マリア先生の研究
朝食が終わり、俺は1時間ほどで、午前の仕事を片付けた。
まぁ、仕事といっても、大変なものではなく、掃除と洗濯だ。その洗濯も、引きこもりがちなマリア先生一人分なのだから楽ちんだ。
「マリア先生、何か飲みますか?」
とりあえず、仕事に区切りがつき、休憩を取る。
ついでに、依然として、執務机で眉にしわを作りながら、ノートPCをカタカタする、マリア先生に尋ねる。
「あーーそうだなぁ、また、コーヒー頼む」
目線はパソコンの液晶のままに言う。
「わかりました」
朝、喫茶店で購入したものとは別の元から、戸棚にしまっていたコーヒーの粉を取り出し、5分ほどでコーヒーを入れる。
カップ二つを持って、執務机の正面にあるソファーに座る。
「はい、どうぞ」
「サンキュー」
マリア先生は受け取り、一口すする。
「やっぱり、ちゃんとしたお店の奴の方が美味しいな」
そう呟いて、パソコンの作業に移る。
女性に使う言葉として、正しいかは分からないが、身長が高く、比較的大柄なマリア先生が、背中を丸めて、カタカタとキーボードを叩く姿は何故だか、笑えてしまった。
「あはは」
「何笑ってるんだよ?」
パソコンに集中していると思っていたが、しっかりと俺の事を認識していたらしく、気味悪そうに尋ねてくる。
「いや、自身満々なマリア先生が背筋を丸めて、パソコンに向き合っているのが、なんでか面白くて」
俺は特に隠さず、正直に答える。
すると、辞書ほどもある分厚い紙の資料が飛んできた。
「いたっつ!?」
「あんま、舐めてると殴るぞ」
「もう、殴ってますよ」
俺はぶつけられた頭を撫でながら抗議する。
マリア先生は、懐から紙煙草を取り出し、マッチで灯す。
「大型youtuberの裏方みたいに、調子こきやがって」
うわっ、なんかそういわれると、途端に自分の発言が嫌になった。
「すみません。馴れ馴れしくし過ぎました」
「いや、別にそれが嫌だとは言っていない」
「え?」
それじゃあ、なんで、物投げられた。
「ただ、イラッてきた。
別に、馴れ馴れしくされるのが嫌なわけではないがな。
正直、私は年下というか他人と接するのが苦手なんだ。だから、すぐ、攻撃と口撃で返してしまう。そこのところは、どうか寛容な心で見逃してほしい」
難しすぎるだろ。せめて、攻撃はやめてほしい。今後は気を付けよう。
「ふぅ、私も少し休憩するか。この後、会議もあるしな」
俺が一人、覚悟を決めているとマリア先生も休憩にするらしい。
煙草を燻らせながら、窓の外の東京湾を眺めていた。正直、あまりきれいな海ではないが、それでも、人の心を落ち着かせ、鷲掴みにする。そんな不思議な力が海にはある。
お互い沈黙し、数秒海を眺める。
と、そういえば、気になっていたことを思い出す。
「マリア先生って、確か大きな研究をしているって言っていましたけど、具体的に何を研究しているのですか?」
ずばり、尋ねる。一応、俺にも関わる事だから、気になっていたのだ。
「ああ~そういえば、ユウゴにはまだ、話して無かったっけ」
「はい」
「よし、解説してやるよ。
もしかしたら、お前にも研究を手伝ってもらうかもしれないしな」
大きく煙草を吸い、吐き出すと、立ち上がる。
部屋の隅にあったホワイトボードを動かし、俺の目の前までやって来る。
カッカッカっと、ホワイトボードに、力強い文字で『アルツハイマー病の治療薬の研究』と書かれていた。
「ここに書いてあるように、私は現在アルツハイマー病の治療薬開発に携わっている。
アルツハイマー病については、どれくらい知っている?」
「基本的なことは、知っています。
おおざっぱに言えば、認知機能低下の病気ですよね」
「ははは、大分おおざっぱに捉えたな」
マリア先生は笑う。
「確か、今現在、これといった治療薬はなくて、もし生み出すことが出来れば、確実にノーベル賞を取れると言われていますよね」
「ああ、そうだ。その偉業に私は挑戦している」
自信満々に、マリア先生は頷く。
何だか、機嫌が良さそうに見えたが、気のせいだろうか。
「ふむ、あまりアルツハイマー病についても詳しくなさそうだし、最初から解説してやろう」
そういって、マリア先生は簡単に簡易的な脳みその図を書く。
「簡単にいえば、脳の神経細胞が死滅して進行する病気だ。
