第26話 それぞれの準備
翌朝から、領主館の空気が変わった。
私は診療所の隣室にこもり、これまで集めた記録を並べ直した。厨房で見つかった粉、仕入れ先が変わった時期、亡くなった人たちの症状、イリスの手記、王都で確認した圧縮魔導師の雇用記録。
似ているから、怪しいからでは足りない。
誰が読んでも、どこから同じ結論へ辿れるのか。その順番が必要だった。
紙を一枚書き終えるたび、ジルドが新しい帳簿を持ってくる。
「こちらは五年前の香辛料の仕入れ記録です。納入業者の変更日も確認できました」
「ありがとうございます。変更前後で値段も比べます」
ジルドは頷き、今度は倉庫へ戻っていった。
エドワードは騎士たちを使い、商人や荷運び人から証言を集めている。厨房へ粉が入った経路と、亡くなった人たちが最後に接触した相手を洗い直すためだ。
カルロス様は王都の法律家と文書をやり取りし、証拠を正式に提出する場合の手続きを進めていた。
気づけば、私一人で抱えているものはほとんどなかった。
昼過ぎ、執務室へ資料を届けると、カルロス様は三通目の返書へ署名していた。
「これで、証拠を確保した場合にすぐ動ける」
「ずいぶん早いですね」
「遅いよりいい」
いつもの短い返事だ。
机の端には、私が作った分析書の写しが置かれていた。頁の角に細い折り目がついている。何度も読んだらしい。
私は少し迷ってから尋ねた。
「なぜ、ここまで動いてくれるんですか」
筆が止まった。
「ここまで?」
「法律家への連絡も、仕入れ経路の確認も、護衛の増員もです。私が調べたいと言い出したことなのに」
カルロス様は眉を寄せた。
「お前一人でやることではない。俺自身の問題でもある」
「でも――」
「少なくとも、すべて俺の領地の問題だ。俺が動く」
きっぱりと言われ、言葉が止まった。
正しい。領主なのだから当然とも言える。
それでも、胸の奥に残ったものは、理屈だけでは片づかなかった。
「……わかりました」
「無理をするな」
「それはもう聞きました」
「なら守れ」
念を押されてしまった。
執務室を出ると、廊下の壁際にエドワードが立っていた。書類の束を抱え、こちらを見ている。
「聞いていました?」
「少しだけ」
「最近、皆さん少しだけ聞く範囲が広いですね」
エドワードは否定しなかった。
私が通り過ぎようとすると、背後から低い声がした。
「閣下にとっては、領地だけの問題ではないと思いますが」
足を止める。
「どういう意味ですか」
「いえ。何でもありません」
「今の言い方で何でもないは無理があります」
「失礼しました。しかし、これ以上話すと閣下に怒られてしまいます」
目を伏せられた。
この屋敷の男性たちは、都合が悪くなると急に寡黙になるらしい。
追及しようとした時、正門の方から馬の蹄が響いた。
ほどなくして、ジルドが封書を持って廊下を急いでくる。
「閣下、王都より知らせです」
カルロス様も執務室から出てきた。
封を切り、文面へ目を走らせた彼の顔が硬くなる。
「何があったんですか」
カルロス様は書状を私へ渡した。
差出人の名を見た瞬間、指先が冷えた。
ヴェラ・ドミナント。
視察に関する確認を名目に、本人がダンヴァル領を訪れるという。
到着予定は、三日後だった。




