戦地隔離堤防
走った。ただ走った。何にも追いかけられているわけではない。強いて言うならば、現実から必死に逃げ去る様にして、ただただ走った。そして無我夢中に走ってたどり着いた先は壁だった。ちょうど戦争が始まった5か月前に建てられた戦地隔離堤防と呼ばれる壁だ。文字通り、戦地と居住区を隔離するために政府が建設したもので、戦争倫理会から送られて来た映像は堆いこの壁の向こう側のものだ。それを友順は知ってこの場所に立っている。
「はぁ…はぁ…」
荒い息を立てながら、あたりを見回す。まずはとっさに目がついたドラム缶の上によじ登る。だが、齢10歳の少年がドラム缶の上に立っただけでは、もちろんのこと届くはずもない。
「く…くそぅ…」
この壁の向こうに彼がいる。彼に会いたい。会えばわかるはず。会えばきっと、きっと。彼が約束を守っているということが分かるはず。あの映像が、あんな映像が嘘だとわかるはず。その一心で懸命に壁の向こう側に手を伸ばそうとするも、とても届きそうにはない。
「…く…くぅうう…」
そのまま叶わない両の手をコンクリートの壁に爪を突き立てて、振り下ろす。爪がめくれ上がって血が滲み出るが、そんな痛みなど友順にはどうでもよかった。そして今度は固くざらざらした壁を柔い拳で殴りつける。そうするたびに自分の指の皮膚が裂けて血が出るだけだというのに、何度も何度も拳を叩きつける。
「くそぉ! くそぉ!」
灰色の壁に小さな赤茶けた血痕がついたが、結局状況は変わりもしない。やがてすすり泣く声が夜のとばりの中に木霊した。
「おい…何やってんだ」
突如として友順の背中を懐中電灯のまばゆい光が照らし出す。眩しくて血で滲んだ手の甲で目を覆わなければまともに振り返れないほどだ。指の隙間から、かすかに覗き見る、真っ白にピンボケした世界の中に友順は見覚えのある顔を見つけて安堵する。
「…なんだ、明夫か…」
「なんだとはなんだ? 人がせっかく心配して来てやったんだぞ」
苦言をひとつ漏らし、壁の向こうの闇空へと懐中電灯の光を差し向ける。
「…この壁を超えるつもりか?」
「……分から…ない…」
つい先ほどまで友順は、その壁を越えようと我を忘れて必死になっていた。だが、いざ問いただされると分からなくなってしまう。この壁の向こうにある真実に少しだけ恐怖を感じているのだ。もし、彼が約束を忘れてしまっていたりしたら。彼に約束を守るつもりなど毛頭なかったとしたら。最初から、結局彼は、人を殺すための機械でなかったとしたら。そう考えてしまえば、途端に壁の向こうに伸ばしていた血にまみれた手をだらりと垂らし、ずきずきと走る痛みをこらえて頭を垂れるばかりとなってしまった。
「…俺は…お…俺は…」
「俺は…なんだ…?」
言葉に詰まってしまっている友順を、明夫はさらに問い詰める。だが、どうにもつまってしまい、口をつぐんだままでいる。明夫はひとつため息をつき、ドラム缶の上でうずくまる友順のすぐ横で、壁にもたれかかる。
「壁にぶち当たったとき、どうするか知っているか?」
「……どうすればいいんだよ…」
「自分が一番イヤなことを考えるんだ」
「…いやな…こと…?」
「ああ」
まだ今ひとつ意味を掴みかねている友順に向かって、明夫はさらに続ける。
「この壁の向こうにあいつはいるんだろ?」
「…うん…」
「お前はあいつを信じたいか?」
友順がこくりと頷く。親友として約束を交わしたのだ。あの映像を見たからと言って彼を切り捨てることはできない。あのときに見た、約束を交わしたときの彼の瞳を友順は覚えている。そして、彼が約束を破る様な奴ではないということも友順は知っていた。
「だったら、お前にとっても、あいつにとっても一番イヤなことはなんだ?」
「……、ここに…いること…」
「ここでずっと…壁の中で手をこまねいたまま…
何もしないでじっといること、ジョーのことを疑ったり信じたりしながら
結局何も得られずに…ここで燻っていること…それが…一番辛い…」
