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【書籍化】コンビニで夜勤バイトを始めまして。  作者: 天野 肇
第4話 深夜アニメと薄い本

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3

「……え……?」


 俺は半笑いのまま言葉を失った。平井さんの言っていることが、さっぱり理解できない。


 店の前をうろうろしてるって、誰が?


 詳しく訊こうとした、その時だった。カウンターの内側に戻ってきた平井さんが、いつの間にか俺のすぐそばに立っていた。


「うわっ!?」


 近い。いや、近すぎる。


 ほとんど肩が触れそうな距離まで顔を寄せ、平井さんは何やら真剣な表情で俺を見つめている。


 え、なに? なんですか、その距離感。


「あの、平井さん……?」


 声を掛けても返事はない。大きな瞳を見開いたまま、じっと何かを観察している。しかも、どうやら見ているのは俺の顔ではなく、首の辺りらしい。


 さっきまであんなに穏やかだったのに、急にどうしたんだ。


「ずっと気になってたんだけどさぁ」

「は、はい?」


 ようやく口を開いた平井さんが、俺の首元を指差した。


「袴田君、その首の爪痕。どうしたの?」


 首の、爪痕。


 その言葉を聞いた途端、背筋がぞわっとした。


 初めて平井さんと会った夜のことを思い出す。誰もいないはずの店内で感じた強い視線。突然、何かに首を締め付けられたような苦しさ。声も出せず、体も動かせなかった、あの出来事を。


 そういえば、あの時も爪痕がついていると言われたんだった。


「ここから、この辺りまで。結構はっきり残ってるよ」


 平井さんは自分の首を指でなぞりながら説明する。


 どうやら俺の首筋から鎖骨にかけて、何本か赤い筋が走っているらしい。まるで誰かに爪を立てて掴まれ、そのまま引っ掻かれたような痕だという。


 そして、しばらく俺の首元を眺めていた平井さんが、ぽつりと呟いた。


「うわ……なんか、えっろ……」


 ……はい?


 いやいや、ちょっと待って。


 そこ、まず心配するところじゃないですかね!?


 思わず一歩後ずさると、平井さんは何事もなかったかのように顔を上げた。


「ちょ……平井さん、いきなり何を……」

「あ、ごめんごめん。ちょっと気になっちゃって」


 悪びれた様子もなく笑うと、彼女は長い髪を指に絡めながら、店の外と俺とを交互に見比べた。


「おかしいと思ったんだよねー。さっきから店の前をうろうろしてるし、すっごい顔で窓に張り付いてるし……。この間、竹中君に追い払ってもらったばっかりなのに」

「平井さん……?」

「袴田君、あの人に目をつけられちゃったかもね」

「あの人……って?」

「ほら、雑誌コーナーの向こう。ガラス張りの角のところに、ボロボロの服を着た女の人がいるでしょ?」


 思わずそちらに目を向けそうになって、やめた。


 さっきから何度も視線を感じていた場所だ。けれど、俺が見た限り、そこには誰もいなかったはず。


「たまにね、気に入った人を見つけると悪さをするの。ずっと付きまとって、自分のモノにしようとするんだよ」


 平井さんは怖がらせようとしているわけでも、冗談を言っているわけでもなさそうだった。ただ、そこにあるものを説明するように、淡々と話している。


 その視線は、雑誌コーナーの向こうにある暗い窓へ向けられていた。


「あ、っと……ごめんね。こんな話、いきなりされたら気持ち悪いよね。やめとこっか」

「……あのさ、平井さん」


 口を挟むか迷ったものの、どうしても気になってしまった。


「見えるの……? そういうの」


 平井さんはにっこり頷いた。


「うん。わたしには見えるよ。あそこの窓から、袴田君のことをずーっと見てる女の人。目が真っ赤に血走っててね」


 笑顔のまま言う内容じゃないだろ、それ……。


「そ、そうなんだ……」

「ふふっ。その顔、信じてないでしょ?」


 軽く受け流そうとしたのに、あっさり見透かされた。


「いや、それは……」

「いいんだよ。信じてほしくて言ったわけじゃないから」


 平井さんは相変わらず穏やかな顔をしていた。


「わたしにはそう見えるってだけ。袴田君は、そういうの信じない人なんでしょ? だったら無理に信じなくてもいいと思うよ。変に怖がりすぎるのもよくないし」

「なんでそう思うの?」

「なんとなく。話してたら分かるよ。違う?」

「……いや、当たってるけど」


 隠しても無駄らしい。


「でもさ、平井さん。俺、確かにそういうのは信じられない方なんだけど……平井さんが嘘ついてるとか、からかってるとか、そう思ってるわけじゃなくて」


 言いながら、自分でも何を説明したいのか分からなくなってきた。


 いや、信じられないのに嘘だとは思ってないって、結局どっちなんだよ。


 自分で自分にツッコミを入れたくなる。


「んー、分かるよ。大丈夫」


 平井さんは小さく笑った。


「信じる人もいれば、信じない人もいるし。わたし、そういうの気にしないから」


 そう言われて、少し肩の力が抜けた。気まずくなるかと思ったが、平井さんは本当に何とも思っていないらしい。


「ただ……一応、注意だけはしておこうと思って」


 そこで、彼女の表情が少しだけ真面目になった。


「ここってね、袴田君が思ってる以上におかしな場所なんだよ」


 何でもないことのように続けられたその言葉が、妙に耳に残った。


「時給がいいからって入ってきた人も、今までたくさんいたんだけどね。みんな最初は、ちょっと怖いくらいで辞めるわけないって言うの。でも、実際に変なことが続くと、やっぱり耐えられなくなっちゃうみたい」


 早い人では数日。一週間ほどで逃げるように辞めてしまった人も少なくないという。


 それは、店長や青山さんから聞いた話とも一致していた。


「気味悪いこと言っておいてあれだけど、わたし、袴田君にはすぐ辞めてほしくないんだ。だから、気をつけてほしくって」


 その言葉に、からかうような響きはなかった。


 平井さんは俺を怖がらせたいんじゃない。本当に心配してくれているんだろう。


 そう思うと、さっきまでの話を簡単に笑い飛ばす気にはなれなかった。


「本当に……見えてるの? そういうの……」


 我ながら失礼な質問だと思う。


 けれど、訊かずにはいられなかった。信じたいわけじゃない。むしろ、できれば何かの勘違いであってほしい。


 それでも、あの夜の出来事が頭から離れなかった。


 誰もいないはずの場所で首を締め付けられたことも、窓の向こうから感じる視線も。


 平井さんが何と答えるのか、気になって仕方がなかった。


 すると彼女は、少し考えるように首を傾げてから、にっこり笑った。


「じゃあ、視てみる?」


「……え?」


 返ってきたのは、予想の斜め上を行く言葉だった。

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