第十二話〈地獄〉
鬱蒼とした森を抜け、湿地帯を抜け出したオーヤの前方に、複数のヤコウオオカミが見えた。
また、複数頭のヤコウオオカミ。しかも、先程のものとは別個体。
その、ヤコウオオカミが囲んでいるまさにその中に、子供がいた。ミルと、もう一人。2人だ。
いや。
2人は、倒れていた。
そして今度は……血が、見えた。見えて、しまった。
その光景が目に入った途端、オーヤは後先考えずにヤコウオオカミの中に突っ込んでいた。
先程とは違う。森の香りに混じって、血の匂いが充満している。ヤコウオオカミ達は既に興奮状態。
『待っ……!』
息を切らしながらも、何とかオーヤの背後についてきていたアリシアの静止も、今だけはオーヤの耳には届かない。
もう、無我夢中だった。
「やめろぉぉぉぉ!!!!!」
オーヤの叫びに、ヤコウオオカミが反応する。
もう分かっている通り、ヤコウオオカミは、ただの獣ではない。
摩訶不思議な異界の地で鍛えられた強靭な肉体と、それにも勝る強固な魔力。
オーヤの絶叫にも怯まず、寧ろオーヤに対し、牙を剥く。
食事の邪魔をされたヤコウオオカミの対応はただ一つ。邪魔者を、排除する。
オーヤは、ヤコウオオカミの群れに突っ込みながら、しかしどこか頭の中は冷静だった。
先程の一幕でよく分かったが、オーヤはヤコウオオカミに対して何もできない。バヤルフ達の援護も、ここまで届くかは分からない。そして、先程アリシアがヤコウオオカミ達を惑わせた謎の力。
恐らく、魔力だろう。アリシアが、何かしたのだ。しかし、その効果も恐らく切れている。感覚で分かる。
だから、この突撃は無駄に終わる。
オーヤは、死ぬ。
オーヤがミンチになっている間に、照明弾を見たホルゼや、戦士達が来ることを祈ろう。
全力で呼び掛ければ、もしかすればテレパシーがホルゼにまで届くかもしれない。ホルゼが来れば、こんなオオカミの群れなど、大したことはないのだ。
実際には、思考は一瞬で、結果は即座に訪れた。
バゴン
気がつけば、オーヤは地面に転がっていた。アリシアのテレパシーが頭の中で鳴り響くが、何を言っているのかいまいち分からない。頭が割れるように痛む。
「うぐっ……」
必死で抵抗する。飛びかかってくるヤコウオオカミ達。もう、訳がわからないまま、無我夢中で手足を動かし、ヤコウオオカミの顔を蹴る。
実際には、数秒のことだったのだろう。しかし、隣に転がるミルを見たところで、もうそこからはよく覚えていなかった。
「ミ……ル…………?」
返事はない。色を失った空虚な瞳と、涙の跡が残る苦悶の表情が、オーヤを見つめるだけ。
ミルの身体から、血が流れている。命が、溢れていくのが分かる。
ダメだ。
助けないと。
ミル。
ミル。
ミル。
ピチャリ。
オーヤの身体が、ミルの血で染まる。
ミルの残滓が、魔力が、オーヤに染み込んでいく。
黒銀の輝きが、見えた気がした。
「きゃぁぁぁぁ!!!」
お腹の、食いちぎられるような痛みで泣き叫ぶ。
お母さんから聞いていたのに。森に入ってはいけません。ヤコウオオカミが出るから。そして、“主”が来るからと。
でも、神樹様の近くはアムテルで守られているから、大丈夫だと聞いていたのに。“扉”が開けば、ホルゼちゃんがいなくなっちゃう。アリシアも、オーヤも、里から出て行ってしまう。
オーヤはホルゼちゃんはついていかないって言っていたけど、ホルゼちゃんはついて行く気満々だった。見れば分かるよ、それくらい。
“扉”。それが実際何なのかは、分からなかった。でも、周りのアムテルが震えているのが分かる。里の近くに、アムテルが集まって行く。きっと、そこに“扉”は開く。もう、何日も無い。
だから、神樹様にお願いしに行った。神樹様は、ご先祖様と繋がっている。だから、困った時はご先祖様にお願いして、助けてもらうんだって。
みんなに話したら、みんなもホルゼちゃん達が遠くにいっちゃうのは嫌だって、そう言ってた。
お母さん達と神樹様のところへ行った時はすぐだったし、道もバンダが分かるって言ってるし。大丈夫。大人達に言うと、止められちゃうし、何より大人達はホルゼちゃん達が“扉”を潜るのを応援してる。