「じゃ、決まりだな」
そう言うと、明夫は友順の手を引いてドラム缶の上から下ろし、代わりに明夫がドラム缶の上によじ登る。そして、しゃがみこんで友順に向かって手を差し出す。
「…一番イヤなことを避けること、そうならないために
やらなければならないことを迷わずここで実行するんだ
それが…壁を乗り越える方法だよ」
差し伸べられた右手を友順が力強くがしりと掴む。明夫が一思いに友順を引き上げると、そのまま友順を背中に負ぶって立ち上がる。明夫の肩の上で、壁に寄りかかりながら友順は立ち上がり、ついに壁の縁を掴んだ。明夫が潜り込んで友順の両足を手の平で押し上げる。縁によじ登り、友順は壁を乗り越えた。向こう側の縁にぶら下がり、ゆっくりと下に飛び降りる。遅れて明夫が独力でドラム缶の上から飛び上がって、壁の縁によじ登り、壁の向こう側に降り立つ。そして自らが着ていた黒いコートで友順に覆いかぶさり、ふたりして闇のとばりにまみれた。
「いいか、この壁の中は何層かに別れている」
なにも先ほど乗り越えた壁が戦地隔離堤防の全貌ではない。
明夫は壁のことを熟知していた。これも戦争倫理会の幹英から得た情報によるものだ。壁を乗り越えると、砂利道を隔てて、大きな溝があり、それを超えた先に有刺鉄線の柵がある。さらに、そこを超えると番犬のつながれた見張り小屋があり、その向こうに再び有刺鉄線の柵と壁があるのだという。複雑で何重にも障害物が張り巡らされたその構造は、歴史書に載っていた某国の壁と酷似していた。壁の本当の向こう側に行くのは容易な話ではないが、それを成し遂げれば軍隊のベースキャンプまではそう遠くないという。
ベースキャンプには、ギヤマンが待機している格納庫があるはず。戦地に出向いていなければジョーはそこでメンテナンス作業や、燃料補給を受けているはずだ。流石に戦火の真っただ中に友順を送り出すことはできないが、そこまでなら明夫は連れて行ってやると言い出した。
友順の親友を助けたいという意思を尊重してのことだ。砂利道を石の一粒一粒を四つん這いで掴んで歩くように進んでいく。砂利は歩く際の足音を増幅させるためのものだ。脚や手で意思を転がしてしまうことがないよう細心の注意を払いながら、右手、右脚、左手、左脚と四肢を一本ずつ慎重に動かしていく。続く溝では、明夫が橋となり、その背中を友順が渡る。有刺鉄線の柵は、明夫の着用していた分厚い革製の黒ずくめのコートが役に立った。柵の隙間に革コートを挟み込んで、ちょうど子供がひとり入れるくらいのパイプをつくる。その中を友順がくぐるといった具合だ。
「……」
有刺鉄線の柵を越えたところで、友順がふと立ち尽くす。あることに気づいたからだ。自分の身体は小さく、柵の隙間を縫って出ることができた。だが、明夫はどうだろう。明夫の背丈、胴の太さは成人男性の中でもどちらかと言えば大きい部類に入る。子供一人がやっと這い出れる様な隙間を、明夫が通り抜けることなどできるとは到底思えない。
「…明夫は…どうするの?」
ふてくされたような笑みを漏らしながら、「俺はここまでだ」と返す明夫。そして、さらに向こう側にある有刺鉄線のために革のコートを友順に託す。そうすると今度はこれが最後の仕事だと小声でつぶやいて、指笛を吹きならして先ほどの砂利道で拾った小石を、見張り小屋の犬に向かって投げた。
小石は思惑通り犬の注意を奪い、指笛を耳で捉えて吠えはじめる。それとともにわざとらしく足音を立てながら明夫は走り始めた。そんな明夫を友順は振り向きもせずに置いてきぼりにする。頬を濡らして歯を食いしばりながら。
「どうだ? B76機の様子は?」
「…相変わらず異常抵抗が消えないな」
ふたりの軍服を着た男性がオシロスコープに映し出された波形を眺めて首をかしげている。オシロスコープとはブラウン管を通して電気回路を流れる振動電流の波を可視化する装置のことで、電気工学の分野でよく使われている。オシロスコープは、鉄でできた人型の機械につながれていた。そう、戦地で戦う鉄の兵隊、ギヤマンの頭部に。この軍服を着たふたりの男性はギヤマンのメンテナンスを担当する技術者ということらしい。
