第27話 ヴェラが来る
三日後の昼前、黒塗りの馬車が領主館の正門をくぐった。
まだ姿も見えていないのに、玄関広間の空気がひやりと冷えた。
季節のせいではない。扉の向こうから、薄い霜が床を這うような冷気が流れ込んでくる。
やがて侍従に導かれ、ヴェラ・ドミナントが姿を現した。
四十代とは思えないほど整った顔立ちに、隙のない微笑み。淡い銀青色のドレスの裾が揺れるたび、空気まで冷たくなる。
氷属性の魔法を使える人には、たまにこんなふうに冷気を常に身にまとっている人がいるが、ヴェラの冷気はその比ではなかった。
なるほど。挨拶より先にヴェラの得意魔法を推察できるとは思わなかった。
「まあ」
ヴェラは私を見るなり、目を細めた。
「ずいぶん素朴な奥様ですこと」
「はじめまして。レティツィア・ダンヴァルです」
笑顔で返す。
素朴が褒め言葉ではないことくらい、侯爵家で育ったのでわかる。ただ、初対面の相手の服装を診断項目に加える趣味はない。
隣に立つカルロス様が、わずかに肩を強張らせた。
もしかしたら、彼は寒さが苦手なのかもしれない。
普段から熱い茶を好み、食事も冷める前に口へ運ぶ。
その彼がヴェラの冷気の中で平然と立っているのだから、おそらくかなり我慢しているのだろう。
「お久しぶりね、カルロス」
ヴェラが親しげに呼ぶ。
カルロス様の眉が寄った。
「……以前、会ったか」
一瞬だけ、ヴェラの笑みが止まった。
けれど、すぐに元へ戻る。
「ええ。昔に何度か。あなたは相変わらずですのね」
「覚えていない」
容赦がなかった。
隣にいる私まで少し寒くなった気がしたが、たぶんヴェラの魔力のせいだけではない。
応接室へ移ると、ヴェラは視察について形式的な質問をいくつかした。水路の改善、診療所、薬草市場。私は必要な数字だけを答え、ジルドが記録を補足する。
けれど、ヴェラの視線は時々、資料ではなくカルロス様へ向いていた。
「領地も少しは持ち直したようですわね」
「まだ途中だ」
「あなたは昔から、無駄に諦めが悪いもの」
昔から。
その言葉に、私は顔を上げた。
カルロス様は気にした様子もない。
ヴェラは私へ視線を移した。
「そうそう。イリスのこと、ご存じでしょう?」
「はい」
「かわいそうな子でしたわ」
声は柔らかい。
けれど、その言葉には温度がなかった。
私は黙って続きを待つ。
「あの子は身体が弱かったのに、無理をしてお茶を作って。私もずいぶん助けてあげたのですけれど、結局は残念なことになりました」
助けてあげた。
イリスの手記には、ヴェラを「よくしてくれる人」と書いた箇所があった。
私の中で、その言葉と目の前の微笑みが重なる。
「イリスさんは、ヴェラ様に感謝していたようです」
「まあ。あの子らしいわ」
嬉しそうには見えなかった。
むしろ、当然だと言われたような響きだった。
ヴェラが身を乗り出す。
同時に、冷気が強くなった。
その瞬間、私の横にいたカルロス様が半歩前へ出た。
意識して動いたようには見えない。
ただ、私とヴェラの間へ、彼の肩が入る位置だった。
ヴェラの目が細くなる。
「奥様を、ずいぶん大切になさっているのね」
「視察の話は終わったのか」
カルロス様は答えなかった。
ヴェラは少し苦く笑い、椅子へ深く座り直す。
その後も会話は続いたが、私は内容より彼女の目を見ていた。
薬草の取引を話す時は冷静で、数字を聞く時は鋭い。
けれどカルロス様を見る時だけ、ほんのわずかに別の視線が混じる。
それが何なのか、まだ言葉にはできない。
夕方、ヴェラが客室へ向かうため立ち上がった。
「明日も領地を見せていただきますわ。せっかく来たのですもの、奥様ともゆっくりお話ししたいわ」
「喜んで」
そう答えると、カルロス様がこちらを見た。
止めたいのだろう、と顔に書いてある。
カルロス様は表情が乏しい人なのに、最近は少し読めるようになってしまった。
ヴェラが去ったあと、冷気だけがしばらく部屋に残った。
私は閉じた扉を見つめる。
薬草の利権を狙うだけなら、あの視線は必要ない。
イリスを哀れむだけなら、あの声の薄さも説明しにくい。
そして、カルロス様を見る時だけ変わる目。
まだ証拠はない。
けれど一つだけ、強く思った。
ヴェラ・ドミナントがこの領地に執着している理由は、薬草だけではない。
*
ヴェラが領主館に滞在して二日目の朝も、廊下は妙に冷えていた。
