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第4話 奪われた冬を、領民へ返します

 翌朝、まだ空が白み始める前に、領主館の扉が叩かれた。


 わたくしは机に伏せていた顔を上げる。


 どうやら、ほんの少し眠っていたらしい。


 暖炉の火は弱まり、窓の外には薄く雪が積もっている。手元には、昨夜のうちに署名した命令書が何枚も並んでいた。


「お嬢様……?」


 隣の椅子でうとうとしていたリーナが、慌てて体を起こす。


「起きています」


「今、完全に眠っていらっしゃいました」


「目を閉じて考えていただけです」


「寝言で『備蓄麦』とおっしゃっていました」


「なら、考えていますね」


「それは睡眠です」


 リーナが困ったように眉を下げた。


 その時、扉が開く。


 入ってきたのはカイだった。


 厚手の騎士用コートに雪をつけ、片手に封筒を持っている。夜明け前から動いていたのだろう。髪には溶けかけた雪が白く残っていた。


「起きていたか」


「今、起きました」


「正直なのはいいことだ」


「領主として誠実であろうと思いまして」


「なら、まず寝ることを覚えたほうがいい」


 カイはそう言って、机の上に封筒を置いた。


「代官屋敷から出ようとした使いを捕まえた。北門でな」


「早いですね」


「そっちが昨夜、出入り口を押さえろと言ったんだろう」


「ええ。言いました」


「言われた仕事はする」


 簡素な答えだった。


 けれど、だからこそ頼もしい。


 わたくしは封筒を手に取った。


 封蝋には、バルド・ガーランドの印章。


 宛先は、ノルデン領内で最も大きな商会であるハルツ商会だった。


「中は?」


「確認した。急ぎだったからな」


「構いません」


 わたくしは手紙を広げた。


 読み進めるほどに、目が冷えていくのが分かった。


 内容は簡潔だった。


 新領主エレノア・ヴァレンタインは王都で婚約を破棄された失脚令嬢であり、いずれ王家から処分される。


 よって、彼女の命令による取引、食料購入、資金移動には一切応じるな。


 従わぬ者は、後日代官権限により処罰する。


 実に分かりやすい。


 分かりやすすぎて、こちらが助かるほどだ。


「リーナ」


「はい」


「この手紙の写しを三通作ってちょうだい」


「三通でございますね」


「一通はハルツ商会へ。もう一通は町の長老へ。最後の一通は王都の公爵家へ送ります」


「原本は?」


 カイが尋ねる。


「もちろん保管します。印章つきの妨害工作ですもの。大切な証拠です」


 リーナが手紙を覗き込み、青ざめた顔で口元を押さえた。


「お嬢様、これは……」


「とても親切な手紙ね」


「親切、ですか?」


「ええ。代官がわたくしの領主権限を妨害する意思を、自分の印章つきで残してくれました」


 こんなにありがたいことはない。


 人は悪事を働く時ほど、自分の賢さを信じてしまう。


 けれど、本当に賢い人間は、悪事の証拠を紙に残さない。


 その点、バルドは実務家として二流だった。


「バルドは?」


「屋敷にいる。兵を二人つけているが、まだ自分が優位だと思っている顔だった」


「では、早めに教えてさしあげましょう」


「何を」


「もう優位ではないことを」


 わたくしは立ち上がった。


 その瞬間、足元が少しだけ揺れる。


 カイがさっと手を伸ばし、わたくしの肘を支えた。


「ほら見ろ」


「少し床が傾いただけです」


「領主館は古いが、そこまでではない」


「では、わたくしの足元が政治的に不安定だったのでしょう」


「冗談を言えるなら、まだ平気か」


「ええ。かなり平気です」


「かなり平気な人間は、自分でかなりとは言わない」


 リーナが隣で何度も頷いている。


 味方が増えたのはありがたいが、叱る人間まで増えた気がする。


「本日の予定は、代官の暫定罷免、商会への通達、備蓄物資の再確認、配給名簿の作成、井戸修繕の聞き取りです」


「多い」


「まだ減らしました」


「減らしてそれか」


 カイは眉間に皺を寄せた。


「昼までに一度、食事を取れ。命令書に署名する手が震えたら困る」


「努力します」


「努力じゃなくて実行しろ」


「北方の騎士は細かいのですね」


「北方の領主が無茶をするからだ」


 そう言いながらも、彼はわたくしの肘を放す時、少しだけ慎重だった。


 その気遣いは、王都で受けてきたものとは違った。


 宝石のような言葉ではない。


 甘く飾られた賛辞でもない。


 ただ、仕事を続けるために必要な配慮だった。


 今のわたくしには、そのほうがずっとありがたかった。


     ◇


 代官屋敷に着くと、バルドはすでに広間で待っていた。


 昨夜より顔色が悪い。


 だが、まだ表情には余裕を装っている。


 濃い茶色の上着に金の飾りボタン。指には大きな宝石の指輪。


 その姿は、町の薄い服を着た子供たちと同じ土地にいる者とは思えなかった。


「これはこれは、エレノア様。朝からいかがなさいましたかな」


「こちらの手紙について伺いに参りました」


 わたくしが封筒を見せると、バルドの頬が一瞬だけ引きつった。


 しかし彼はすぐに笑みを作る。


「はて。何のことでございましょう」


「読み上げましょうか。使用人の皆様にも聞こえるように」


「……っ」


 広間にいた使用人たちが息を呑んだ。


 バルドは一瞬だけ彼らを見た。


 その目には、怒りよりも焦りがあった。


 屋敷の中でも、彼は慕われているわけではないのだろう。