「奇妙な話だな。他のギヤマンではそんなものは見られないのに」
ギヤマンは四肢を動かす動力こそ蒸気機関だが、思考演算に使われる脳回路は真空管とトランジスタを組み合わせて作られている。
従って、一部をオシロスコープに接続することで、さながら脳波測定の様な事が出来てしまうのだ。脳波を測定し、さらに脳回路にパルス波発信機を接続する。そして脳波に対応する逆向きの波を発信機で与えてやれば、脳波は消失する。
この作業を通じて戦いを終えたギヤマンの脳から不必要な記憶を消し去るのだ。
記憶の消去によって思考演算に必要な容量を確保しておく。そうすることで脳回路のパフォーマンスを一定に保つというわけだ。ギヤマンが戦争をし続けるにあたって必須と言えるこの作業に、B76機は抵抗していた。
パルス波をちょうど逆向きに与えたとしても、瞬間的に脳波の形状が変わってしまう。パルス波発信機から脳回路に波が伝わるまでナノ秒単位のずれがある。そのわずかなラグのうちに波形が変わったというのだろうか。だがそんな瞬間的で離散的な変異を可能にする電子部品は脳回路には使われていない。もとよりそんな電子部品は存在しない。B76機にだけ見られるこの異様な現象を技術者は異常抵抗と呼んでいた。
「一度、音声変換器につなげてみるか」
ふたりの技術者はオシロスコープとはまた別の機械に、B76機の脳回路をつなぎかえた。
「まったく、戦争が始まる前にギヤマンの記憶は逆パルスで
すべて消去したんだ。こんなノイズがあったんじゃ、容量が圧迫される」
音声変換器とはその名の通り、脳波を直接音声として変換する変換器のことだ。原理的にはラジオとよく似たものだ。見てくれも似通っており、ステレオチャンネルのスピーカーと周波数調節ダイヤルがついている。
周波数を脳波にシンクロさせることが出来れば晴れてスピーカーから脳波を音声として取り出せるというわけだ。そうすれば少しはこの異常抵抗の原因が分かるかもしれない。スピーカーのノイズがクリアになる一瞬の隙間にぴたりと周波数を合わせる。
…ザザ…ト…ザザ…モ…ザ…ガー…ブ…ノ…ザー…リ…ブツッ…ゴ…
よくよく聞いてみれば、ノイズに混じって明らかなシグナルが感じ取られる。
……ザ…ザザ…トモ…ガー…ブ…ザザ…ノ…ザー…リ…ブ…ゴメ…ブツツ…
ようやくつかめてきた、周波数はこのあたりだろうか。
…ザ…トモ…ノリ…ガー…ザザ…ゴメン…
「…トモ…ノリ……ゴメン…」
確かにそう聞こえた。
「とものり? 誰だそれ…」
「知るかよ、くだらないものが残存記憶として残ってるんだろ
どうせ、戦地に向かうただの木偶だ。この脳回路は差し詰め
リサイクルする価値もない不良品と言ったところだろう」
「じゃ、スクラップにでもしておくか」
当然、技術者には思い当たる節はない。結局、異常抵抗の正体は掴めず終いかと思ったそのとき、格納庫の扉が開いて月明かりが挿しこんで来た。
「…誰だ…?」
戦争倫理会の取り決めを無視した不届きものか。不届きものは、戦犯とみなされ発砲許可が下りる。それを踏まえたうえで護身用の銃を構えるふたりの技術者。重たい鉄の扉が開いて月明かりの中にやけに小さい影が現れる。
「…友順だ…」
「ああ?」
小さな影は、先程音声変換器から聞こえて来た名前をそのまま名乗った。それを聞いて技術者は、小ばかにされたような気になって食い気味の返事を投げかける。影はぎりりと音が鳴るほど歯を食いしばり、ひん剥いた口から白い歯をのぞかせる。乾いた血の付いた拳が握りしめられるとともに、青い静脈が浮き出てどくどくと波打つ。影は静かな怒りに震えていた。
「…誰が木偶だ? 誰が不良品だ?
…そいつは木偶でも不良品でもない、ましてやB76機なんて名前じゃない!
そいつの本当の名前は…ジョー…俺の大切な友達だ」




