な魔法でもない。
侯爵令嬢として受けた教育も、嫌々覚えた法律も、過去の私が積み上げてきたものだ。それが今、この土地の誰かの畑を守れるかもしれない。
私は必要な記録を抜き出し、異議申し立ての筋道をまとめた。
最後に書式を確認して、手が止まる。
「……ジルドさん」
「はい」
「正式な申立人は、領主本人でなければならないんですね」
「左様でございます」
紙の最下段には、ダンヴァル伯爵の署名と領主印を置く欄があった。
私はその空白を見つめた。
ここから先は、私の知識だけでは進められない。
王都へ異議を突きつけるのは、この領地の主であるカルロス様自身だった。
その時、書庫の扉の向こうで足音が止まった。




