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婚約破棄された薬師令嬢ですが、死神伯爵の妻になった結果、毒殺陰謀を暴きながら不器用な夫の溺愛を向けられることになりました  作者: NIKE


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第21話 視察の準備と、敗血草の匂い

 視察団が来るまでのあいだ、記録の整理と現場の確認が続いた。


 私は朝から市場へ向かっていた。診療所で使う薬草の補充も必要だったが、視察で薬草取引を見られるなら、現場の流れを自分の目で確かめておきたかった。


 市場はいつもより騒がしかった。荷車が行き交い、乾燥させた葉や根を詰めた籠が軒先に積まれている。リンダの店先へ着くと、彼女は大きな袋を抱えたまま私を見た。


「奥様、今度は何を調べてるんだい」


「今日は買い物です」


「買い物って言っても、奥様のことだ。どうせただの買い物じゃないんだろう?」


 当たりすぎていて否定はできなかった。


 私は診療所で不足していた薬草を伝え、リンダが棚から取り出すものを一つずつ確認した。乾燥具合も香りも問題ない。帳簿の仕入れ先も、これまで見た記録と一致していた。


 その途中、リンダがふと思い出したように言った。


「そういや最近、妙な粉の話を聞いたよ」


「妙な粉?」


「青臭くてさ。鉄みたいな匂いがするんだってさ」


 私の手が止まった。


 青臭くて、鉄に似た匂い。


 水路の上流で、腐敗臭の奥に混じっていた匂い。イリスのハーブティーの棚で、一瞬だけ感じた匂い。


 同じだと決めるには早い。けれど、忘れていい言葉でもなかった。


「その粉を見たことはありますか」


「あるよ。少し前に、うちで扱ってないか聞きに来た男がいてね。見本だって小袋を開けたんだ。ひどい匂いだったから覚えてる」


「何に使うものだと言っていました?」


「それが、まともな薬じゃなかったらしいんだよ」


 リンダは声を落とし、店の外へ目をやった。


「あとで小耳に挟んだんだけど、暗殺ギルドみたいな連中の間で出回ってる危ない薬だって話さ。少量でも体をおかしくするとかなんとか。ま、詳しいことまでは知らないよ」


 私はノートを開いた。


 青臭い。鉄に似た匂い。粉末。用途不明。裏の市場で流通している可能性。


 書いたところで、答えが出るわけではない。


 前世の薬剤師として知っている毒物にも、すぐ一致するものはなかった。この世界には魔法があり、薬草にも前世には存在しなかった性質がある。知識があるからこそ、知らないものまで知ったふりをするのは危険だった。