でも、そんなの嫌だ。いいじゃん、里で皆んなで暮らせば。オーヤも、そういうふうに言ってたもん。だから、ご先祖様にお願いするの。お願いします、“扉”が開かないようにお願いします、って。
(あぁ、痛いなぁ。私、死ぬのかなぁ。)
でも、森の中をいくら歩いても、神樹様のところには着かなかった。
バンダは何も言わなくなっちゃうし、何人かはもう帰るって来た道を戻っていっちゃった。
「ねぇ、バンダ、まだ着かないの?」
「う、うん。今日はちょっと遠回りの道使っちゃったみたい。もうすぐ着くよ」
「そう? シロンちゃん、もうすぐ着くって」
「もーう。バンダ君、さっきもそう言ってたよ? おかしくない? 長老様と行った時はもっと早く着いたのに! もうヤシロ君とカナちゃん帰っちゃったよ?」
「だ、大丈夫だよ! 安心して!」
「そうだよシロンちゃん。シロンちゃんもオーヤ達、帰っちゃうの嫌でしょ?」
「そうだけど、ミル……」
来る時は7人だったのに、ヤシロ君とカナちゃん、それにソニ君とノエル君も帰っちゃった。後は私と、シロンちゃんとバンダだけ。
「じゃあ、ちょっとだけ休憩する?」
「うん……」
「バンダ、休憩!」
「分かったよ」
3人で地面に座り込む。ご先祖様に早くお願いしなくちゃ。ご先祖様、“扉”、閉じてくれるかなぁ。
シロンちゃん、ちょっと疲れたのかな。眠そうに目を擦ってる。バンダは相変わらず難しい顔してる。ちょっと面白い。あ、でも、私もちょっと眠くなってきちゃったかも。
「バンダ、ちょっと眠くなってきちゃった……」
「うん、分かった……シロンとちょっと休んでてくれる? 僕はこの先の道を偵察してくるよ」
「うん、気をつけてね……」
木の根元に腰掛け、そっと、目を閉じる。大丈夫。ちょっと遅くなっちゃったけど、今日、夜ご飯オーヤ達と一緒に食べるまでには帰れるんだから。
/#€°+*\☆………………
クチャクチャ…………
「んん……?」
何か、変な音がする。
あれ、寝坊しちゃったかも……。
ちょっと焦って目を開ける。この感覚。朝、寝坊してお母さんに怒られるやつと一緒。オーヤ達とのご飯、間に合わないかも……
「シロンちゃん……?」
目を開けてまず飛び込んできたのは、真っ黒い毛の塊。動いてる。何だろう。
と、そこで地面が濡れていることに気がついた。何だかヌルヌルもしている。
少し薄暗くなった森の中。
よく見れば……
「あ、れ……?」
ヤコウオオカミが、シロンちゃんを食べていた。
強烈な、“死”の匂い。
急激に、現実へと引き戻される。
「きゃぁぁぁぁ!!!」
助けて、オーヤ! 助けて、ホルゼちゃん!
急いで立ち上がって走り出す。どっちに行けば分からない。怖い。唸り声がする。シロンちゃんが、シロンちゃんが……
「あっ!」
何かに躓いて、地面に投げ出される。
「痛い……」
でも、逃げなきゃ。
地面に手をついたら、そこもグチャグチャに濡れていた。
「!!!!」
もう、声も出ない。
そこには、誰かの頭が転がっていた。
走ろうとして、立ち上がれない事に気がつく。
足を見る。
無い。
血が。
「きゃぁぁぁぁぁ!!!」
ヤコウオオカミ。
血。
ヤコウオオカミ。
頭。
血。
死体。
ヤコウオオカミ。
死。
私。
死。
死。
死。
……。
…………。
「ホルゼ、ちゃん……?」
「…………」
「ごめんね、私……勝手に森に入っちゃって……」
「…………」
暗がりを抜けると、そこには血塗れで悲しそうな顔をしたホルゼちゃんがいたの。
後ろには、息を切らしたアリシアさん。
「“扉”が開いたら、ホルゼちゃん達、向こうに行っちゃうんでしょ? でも、私、ホルゼちゃんと一緒にいたくて……」
『ソレデ、シンジュノトコロニイッタノカ……』
「うん。ごめんね。でも、もう勝手に森に入ったりしないから。ありがとう、来てくれて……」
『イイヤ。コッチコソ……ゴメンナ……マニアワナクテ……』
ホルゼちゃんが、涙を流す。どうして、泣いてるの?
