第20話 ヴェラの名前
「……イリスの知り合いだった」
カルロス様の声は低く、食堂に残っていた朝の穏やかさを押し退けた。
私は父の手紙とライホールドの手紙を重ね、食卓の端へ寄せた。
ヴェラ・ドミナントという名を口にしただけで、彼の表情がこれほど変わるなら、無関係な相手ではない。
「どのような知り合いだったんですか」
「イリスが王都で茶の調合をしていた頃に知り合った。ヴェラは、あいつの茶を貴族へ広めてやると言っていた」
「実際に、広めたんですか」
「ああ。注文を取り次ぎ、茶会にも呼んだ。それで、一気に社交界で注目されるまでになり、イリスは感謝していた」
カルロス様はそこで言葉を切った。
温かい薬草茶の湯気が、二人の間を細く上っていく。イリスが途中から茶の味が変わったと言っていたこと、亡くなる直前まで何かを調べていたことが、また頭に浮かんだ。
「ヴェラさんは、この領地にも来たことがありますか」
「イリスが嫁いだ直後に一度。薬草の取引について話したいと言っていたが、断った」
「なぜですか」
「条件が悪かった。こちらの薬草を安く買い取り、加工と販売をドミナント家の商会へ任せろという内容だった。利益の大半は向こうへ流れる」
私はノートを開いた。
薬草取引で不利な条件を出したヴェラが、イリスの茶を貴族へ広めた。その二人が、同じ時期にこの領地と関わっている。
まだ一本の線にする材料はない。けれど、父がわざわざドミナント公爵家と対立するなと書き、ライホールドの新しい婚約相手がヴェラの姪である以上、偶然として棚へ戻すには少し重い。
「その人物が、今この領地を狙っている可能性はありそうですね」
カルロス様の目が細くなった。
「なぜそう思う」
「わかりません」
即答すると、眉間の皺が深くなった。
「わからないのか」
「はい。証拠もありません。ただ、父が牽制にもドミナントの名が登場し、同時期に元婚約者から手紙が来て、ヴェラさんとイリスさんとの接点まで見つかりました。今は疑うのではなく、記録しておく段階です」
「記録して、何がわかる」
「何もわからないかもしれません。その時は、関係がなかったという結論に近づけます」
疑わしい者を先に犯人へ仕立てるのは簡単だ。けれど、答えを決めてから証拠を探せば、都合のよいものしか見えなくなる。
カルロス様はしばらく黙り、冷めかけた茶器へ手を伸ばした。
私は反射的にその手を止めた。
「冷めています」
「まだ温かい」
「湯気がありません」
「……冷めた茶は嫌いだが飲める。俺はもう子供じゃない」
「普段は冷たいものを徹底して嫌がるのに、急にムキにならないでください」
カルロス様は私の手を見た。正確には、彼の手首を押さえている私の指を見た。
「……今だ。解毒薬を……」
「そんな。必要ありません……カルロス様は毒ではありません」
カルロス様が、あまりに真面目くさった表情で言うのがツボに嵌まり、私は僅かに笑ってしまったのを隠せなかった。
そして、静かに手を離した。
診察ではない場面で触れたことに今さら気づいたが、指摘すると余計に不自然になりそうなので、茶を取り替えるよう使用人へ頼んだ。
新しい茶が届く前に、食堂の扉が叩かれた。
入ってきたジルドは、銀盆の上に王家の紋章で封じられた書状を載せていた。
「王都より、急ぎの知らせでございます」
カルロス様が封を切る。読み進めるにつれて、灰色の目が冷えていった。
「何が書かれているんですか」
「王都から視察団が来る」
「視察ですか」
「領地の統治状況、税収、衛生、農地、薬草取引を確認するそうだ」
確認する項目だけ聞けば、特別に不自然ではない。けれど、カルロス様は書状を机へ置き、低く吐き捨てた。
「領地のことを難癖をつけて取り上げようとする連中だ」
ジルドの顔からも穏やかな色が消えていた。
王家は、統治が困難になった領地へ視察団を送り、領主に改善命令を出すことができる。
改善の見込みがないと判断されれば、管理権の一部を王都へ移される場合もある。侯爵家婚約者時代に読まされた領地法の条文が、嫌な形で記憶から戻ってきた。
「到着はいつですか」
「二十日後だ」
余裕があるとは言いにくい。けれど、明日ではない。
「視察団の責任者は」
カルロス様が書状の末尾を見た。
「王領監査官と、農務官、王宮薬師。それから、ドミナント派の貴族が二人入っている」
そこに、ヴェラ本人の名はない。
それでも、背中へ冷たいものが触れた。