客室から離れた食堂まで、空気に薄い冷たさが残っている。本人が意識しているのかはわからないが、氷属性の魔力は隠す気がないらしい。
向かいのカルロス様は、いつもより大きな茶器を両手で包んでいた。
「寒いんですか」
「寒くない」
即答だった。
暖炉に近い席へ移り、熱い茶を両手で持っている人の言葉としては、かなり説得力が弱い。
「そうですか」
「……何だ」
「何でもありません」
本人が寒くないと言うなら、記録上は本人申告を尊重しておこう。観察結果とは全然一致していないけれど。
朝食後、ヴェラはエドワードたちの案内で薬草畑を見に出た。
私はその間にジルドを呼び止めた。
「少し伺いたいことがあります。ヴェラ様とカルロス様は、昔からの知り合いなんですか」
ジルドはすぐには答えなかった。
「閣下ご本人が、ほとんど覚えておられませんからな」
「そこが気になっています」
昨日のヴェラは、カルロス様を昔から知っている人の話し方をしていた。
それに対して本人は、本当に心当たりがない顔をしていた。
「ヴェラ様は若い頃から王都の社交界で目立つ方でした。ダンヴァル家が王都へ出た折にも、閣下とは何度か顔を合わせております」
「会話も?」
「ええ。ヴェラ様の方から、よくお声をかけておられました」
私は首を傾げた。
「あれだけ印象の強い方なのに、忘れたんですか」
「閣下は昔から、興味のない社交には驚くほど無頓着でして」
ジルドが珍しく困ったように笑った。
なるほど。
あの冷気を忘れるのは難しそうだと思ったが、カルロス様ならあり得る気がしてきた。
「ヴェラ様だけ、特別に親しかったわけではないんですね」
「少なくとも、私にはそのようには見えませんでした」
「ヴェラ様は?」
ジルドの表情が少し曇った。
「それは、私から申し上げるべきことではないでしょう。ただ……閣下が覚えておられないと知れば、愉快には思われないかもしれませんな」
昨日、一瞬だけ止まった微笑みを思い出した。
私は礼を言い、その足で執務室へ向かった。
カルロス様は暖炉の前で書類を読んでいた。やはり寒いのだと思う。
「幼い頃、ヴェラ様と何度か会ったそうですね」
「ジルドから聞いたのか」
「はい。覚えていますか」
カルロス様はしばらく考えた。
「……あったかもしれない」
「何か言われたことは?」
「さあ」
本当に覚えていないらしい。
「昨日、昔から変わらないと言われていましたよ」
「そうだったか」
「それも覚えていないんですね」
「覚える必要があるのか」
私は返事に困った。
ヴェラが聞けば、部屋の温度がさらに下がりそうである。
けれど、笑って済ませるには気になることが多すぎた。
薬草取引を自分の商会へ集めようとしたこと。統治不能の認定を利用して領地の管理権を握ろうとしているという噂。カルロス様の周囲で亡くなった五人との接点。そしてイリス。
利権だけが目的なら、もっと効率のよい方法があったのではないか。
領地を欲しいだけなら、カルロス様の周囲を少しずつ削り、死神という噂が育つのを待つ必要まであったのだろうか。
もちろん、まだ証明はできない。
けれど昨日、ヴェラがカルロス様を見る時だけ見せた目を、私は忘れられなかった。
「何を考えている」
カルロス様に言われ、顔を上げた。
「ヴェラ様が欲しいのは、本当にこの土地だけなのかな、と」
彼の眉が寄る。
「どういう意味だ」
「まだ説明できません。私の憶測です」
証拠のないものを、事実のようには言えない。
ただ、もし利権の他にも理由があるのなら。
その理由は、この土地ではなく、目の前の人に向いているのかもしれない。
夕方、ヴェラが薬草畑から戻ってきた。
玄関広間の温度がすぐに下がり、カルロス様がわずかに顔をしかめる。
ヴェラはそれを見て微笑んだ。
そして私へ視線を移した。
「レティツィア様。明日の朝、少しお時間をいただけるかしら」
「構いません」
「よかった。女同士、二人きりでお話ししたかったの」
その言葉に、隣のカルロス様がはっきりと眉を寄せた。
ヴェラは楽しそうに笑った。
冷気が、もう一段強くなった気がした。
翌朝、ヴェラ様に指定されたのは、南向きの小さな応接室だった。
日当たりのいい部屋なのに、扉を開けた瞬間、頬に冷気が触れた。暖炉には火が入っている。それでも窓の端には薄く白い曇りがつき、卓上の紅茶から立つ湯気も心なしか弱い。