ホルゼちゃんは、こうして助けに来てくれた。間に合ったのに。
あれ?
ホルゼちゃん、私を見てない。
私の、手の方を見てる。
そういえば、何か重い。
私、何を持ってるんだろう。
腕の中を見れば、そこにはミルの亡き骸が静かに収まっている。
理解、できない。
だって、私はここにいるのに。
『ゴメンナ、ツライオモイサセテ……。オーヤ、モウイインダ。ソレイジョウノマレルナ。モドッテコイ』
「…………」
そう。
私は、ミルじゃない。
オーヤ。
ようやく自分が戻ってくる感覚。遠くの方から、散らばったカケラを集めるように。自分を、取り戻していく。
涙が、止まらない。
ミルの記憶が留まることなく流れてくる。
「あぁ……」
声が震える。
あぁ、ミル。ごめんよ。もっと、生きたかったな。
腕の中に抱えた、昨日までよりずっと軽くなってしまった美しい金髪の少女は、もう二度と、自らの力で動くことはない。
「オーヤ……」
「アリシア……無事か……?」
「うん……大丈夫?」
「あぁ、すまん……」
命が溢れたミルの身体は、まるで羽のように、どこかへ飛んでいってしまいそうだった。
ミルの記憶に呑まれ、自分が押し流されてしまっていた間も、意識はあった。ミルの遺体を発見し、抱き抱えた瞬間にホルゼがやってきて、ヤコウオオカミ達を屠ったようだ。
うろ覚えだが、魔剣を抜いた本気のホルゼは、凄まじかった。あの、複数人のヤコウオオカミ達を圧倒していた。やはり、魔剣持ちは、別格らしい。
何とか、オーヤとアリシアは生き残った。しかし、失われた命はもう戻っては来ない。
「ソレイジョウノマレルナ。オマエ、カエッテコレナクナルゾ」
「いや、もう大丈夫だ……俺が、連れて帰る……」
「ソウカ。コドモタチハゼンインシボウガカクニンサレタ。ミルデサイゴダ」
「そう、か……」
未だ、頭の中は混乱している。血液から記憶を取り出すレセプターの力。複雑怪奇な理解不能の能力。オーヤはオーヤなのか、それともミルなのか。もう、よく分からない。でも、もう帰らなきゃ。
(おうちに、帰らなきゃ……)
ミルの身体を、ご両親のところに、返さなきゃ。
どうやら、計器が全て誤作動を起こし、ヤコウオオカミの侵入が察知出来なかったらしい。
しかし、計器が作動しないにしても、ヤコウオオカミの群れがここまでやってくる事など、通常は有り得ない。
だが、彼等はやってきた。
エルフ達には、その理由に心当たりがあるらしい。しかし、それには対処不能のようで、里の住民達は本格的に居を移す準備を始めるようだ。
皆、ヤコウオオカミの大移動には口が重くなる。
理由は誰も、語りたがらない。
だが、ホルゼが一言だけ教えてくれた。
『ヌシ、ダヨ……』
アトキントの森。
恐ろしい、ヤコウオオカミの住む、魔の森。更に、森の奥深く。ヤコウオオカミさえ恐る、異形の怪物が、目を覚ます。
“扉”が開くまで、もう猶予はない。
「帰ろう、里に……」
子供達を失った悲しみ。ずっしりと、鉛のように胸に支えて流れない。
「何だか、疲れたな……」
「今日は、ゆっくり休もう?」
「あぁ……」
「…………」
ホルゼの頬に残る涙の跡が、薄暗い森の中でもやけにはっきりと、オーヤの目に残る。
「あ、雨だ……」
その夜、アトキントの森にはこの季節には珍しい、大量の雨が降った。まるで、森に広がった悲しみを、押し流してしまうかの如く。雨は、一晩中、降り続けた。
ミル……