父の牽制は、視察団の話を知っていたからかもしれない。ライホールドの手紙も、私が王都へ呼び戻される可能性を見越したものなら、時期が重なった理由は説明できる。
ただし、それもまた推測だ。
「難癖をつけられるなら、現状を隠しますか」
私が尋ねると、カルロス様は鋭い目を向けた。
「隠しても見つかる」
「そうですね、隠すことは難しいです」
水路は改善したが、すべての区画が安全になったわけではない。
畑も試験区画を作った段階で、収穫が増えた実績はまだない。患者の症状も、全員が治ったわけではなかった。
悪い数字を消せば、その一か所を突かれた時に全体の信用を失う。
「改善前と改善後を分けて記録します。水路の水質、診療所を訪れた人数、症状の変化、食事指導を始めた家、畑の試験区画。失敗した対策も残してください」
「失敗まで見せるのか」
「何を試して、なぜ変えたか説明できれば、失敗は放置とは違います。数字と日付があれば、難癖をつけられても事実で返せます」
魔力はない。王都に強い後ろ盾もない。
それでも、観察したことを記録へ変えることはできる。
私が前世から持ってきた、もっとも地味で、もっとも信用している方法だった。
カルロス様はしばらく私を見つめたあと、ジルドへ向き直った。
「倉庫の台帳をすべて出せ。水路の修繕記録、診療所へ回した物資、農地の収穫量もだ」
「かしこまりました」
「エドワードには各村の聞き取りをさせる。誇張するなと伝えろ」
ジルドが一礼し、すぐに動き出した。
その日の午後、診療所の隣にある小部屋が記録整理の部屋になった。
運び込まれた帳面は、机の上だけでは収まらず、床へ箱ごと並べられた。
古いものは革表紙が乾き、触れるだけで細かな粉が落ちる。文字の癖も単位も年代ごとに違い、見ただけで肩が凝りそうだった。
「これは十年前の薬草出荷台帳です。こちらは各村の死亡記録、こちらが水路の補修費でございます」
ジルドは一冊ずつ説明しながら、必要な頁へ細い布を挟んでいった。
「よく残っていましたね」
「閣下は、結果の出なかった試みも捨てるなと仰いました。いつか役立つ者がいるかもしれない、と」
私は古い補修記録を開いた。
そこには、カルロス様が置かせた石の種類、煙を焚いた時刻、作業人数、その後の患者数まで残されている。
方法は正しくなかった。けれど、何も考えずに儀式を繰り返していたわけではない。
比べる知識がなかっただけで、残そうとはしていたのだ。
「奥様のお役に立てれば」
ジルドが静かに言った。
その言葉だけで十分だった。
最初に領地を案内してくれた時、彼は私を客人として扱っていた。今は同じ机へ帳面を並べ、領地を守る側の人間として場所を空けてくれている。
私は新しい紙へ項目を書き出した。
年月日、場所、問題、対策、費用、結果。
数字にできない領民の声は、証言者の名と一緒に記す。
コリンの祖父が夜に起きる回数、畑へ出られるようになった日、水路を使った家で腹痛が減った件数。小さな変化でも、積み重ねれば流れになる。
夕食を挟み、作業は夜まで続いた。
窓の外が真っ暗になっても、帳面の山は低くならない。むしろ、確認するほど追加で必要な記録が増えていく。
記録整理というものは、片づけるほど散らかる時期がある。
灯りの芯を切り、私は古い死亡記録へ目を落とした。
側近五人の記録も、この中にある。
視察への準備を優先すべきだとわかっているのに、頁をめくる指が止まらない。
亡くなった時期、症状、直前の仕事。薬草取引や王都との接点がないか、余白へ印をつけていく。
廊下から足音が聞こえた。
一定の歩幅で近づき、部屋の前で止まる。
私は顔を上げなかった。
この足音を聞き分けられるようになった自分を、少し不思議に思う。
カルロス様は扉の向こうにしばらく立っていた。声をかける気配があり、けれど扉は叩かれない。
やがて足音は遠ざかった。
それから少しして、ジルドが温かい茶と軽食を運んできた。
「閣下からですか」
尋ねると、ジルドは穏やかに微笑んだ。
「夜更かしには温かいものが必要かと」
答えになっていない。けれど、答えるつもりもないらしい。
私は湯気の立つ茶を一口飲み、視察団から届いた確認項目をもう一度開いた。
水路でも、畑でも、診療所でもない。
最初の視察先として指定されていたのは、薬草市場だった。
ヴェラが欲しがったという、この領地の薬草を扱う場所である。




