第25話 カルロスも標的だった可能性
市場から戻ると、私は生のアルベリスと焙煎済みの葉を診療所の机に並べた。
生の葉を折った時だけ、青臭さの奥に鉄を思わせる匂いが残る。焙煎した葉には、それがほとんどない。
ならば、以前どこかで嗅いだ同じ匂いも、加熱されていないアルベリスに由来するのかもしれない。
考えているうちに、一つの記憶が浮かんだ。
厨房の戸棚だ。
食事の材料を確認した時、香辛料の棚の奥から、ほんの一瞬だけ似た匂いを感じたことがある。
私はすぐに厨房へ向かった。
「奥様?」
料理人が驚いた顔をする。
「香辛料の棚を見せてください。全部です」
棚から瓶と袋を一つずつ出してもらう。胡椒、乾燥した香草、木の実を砕いた粉。鼻を近づけ、少量を白い皿へ移して確認していく。
奥に押し込まれていた小袋を開いた時、指が止まった。
青臭い。
そして、鉄に似た匂い。
私は袋を閉じた。
「これは何ですか」
「肉料理用の香辛料です。以前から納品されていたもので……」
料理人の顔色が変わる。
私は粉を直接触らず、別の皿へ少量だけ取り分けた。色は香辛料に紛れてわかりにくいが、鼻へ近づければ匂いは消えていない。
生のアルベリスを乾かして砕いたものと比べると、よく似ていた。
さらに少量だけを湯煎で十分に加熱すると、例の匂いは薄れていった。
胸の奥が冷える。
イリスの手記にあった記述と一致する。
私は料理人に、この袋をいつ、どの料理へ使ったのか帳簿を出してもらった。
肉料理や煮込みに使われ、葡萄酒へ入れることもあった。
しかしどれも、カルロス様が口にする前には火を通していたものだった。
あの人は冷たい茶を飲まない。食事も温かいものを好み、葡萄酒さえ香辛料と一緒に温める。
好き嫌いだと思っていた習慣が、別の意味を持ち始める。
もしこの粉が未加熱のアルベリスを圧縮したものなら、料理へ混ぜられていても、加熱の段階で危険な成分が弱まっていた可能性がある。
だから、カルロス様は生きている。
そして私は、最近ずっと同じ食卓で、同じ温かい料理を食べている。
自分の指先が冷たくなっていることに気づいた。
「仕入れ先は」
「こちらです」
差し出された帳簿を追うと、その香辛料だけ途中から納入元が変わっていた。聞き覚えのない商会名だった。
偶然かもしれない。
けれど、死者たちとヴェラの接点に加え、イリスが残した記録と圧縮魔法の雇用記録があり、そのうえ領主館の厨房から加熱前のアルベリスに酷似した粉まで見つかった。
もう、見過ごせる重なり方ではない。
私は袋を封じ、誰にも使わせないよう料理人へ頼んだ。
その日の夕食前、食堂へ向かう廊下でカルロス様の姿が見えた。
いつも通りの顔で、いつも通り温かい茶を持っている。
知らないまま、何年も同じ習慣を続けてきた人。
私は足を止めた。
伝えなければならない。
この人は、死神ではなかった。
むしろずっと、誰かに殺されかけていたのかもしれない。
食堂へ入る前に、私はカルロス様を呼び止めた。
「少し、お話があります」
いつもの食卓ではなく、執務室へ移る。机の上に、厨房から回収した粉の袋と、イリスの手記の写し、王都で控えた圧縮魔導師の記録を並べた。
カルロス様は黙って、それらを見た。
「厨房の粉は、生のアルベリス――敗血草にかなり似ています。しかも、加熱される前のものです」
「俺の食事に入っていたのか」
「香辛料に混ぜられていました。いつからかは、まだ調べきれていません」
彼の顔から、わずかな色が消えた。
「では、なぜ俺は」
「おそらく、加熱です」
私は答えた。
「あなたは昔から、冷たい食事も飲み物もほとんど口にしなかったそうですね。料理も茶も葡萄酒も温めていた。その過程で、敗血草の危険な性質が弱まっていた可能性があります」
カルロス様の視線が、机の粉へ落ちる。
「……俺は、ずっと毒を盛られていた、と?」
「その可能性は高いです。ただ、誰が命じたのかを証明する証拠は、まだありません。私は、ヴェラさんを疑っていますが」
「イリスは」
その名前だけで、声が変わった。
「どこまで知っていた」
「ほとんど何も知らなかったと思います」
手記を開き、ヴェラについて書かれた箇所を示す。
「ヴェラさんについても、最後まで『よくしてくれる人』と書いています。自分の症状と敗血草の関係には気づきかけていました。でも、誰かが意図的に飲ませているところまでは辿り着いていません」
カルロス様は動かなかった。
やがて、机の端を掴んだ手に力が入った。
「……うまくまとまる前に死んだ」
低い声だった。次の瞬間、拳が机を叩いた。
「何もわからないまま、利用されて、判明する前に死んだのか」
初めて聞くほど大きな声だった。
怒鳴られたのは私ではない。それでも部屋の空気が震えた。
私は何も言わなかった。
ここで「あなたのせいではありません」と言っても、今の彼には届かない気がした。
しばらくして、カルロス様が両手で顔を覆った。
「俺は、俺のそばにいたから皆が死ぬと思っていた」
その声は、先ほどよりずっと小さい。
「だから人を遠ざけた。それでも死んだ。イリスも。……違ったのか」
「少なくとも、あなたが命を奪っていたわけではありません」
私はそう答えた。
「むしろ、あなた自身が狙われていた可能性があります」
長い沈黙のあと、彼は顔を上げた。
そして今度は、私を見た。
「お前は?」
「はい?」
「お前も、同じものを食べていた」
私は一瞬、言葉を失った。
「可能性はあります。ただ、私はここへ来てからあなたと同じ温かい食事を取ることが多かったので、もし混入されていたとしても――」
「そういう話ではない」
遮られた。
灰色の目が、怖いほどまっすぐ私を見ている。
「お前も狙われていたのか」
「……可能性は、あります」
カルロス様は目を閉じた。
「そうか」
短い言葉だった。
けれど、いつもの「そうか」とは違った。
机の上の粉を見る時より、イリスの手記を見る時より、その顔は険しかった。
私はその理由を尋ねなかった。今はまだ、確かなことだけを積み上げればいい。
「証拠を集めます」
私が言うと、カルロス様は目を開けた。
「厨房の仕入れ経路、圧縮魔導師とのつながり、死者の記録。推測ではなく、誰が見ても否定できない形にします」
「一人でやるな」
「はい」
今度は素直に頷いた。
翌朝。
執務室へ呼ばれると、机の上に王都宛ての封書が三通並んでいた。
「これは?」
「信頼できる法律家へ連絡した」
「もうですか」
「証拠を集めるんだろう」
カルロス様は、それだけ言って次の書類を開いた。私に何も告げず、もう動いていた。
その横顔を見ながら、私は気づいた。
戦う相手を探すだけでは足りない。
今度は、この人と同じ側に立って戦うのだ。