通常、死滅した神経細胞は、もとにもどることはなく、アミロイドβが大脳皮質に沈着して、老人班がうまれる。こいつが悪さをして、シナプスでの神経伝達を弱まらせるとしている。また、神経原線維の変性やアセチルコリン作動性ニューロンの脱落により、脳が委縮していく。それは海馬や側頭葉、前頭葉と広範囲に及び、その結果として、記憶障害や実行機能に障害が起こるんだ」
息継ぎなしでされた解説に目を白黒させる。
途中から、難しい言葉やカタカナが登場して、分からなくなってしまったが、まぁ、つまり、脳神経細胞が死滅する事から、全てが始まるのだという事は分かった。
「そして、今現在の科学ではアルツハイマー病の根本治療にまで、たどり着けていない。主に、対処療法がおこなわれているのみだ。それも、精度は上がっているが、完全に治すまでは行っていない」
「そこで、マリア先生が根本治療法を確立してやろうという事ですね」
マリア先生は、ああ、と頷いた。
「二つある薬物療法と非薬物療法があるが、私は前者の薬物療法を選んだ。
やはり、人体の事だからな。体の外から治すのもいいが、内側から治す方が手っ取り早く、効果覿面だと思った」
「へぇ~~」
「おい、何だよ、その反応。
もっと、なんかないのかよ」
「いや………」
しっかりと考えられているのだと思った。
それと同時に、益々すごい人といるのだと実感した。俺なんかが、気軽に触れ合っていいような人物ではないのだ。歴史に名を遺すかもしれないような人物なのだから。
一人、勝手に落ち込んでいる中で、マリア先生は唐突に立ち上がる。
「ヤバい!?」
机の上に散らばる筆記用具を集める。
「私はこれから、会議があるから、私が会議から戻るまでに、その散らばった資料は綺麗に直して、机に置いておけよ」
「いや、自分で散らかしたんじゃないですか」
「あぁ!うるさい、お前がやれ」
それだけ言って、足早に部屋を出ていった。
「ひどすぎる」
思わず、悪態が出る。
しかし、すぐに安心した。
あの人も人間なのだ。どれだけ、天才で名を遺すような人物でも、その中身や人間性、性格は人間であり、AIではない。それをなんとなく感じた。
マリア先生の傲岸不遜な態度は、まぎれもなく欠点だが、それがその人の人間性から来るものであれば、愛しいように思えた。
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マリア先生が去ってから、静かになった部屋で一人、粛々と資料を回収する。
幸い、そこまで枚数がない為、時間は掛からなそうだ。
黙々と、資料を回収する。
エアコンが稼働する音が部屋を支配する。窓の外では相変わらず、ギラギラと輝く太陽が東京湾を照らしていた。一通り、エアコンが響き終えた頃に――
「んっ?」
一枚の資料に目が留まった。
なんてことはない、科学の資料。他の物と変わりなく、紙一面にビッシリと文字や図、分析結果が並んでいる。
だが、何かがおかしい。何かが違う。
その紙の資料には、『相対性加速と時間跳躍の関連』と書かれていた。
「…………」
手を止め、うんうんと頭を悩ましていると、すぐに分かった。
そうだ。分野が違うのだ。
それぞれが嚙み合っていない。
この研究所は、主に軍事分野を研究しており、現在マリア先生が取り組んでいる分野は医療、そして、この資料から分かる分野は物理学だ。
何一つ、一致しない。それとも、俺が分からない所で、この三つは繋がっているのだろうか?
例えば、武器に転用するのだろうか?
考えられるのは、それくらいだ。
武器なんてものは、どのようなプロセスであれ、科学であればいかようにも武器に転用する事が出来るのだから。しかし、それでは途方もない可能性に満ち溢れている。いくら考えても切りがない。しかも、それらは、確かな証拠の上に成り立つものではないのだから、まったく意味がない。
「分からん」
どれだけ考えても、分からない。答えが出るはずもない。
一切、思考するための材料がないのだから。
「やめよう。時間の無駄だ。」
呟いて、立ち上がる。
マリア先生が会議に生き、20分ほどが経過した。マリア先生が戻ってくるまで、まだまだ時間はある。
休憩がてらに屋上で、ジュースでも飲もう。
そんなことを考えながら、俺は研究室を出た。




