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平井さんは俺の目の前に、すっと片手を差し出した。
「な……」
どうやら、この手に自分の手を重ねてみろということらしい。
いやいや、待て待て。視てみるって……そんな簡単に幽霊が見えるようになるもんなのか? 手を重ねるだけで? そんなの、さすがに無理があるだろ。
疑いの目を向ける俺に、平井さんは相変わらずにこにこしている。
こっちが何を考えているのか、全部お見通しとでも言いたげな顔だ。
けれど、ふと思った。
ここまで疑っている俺に、どうして平井さんは迷いなく手を差し出せるんだろう。
適当なことを言っているだけなら、もっと曖昧に誤魔化すんじゃないか。実際に見せてくれなんて言われたら困るはずだ。
なのに、平井さんは少しも動じていない。差し出された手も、俺を見つめる瞳も、妙に落ち着いていた。
「……」
思わず唾を飲み込む。手を重ねるか、否か。
もし本当に、今まで見えなかったものが見えるようになったら? これまで散々否定してきた幽霊という存在を、自分の目で確かめられるとしたら……。
そんなこと、あるわけがない。そう思う一方で、あの夜の出来事が頭をよぎった。誰もいない場所で勝手に開いた自動ドア。防犯カメラに映っていた灰色の影。そして、何かに首を締め付けられた、あの感覚。
どれも、まだ納得のいく説明がついていない。いつもの俺なら、からかわないでくれと笑って済ませていただろう。でも、今は少し違った。夜勤にもようやく慣れてきたところで、暇な時間にあれこれ考える余裕もできている。
そんな時に、目の前の人から「幽霊を見せてあげる」なんて言われたら、気にならないわけがない。
半信半疑。いや、疑っている気持ちの方がずっと強い。それでも、確かめられるものなら確かめてみたいと思った。
「……じゃあ」
俺はおそるおそる手を伸ばした。
が――。
指先が触れる寸前、平井さんがさっと手を引っ込めた。
「……え?」
行き場を失った俺の手が、宙に浮いたまま止まる。
目の前では平井さんが、口元を押さえてくすくす笑っていた。
「なーんてね!」
「……」
ああ……なるほど。
からかわれたんだな、俺。
「平井さん、それはちょっと酷くないっすか……?」
思わず肩を落とす。なんだよ、あの自信満々な顔。危うく信じかけたじゃねえか。
「だって袴田君、すっごく興味ありそうだったんだもん。えへへ」
「いや、そりゃ気になりますよ。あんなこと言われたら」
まったく、油断ならない人だ。
結局、どこからどこまでが冗談だったのかは教えてもらえなかった。まあ、最初から全部からかわれていたんだろう。そう思っておくことにした。
「でも大丈夫だよ。袴田君も、そのうち嫌ってほど視えるようになると思うから」
「またそんなこと言って……」
今度こそ冗談だろうと思ったが、平井さんは涼しい顔をしている。
「ま、無理に信じなくてもいいけどね。深夜って、暇な日はとことん暇なのに、何か起きる時はどーんと起きるからさぁ。ま、ある意味暇しなくていい感じとも言えるから、自分のペースでやっていけば、きっと続けられるよ」
励ましているのか、怖がらせているのか。
よく分からないまま、話はそこで一区切りついてしまった。
ほんと、掴めない人だ……。
「そうそう、木曜日はいよいよご対面だね! 『ニコニコマートの守護神』によろしく言っといて」
その『守護神』というのは、どうやら竹中さんのことらしい。
どうしてそんな大層な異名がついているのかは知らないが、平井さんの言う通り、木曜日は初めて竹中さんと一緒に働く予定になっている。
あの噂の竹中さんと、だ。
これまで色々と話は聞いているものの、正直、夜勤組の中では一番何を考えているのか分からない人だと思う。
さて、どうなることやら。
まあ、実際に会ってみなきゃ分からないしな。あれこれ考えても仕方がない。変な話を振られたら適当に受け流せばいいし、仕事さえちゃんとできれば問題ないだろう。
そう自分に言い聞かせ、俺は店内のトイレへ向かった。
用を足したあと、洗面台で手を洗い、ついでに顔にも水をかける。タオルで水気を拭いながら、何気なく顔を上げた。
「なっ……」
鏡に映った自分の姿を見て、思わず息を呑んだ。
時刻は明け方の四時頃。
その時、俺は初めて気づいたのだ。
「なんだよ、これ……」
首筋から鎖骨にかけて、赤紫色の痕が何本も浮かび上がっていた。
ただの引っかき傷とは思えない。ミミズ腫れよりもひどく、誰かに強く爪を立てられ、そのまま引きずられたような痕だった。
慌てて襟元を引っ張り、鏡に顔を近づける。
……なんだ、これ。
見た目はかなり痛々しいのに、今まで痛みらしい痛みは感じていなかった。
いつ、こんな傷ができたんだ?
心当たりがない……わけじゃない。
いや、でも。
そんなこと、普通あり得ないだろ。
鏡に映っているのは、平井さんが教えてくれたのと同じ場所だった。
『袴田君、その首の爪痕。どうしたの?』
あの言葉が頭の中で繰り返される。
少なくとも、爪痕があるという話は冗談じゃなかった。
じゃあ、窓の外にいるという女の話は?
俺の首を締め付けた、見えない何かの話は?
……どこまでが本当なんだよ。
鏡から目を離しても、首筋に残った赤紫色の痕が頭から離れなかった。
今までなら笑い飛ばしていたはずの話が、少しずつ笑えないものに変わっていく。
そんな嫌な感覚を抱えながら、俺は六日目のアルバイトを終えた。