「その男の顔は覚えていますか」


「そこまではねえ。粉の匂いがひどかったから、そっちばかり覚えてるよ」


 私は聞いた内容の横に印をつけた。


 リンダがこちらを覗き込み、眉を上げる。


「何か心当たりでもあるのかい」


「まだありません」


「まだ、ね」


「心当たりを作る前に、記録しておくんです」


 リンダは少し呆れたように笑った。


「奥様らしいねえ」


 店を出る時、買った薬草の包みが思った以上に重かった。抱え直そうとすると、後ろから伸びてきた手が半分を持っていった。


 振り返ると、カルロス様だった。


「いつからいたんですか」


「今来た」


「本当に?」


「……市場の入口からだ」


 今、の範囲が広い。


 彼は私の返事を待たず、薬草の包みを抱えて歩き出した。


「何かあったか」


「妙な粉の話を聞きました。青臭くて、鉄に似た匂いがするそうです」


 カルロス様の足がわずかに遅くなった。


「危険なものか」


「わかりません。だから記録しました」


「触ってはだめだ」


「触りません」


「近づくのも禁止だ」


「実物がなければ調べられません」


 彼が止まった。


 灰色の目が、ひどく嫌そうに私を見る。


「調べるなら、先に俺かエドに言え」


「……わかりました」


 納得したというより、これ以上言うと薬草ごと連れ帰られそうだったので頷いた。


 その日の夕方、領主館へ戻ると、正門の方が騒がしかった。


 馬の嘶きと車輪の音が、次々に石畳へ入ってくる。


 窓から外を見たジルドの表情が固まった。


「閣下。予定より早いです」


 黒塗りの馬車が三台、王家の紋章を掲げて正門をくぐってくる。


 視察団が、予定より三日も早く到着したのだ。


 先触れもなく来たわけではない。けれど、こちらが整える時間を削るには十分だった。


 黒塗りの馬車から降りてきたのは五人。先頭の王領監査官は、挨拶を終えるより先に領主館の外壁へ目をやった。


「随分と傷んでいますな」


 カルロス様の眉がわずかに動く。


「領地の視察に、壁の美しさも含まれるのか」


「統治の状態は、建物にも表れますので」


 最初から好意的ではないらしい。


 私は口を挟まず、抱えていた記録簿を持ち直した。


 視察は水路から始まった。


 監査官たちは上流の修繕箇所、町の水場、診療所、畑の試験区画まで順に見て回った。水路へ澄んだ水が流れているのを見ても、感心した様子はない。


「改善した、と?」


「修繕前は下痢や腹痛を訴える家が多くありました。修繕後、同じ区域では減少しています」


 私は記録を開き、日付と件数を示した。


「奥方の思い込みではなく?」


「診療記録です」


 監査官の口元が少し硬くなった。


 診療所でも同じだった。


「魔力を持たないあなたが薬を?」


「はい」


「効果をどう証明するのです」


「投薬前後を記録しています。コリンさんのお祖父様は、夜間の咳で五度ほど目覚めていましたが、現在は一度か二度です。診療を受けた方全員が改善したとは申しません。変化がなかった例もこちらに残しています」


 都合の悪い数字も隠さず差し出すと、今度は王宮薬師が記録を覗き込んだ。


「……失敗例まで?」


「失敗例を書かないと、また同じ失敗をしますので」


 彼だけは、少し興味を持ったようだった。


 最後に畑へ移る。


 試験区画では土が以前より柔らかくなり、麦の根も伸び始めていた。けれど、領地すべてが蘇ったわけではない。


 監査官は遠くの痩せた土地を指した。


「改善は認めましょう。しかし、基準に満たない区域が残っています」


 想定していた言葉だった。


「はい」


「反論しないのですね」


「ないとは言いきれません」


 私は別の帳面を開いた。


「ただし、水路の修繕後に利用可能となった農地は増えています。作付け可能な面積も、患者数も、必要な物資も、すべて改善前と比較することができます」


 ジルドが古い台帳を差し出し、数字の出所を補足する。


 最後にカルロス様が王家の印章入りの書類を受け取った。


 私が見立て、ジルドが記録を支え、カルロス様が領主として正式に受け取る。


 いつの間にか、それが私たちの形になっていた。


「本日のところは、改善努力があったことを認めましょう」


 監査官は言った。


「ですが、最終判断は保留とします。次回視察までに、残された課題を解決していただきたい」


 帰り支度を始めた一行の中で、最後まで畑を見ていた貴族がいた。


 胸元の徽章は、王都の派閥貴族のものだった。


 すれ違いざま、その男が微笑む。


「ドミナント様も、この領地にはたいそう注目しておられます」


 足が止まった。


 私ではなく、カルロス様の。


 ほんの一瞬だった。


 けれど、私は見逃さなかった。


 視察団の馬車が門を出たあと、私は受け取った書類を開いた。


 改善済みの項目の下に、未達成として一つの区域が記されている。


 何度手を入れても作物が根づかない、あの土地だった。


 私は顔を上げた。


「視察団が残した課題とは、あの区域のことですね」


 隣で、クオが低く鼻を鳴らした。


 そして白狐は、誰も呼んでいないのに、その土地の方角をじっと見つめていた。

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