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「……え……?」
俺は半笑いのまま言葉を失った。平井さんの言っていることが、さっぱり理解できない。
店の前をうろうろしてるって、誰が?
詳しく訊こうとした、その時だった。カウンターの内側に戻ってきた平井さんが、いつの間にか俺のすぐそばに立っていた。
「うわっ!?」
近い。いや、近すぎる。
ほとんど肩が触れそうな距離まで顔を寄せ、平井さんは何やら真剣な表情で俺を見つめている。
え、なに? なんですか、その距離感。
「あの、平井さん……?」
声を掛けても返事はない。大きな瞳を見開いたまま、じっと何かを観察している。しかも、どうやら見ているのは俺の顔ではなく、首の辺りらしい。
さっきまであんなに穏やかだったのに、急にどうしたんだ。
「ずっと気になってたんだけどさぁ」
「は、はい?」
ようやく口を開いた平井さんが、俺の首元を指差した。
「袴田君、その首の爪痕。どうしたの?」
首の、爪痕。
その言葉を聞いた途端、背筋がぞわっとした。
初めて平井さんと会った夜のことを思い出す。誰もいないはずの店内で感じた強い視線。突然、何かに首を締め付けられたような苦しさ。声も出せず、体も動かせなかった、あの出来事を。
そういえば、あの時も爪痕がついていると言われたんだった。
「ここから、この辺りまで。結構はっきり残ってるよ」
平井さんは自分の首を指でなぞりながら説明する。
どうやら俺の首筋から鎖骨にかけて、何本か赤い筋が走っているらしい。まるで誰かに爪を立てて掴まれ、そのまま引っ掻かれたような痕だという。
そして、しばらく俺の首元を眺めていた平井さんが、ぽつりと呟いた。
「うわ……なんか、えっろ……」
……はい?
いやいや、ちょっと待って。
そこ、まず心配するところじゃないですかね!?
思わず一歩後ずさると、平井さんは何事もなかったかのように顔を上げた。
「ちょ……平井さん、いきなり何を……」
「あ、ごめんごめん。ちょっと気になっちゃって」
悪びれた様子もなく笑うと、彼女は長い髪を指に絡めながら、店の外と俺とを交互に見比べた。
「おかしいと思ったんだよねー。さっきから店の前をうろうろしてるし、すっごい顔で窓に張り付いてるし……。この間、竹中君に追い払ってもらったばっかりなのに」
「平井さん……?」
「袴田君、あの人に目をつけられちゃったかもね」
「あの人……って?」
「ほら、雑誌コーナーの向こう。ガラス張りの角のところに、ボロボロの服を着た女の人がいるでしょ?」
思わずそちらに目を向けそうになって、やめた。
さっきから何度も視線を感じていた場所だ。けれど、俺が見た限り、そこには誰もいなかったはず。
「たまにね、気に入った人を見つけると悪さをするの。ずっと付きまとって、自分のモノにしようとするんだよ」
平井さんは怖がらせようとしているわけでも、冗談を言っているわけでもなさそうだった。ただ、そこにあるものを説明するように、淡々と話している。
その視線は、雑誌コーナーの向こうにある暗い窓へ向けられていた。
「あ、っと……ごめんね。こんな話、いきなりされたら気持ち悪いよね。やめとこっか」
「……あのさ、平井さん」
口を挟むか迷ったものの、どうしても気になってしまった。
「見えるの……? そういうの」
平井さんはにっこり頷いた。
「うん。わたしには見えるよ。あそこの窓から、袴田君のことをずーっと見てる女の人。目が真っ赤に血走っててね」
笑顔のまま言う内容じゃないだろ、それ……。
「そ、そうなんだ……」
「ふふっ。その顔、信じてないでしょ?」
軽く受け流そうとしたのに、あっさり見透かされた。
「いや、それは……」
「いいんだよ。信じてほしくて言ったわけじゃないから」
平井さんは相変わらず穏やかな顔をしていた。
「わたしにはそう見えるってだけ。袴田君は、そういうの信じない人なんでしょ? だったら無理に信じなくてもいいと思うよ。変に怖がりすぎるのもよくないし」
「なんでそう思うの?」
「なんとなく。話してたら分かるよ。違う?」
「……いや、当たってるけど」
隠しても無駄らしい。
「でもさ、平井さん。俺、確かにそういうのは信じられない方なんだけど……平井さんが嘘ついてるとか、からかってるとか、そう思ってるわけじゃなくて」
言いながら、自分でも何を説明したいのか分からなくなってきた。
いや、信じられないのに嘘だとは思ってないって、結局どっちなんだよ。
自分で自分にツッコミを入れたくなる。
「んー、分かるよ。大丈夫」
平井さんは小さく笑った。
「信じる人もいれば、信じない人もいるし。わたし、そういうの気にしないから」
そう言われて、少し肩の力が抜けた。気まずくなるかと思ったが、平井さんは本当に何とも思っていないらしい。
「ただ……一応、注意だけはしておこうと思って」
そこで、彼女の表情が少しだけ真面目になった。
「ここってね、袴田君が思ってる以上におかしな場所なんだよ」
何でもないことのように続けられたその言葉が、妙に耳に残った。
「時給がいいからって入ってきた人も、今までたくさんいたんだけどね。みんな最初は、ちょっと怖いくらいで辞めるわけないって言うの。でも、実際に変なことが続くと、やっぱり耐えられなくなっちゃうみたい」
早い人では数日。一週間ほどで逃げるように辞めてしまった人も少なくないという。
それは、店長や青山さんから聞いた話とも一致していた。
「気味悪いこと言っておいてあれだけど、わたし、袴田君にはすぐ辞めてほしくないんだ。だから、気をつけてほしくって」
その言葉に、からかうような響きはなかった。
平井さんは俺を怖がらせたいんじゃない。本当に心配してくれているんだろう。
そう思うと、さっきまでの話を簡単に笑い飛ばす気にはなれなかった。
「本当に……見えてるの? そういうの……」
我ながら失礼な質問だと思う。
けれど、訊かずにはいられなかった。信じたいわけじゃない。むしろ、できれば何かの勘違いであってほしい。
それでも、あの夜の出来事が頭から離れなかった。
誰もいないはずの場所で首を締め付けられたことも、窓の向こうから感じる視線も。
平井さんが何と答えるのか、気になって仕方がなかった。
すると彼女は、少し考えるように首を傾げてから、にっこり笑った。
「じゃあ、視てみる?」
「……え?」
返ってきたのは、予想の斜め上を行く言葉だった。




