第24話 イリスの手記
――敗血草。
その文字を見たまま、私は頁をめくれなくなった。
名前の下には、イリス自身の症状が書かれている。手足の痺れ、ひどい疲労、身に覚えのない痣、傷の治りにくさ。先日照合した死者たちの記録と、重なるものがあった。
「カルロス様。イリスさんは、自分の体に起きていることを調べていたようです」
「……何と書いてある」
「敗血草の副作用に似ている、と」
カルロス様の眉が寄った。
「敗血草?」
「もう少し読ませてください」
その次の行だけ、紙へ食い込むほど強い筆圧だった。
――でも私は適切な量を適切な飲み方でしか使っていない。なぜ。
私は息を整えた。
使った薬草の量、茶に混ぜた日、体調の変化。途切れながらも、イリスは確かめようとしている。亡くなる間際まで、ただ苦しんでいたわけではなかった。
そして欄外に、小さな走り書きが残されていた。
――十分に加熱すれば副作用が出ないはずだ。
その下の文字はさらに乱れている。
――茶ではないかもしれない。何か別のものに、敗血草が。
背中に冷たいものが走った。
加熱。
頭の中で、これまで別々に置いていた記録が近づいた。
リンダが見たという、青臭く鉄に似た匂いの粉。王都で見つけた圧縮魔法の使い手の雇用記録。
圧縮魔法なら、煮詰めなくても素材を濃縮できる。
もし敗血草に熱で弱まる性質があるなら、加熱しないまま濃縮されたものは、普通に茶へ使う時とはまるで違う作用を示すかもしれない。
まだ推測だ。
それでも、探す方向は変わった。
私は続きをめくった。
最後の頁には、震えた文字が一文だけ残っていた。
――カルロスに渡したいものがある。でも、まだうまくまとまっていない。
その先は白紙だった。
カルロス様が息を呑んだ音がした。
「……それだけか」
「はい」
短い言葉だった。
私は手記へ視線を戻した。
カルロス様を責める言葉はない。助けてほしいという訴えもなかった。
ただ、自分の身に起きていることを調べ、その結果を彼へ渡そうとしていた。
まとまらなかったのではない。
まとめる時間が残っていなかったのだ。
「俺は」
声がして顔を上げる。
カルロス様は手記を見つめていた。
「あいつが何か言おうとしていたのに、何も聞かなかった」
「イリスさんも、確信できていなかったんだと思います」
「それでもだ」
拳が固く握られている。
私は慰める言葉を探さなかった。あの時こうしていれば、と考え始めれば、いくらでも自分を責められる。けれど、過去に戻れない以上、今できるのは残された記録を読み切ることだ。
「カルロス様」
「なんだ」
「この続きを、私たちで調べてもいいですか」
灰色の目が私へ向いた。
「イリスさんが何を飲んでいたのか。敗血草が本当に加熱で変わるのか。あの粉と関係があるのか。まだ確かめる必要があります」
しばらくして、カルロス様がゆっくり頷いた。
「……頼む」
「はい」
私は手記の記述をノートへ写した。
確かめるなら、まず現物を見るべきだ。
市場には、薬草を知り尽くしている人もいる。
私は筆を置き、もう一度カルロス様を見た。
「カルロス様。敗血草を、知っていますか」
私の問いに、カルロス様は眉を寄せた。
「いや。聞いたことがない」
古い呼び名か、限られた場所で使われる名なのかもしれない。手記に残った文字だけでは判断できなかった。
翌朝、私は護衛を一人伴ってリンダの店へ向かった。
市場には乾燥した薬草の香りが満ちている。店先で袋を積んでいたリンダは、私を見るなり腰へ手を当てた。
「今日は何を探してるんだい」
「敗血草はありますか」
リンダは一度目を瞬かせ、それから「ああ」と頷いた。
「古い呼び方だね。今はアルベリスって名で売ってるよ」
棚の奥から出てきたのは、茶色がかった細い葉だった。鼻先へ近づけると、香ばしい匂いがする。
「焙煎されていますね」
「そりゃそうさ。この方が保存も利くし、茶にして飲むのが普通だからね。滋養がつくって昔から飲まれてるよ」
「生のまま使うことは?」
「わざわざしないねえ。青臭くてまずいし、生で食べたり水に浸しただけのものを飲んだりすると、腹を壊すとか体がだるくなるとか、昔から言われてるんだよ」
私はイリスの手記を思い出した。
十分に加熱すれば副作用が出ないかもしれない。
単なる思いつきではなかったのかもしれない。
「これを、加熱せずに濃くする方法はありますか」
「普通は無理だろうね。煮詰めりゃ熱が入る。干したって、この辺の日差しならかなり温まるし」
指先が止まった。
「圧縮魔法なら別ですか」
「圧縮魔法?」
リンダは首を傾げた。
「んーー。詳しくは知らないが、腕のいい術者なら、熱を使わずに薬草を圧縮できるかもね。聞いた話じゃ、粉にするだけじゃなく、中身ごとぎゅっと小さくするような呪文があるらしい」
王都で見た雇用記録が頭に浮かんだ。
ドミナント家と関係する商会から報酬を受け取っていた、圧縮魔法の使い手。
私は鞄からノートを出した。
「生のアルベリスを見られますか」
「見るだけなら、その辺にあるよ」
リンダが店の脇を指差す。
石壁の根元に、細長い緑の葉がまとまって生えていた。市場で売られていたものより瑞々しく、茎は柔らかい。
しゃがみ込み、葉を一枚摘む。
指先で軽く折った瞬間、匂いが立った。
青臭い。
その奥に、微かな鉄のような匂いが混じっている。
息が止まった。
「……リンダさん」
「なんだい」
「以前話していた変な粉。暗殺ギルドで出回っているという粉の匂いを、もう一度教えてください」
「前にも言っただろ。青臭くて、鉄みたいな変な匂い――もしかして、それが生のアルベリスの粉だったってことかい?」
「……今、その可能性を考えています」
私は手の中の葉へ視線を落とした。
水源の近くで感じた匂い。
イリスの棚に残っていた匂い。
そして、リンダが見たという正体不明の粉。
似ている。
まだ同じものだとは断定できない。けれど、調べるべき対象はもう曖昧ではなかった。
「この薬草、少し分けてもらえますか。焙煎したものと、生のものを別々に」
「構わないけど、何するんだい」
「匂いと性質を比べます。生の方は口にしません」
「それは絶対に口にしちゃいけないね」
珍しく強い口調だった。
帰り道、私は包みを鞄の中で分け、何度も紐を確かめた。
もし、あの粉が生のアルベリスを加熱せず圧縮したものなら。
イリスが書き残した言葉にも意味が生まれる。
そしてもう一つ。
私は足を止めた。
カルロス様は、冷たい茶を飲まない。
食事も、必ず温かいものを口にする。
あの人だけが長年続けてきた習慣が、急に別の形を帯びて見えた。