ヴェラ様はソファに腰掛け、涼しげに微笑んでいた。
「来てくださってありがとう。二人で話したかったの」
「こちらこそ、お招きありがとうございます」
向かいに座る。
冷気は近づくほどはっきりした。氷属性の魔力をまとっていると聞いていたが、ここまで常時冷たいものらしい。薬草なら保存には便利そうだが、人間相手には少々温度設定が厳しい。
「あなた、魔力がないそうね」
「はい」
「それでよく、ここまで領地を立て直したものだわ」
褒めているようにも聞こえるし、珍しい虫を観察しているようにも聞こえた。
「私一人で立て直したわけではありません。必要な方法を考えて、皆さんに動いていただいただけです」
「でも魔法が使えなければ、不便でしょう?」
「別の方法がありますので」
ヴェラ様の指が、茶器の縁をなぞった。
「イリスも、似たようなことを考えていたのよ」
私は顔を上げた。
「あの子も、自分なりのやり方で人の役に立ちたいと言っていたわ。お茶を調合して、薬草を覚えて。けれど結局、あの子には限界があった」
声は穏やかだった。
だからこそ、その言葉の薄さが耳に残った。
「限界、ですか」
「身体が弱かったもの。できないことまで抱え込んで、最後には自分まで駄目にしてしまったみたい。かわいそうな子だったわ」
私は膝の上で指を組んだ。
イリスの手記には、最後まで自分の症状を調べようとした跡があった。ヴェラを疑う言葉はなく、むしろ感謝していた。
目の前の人は、そのイリスを「あの子」と呼ぶ。
親しみではなく、使い終えた品を思い出すような響きに聞こえた。
「イリスさんは、最後までお茶を大切にしていたと思います」
「そうね。真面目な子だったから」
ヴェラ様は微笑んだまま、ふと扉の方へ目を向けた。
その先の廊下を曲がれば、カルロス様の執務室がある。
ほんの一瞬だった。
けれど、薬草取引の話をしていた時とは違う目だった。
「カルロスも昔から、ああいう子には甘かったのよ」
「甘かった、ですか?」
「本人は気づいていないでしょうけれど」
冷気が少し強くなり、紅茶の表面から湯気が消えた。
「あなたも気をつけた方がいいわ。あの人のそばにいる人間は、なぜか不幸になるでしょう?」
指先が冷えたのは、部屋の温度だけではなかった。
死神領主の噂を、ヴェラ様は知っている。
知っていて、私の前でわざわざ口にした。
「そうでしょうか」
「怖くないの?」
「今のところは」
私が答えると、ヴェラ様の目が細くなった。
「面白い方ね」
「よく言われます」
本当は、それほど言われない。
けれど沈黙を譲る必要もなかった。
しばらくしてヴェラ様は立ち上がった。
「楽しかったわ。またお話ししましょう」
「機会がありましたら」
扉を開けると、廊下の壁際にカルロス様が立っていた。
濃い外套を着込み、腕を組んでいる。窓から離れた場所なのに、心なしか顔色が悪い。
「……何をしているんですか」
「通りかかった」
昨日から、たまたまと通りかかるの使用頻度が高い。
ヴェラ様はカルロス様を見ると、笑みを深くした。
「相変わらず寒がりなのね」
「用が済んだなら――」
「ええ。また後ほど」
彼女が離れるにつれて、廊下の冷気が少しずつ薄くなった。
カルロス様は私の顔を見る。
「何を言われた」
「魔力がないことと、イリスさんのこと。それから、あなたのそばにいる人は不幸になる、と」
彼の表情が硬くなった。
「くだらない」
「はい。ただ、気になることがあります」
私はヴェラ様が去った方向を見た。
薬草の利権を話す時、彼女は冷静だった。けれどカルロス様のことを口にした時だけ、言葉の端に別のものが混じった気がした。
領地が欲しいだけなら、あれほど個人へ執着する必要があるのだろうか。
まだ証拠はない。
けれど、ヴェラ様が狙っているものの中心にカルロス様自身がいるのではないか。私はその疑いを、もう無視できなくなっていた。
その日の午後、ヴェラ様は王都へ戻った。
馬車が門を出るのを見届けながら、私は隣のエドワードへ言った。
「たぶん、これで終わりではありません」
「私もそう思います」
「次の手を打ってくるなら、今までより直接的になるかもしれません」
エドワードが頷いた。
私は冷えた指を握った。
ヴェラ様がこちらを見に来たのなら、向こうも私たちがどこまで知っているか測ったはずだ。
そして今度は、こちらが証拠を掴む番だった。