 恐れで人を従わせることはできる。


 だが、恐れだけで結ばれた関係は、旗色が悪くなった瞬間にほどけていく。


「領主様」


 バルドは声を低くした。


「私は、この地を長く治めてまいりました。王都の公爵家が何を言おうと、実際にこの土地を動かしているのは私です」


「そのようですね」


「商会も、村長も、職人も、私との付き合いがあります。昨日今日来たばかりの若い令嬢が、すべてを変えられるとお思いか」


「すべてを一日では変えられません」


 わたくしは彼を見た。


「ですが、あなたの権限を止めることなら今日できます」


 バルドの笑みが消えた。


「バルド・ガーランド。あなたを、ノルデン領代官職より暫定罷免します」


 広間がざわめいた。


 バルドの顔が赤くなる。


「暫定罷免など、認められるものか! 正式な裁可もなしに!」


「正式な裁可は後日、公爵家法務官立ち会いのもとで行います。それまであなたの印章、鍵、帳簿、契約書への接触を禁じます」


「横暴だ!」


「昨日も聞きました」


「小娘が……!」


 バルドが一歩踏み出した。


 その瞬間、カイがわたくしの前に半歩だけ出た。


 剣を抜いたわけではない。


 声を荒げたわけでもない。


 けれど、鍛えられた騎士が一歩立ち位置を変えただけで、場の空気は明らかに変わった。


「それ以上はやめておけ」


 カイは低く言った。


「ここで手を出せば、罷免では済まなくなる」


 バルドの足が止まる。


 彼は悔しそうに歯を食いしばった。


「……後悔しますぞ。私を敵に回せば、この土地では何も買えない。商会は動かず、職人は口を閉ざし、村々は様子を見る。あなたは領主館で震えているしかなくなる」


「そうですか」


 わたくしはリーナに目を向けた。


「昨日の備蓄倉庫以外に、代官屋敷内の保管場所は調べましたか」


「はい。一階の倉庫、馬小屋、台所横の貯蔵室は確認済みです」


「地下は?」


 バルドの肩が、ぴくりと動いた。


 小さな反応。


 けれど、十分だった。


「カイ」


「分かった」


 彼はすぐに兵へ合図した。


 広間の隅に立っていた若い使用人が、青ざめた顔で視線を泳がせている。


 わたくしはその者を見た。


「あなた。地下への入口を知っていますね」


「い、いえ、私は」


「罰したいわけではありません」


 そう言うと、使用人は震える唇を噛んだ。


 迷っている。


 恐れている。


 けれど、恐れの向こう側で、何かを選ぼうとしている。


「あなたが案内してくれたことは、わたくしが責任をもって記録します。代官の報復は許しません」


 使用人は一度だけバルドを見た。


 バルドが鬼のような顔で睨み返す。


 だが、使用人は小さく首を振った。


「……台所の奥に、古い酒蔵がございます」


「案内してください」


「エレノア様!」


 バルドが叫ぶ。


「そこは私物の保管庫です! 領主様といえど、個人の財産に踏み込むなど――」


「では確認しましょう。私物であれば、記録を取って返却します」


「っ……」


「困るのですか?」


 バルドは答えなかった。


     ◇


 台所奥の床板を外すと、地下へ続く階段が現れた。


 石造りの階段を降りるにつれ、空気が冷たくなる。


 酒蔵と言うには、ずいぶんと厳重だった。


 扉には新しい錠がついている。


 カイが錠を確かめ、短く言った。


「開けるぞ」


「お願いします」


「待て!」


 バルドが叫んだが、遅かった。


 重い音を立てて錠が外れる。


 扉が開いた。


 中を見た瞬間、リーナが息を呑んだ。


 そこには、麦袋が積まれていた。


 昨日、領民の前で確認した倉庫よりも、ずっと多い。


 麦だけではない。


 干し肉。

 塩。

 毛布。

 薬草。

 油。

 冬用の厚手の上着。


 どれも、この土地で今まさに必要とされているものばかりだった。


 わたくしは、しばらく黙ってそれを見つめた。


 怒りはあった。


 けれど、不思議と心は冷えていた。


 王都の舞踏会で婚約を破棄された時よりも、ずっと静かだった。


 人は、わたくし一人を捨てることができる。


 それはいい。


 けれど、この男は領民の冬を奪った。


 子供の食事を削り、老人の薬を隠し、寒さに震える家から毛布を取り上げた。


 それだけは、許すわけにはいかない。


「リーナ。数を」


「はい」


 リーナは震える手で帳面を開いた。


 カイは麦袋のひとつを調べた。


「領主備蓄の焼き印がある。古いが、消えていない」


 つまり、私物ではない。


 領民のために蓄えられた物資だ。


 バルドは背後で叫んだ。


「違う! それは一時的に移しただけだ! 屋敷内で管理したほうが安全だと判断して――」


「安全に管理した結果、帳簿から消えていたのですね」


「記載漏れだ!」


「麦も、毛布も、薬も、すべて?」


「そうだ!」


「ずいぶん都合のよい記載漏れですこと」


 わたくしは毛布の束に触れた。


 厚手で暖かい。


 これがあれば、昨年の冬を越せた家があったかもしれない。


 これがあれば、凍えずに済んだ子供がいたかもしれない。


「すべて広場へ運びます」


 わたくしは言った。


「領民の前で数を確認し、今日中に配給を始めます」


「そんなことをすれば混乱が起きる!」


「混乱を起こしているのはあなたです」


「領主様は何も分かっていない! 貧しい民に物を見せれば、奪い合いになる!」


 その言葉に、カイの表情が険しくなった。


 わたくしはバルドを振り返る。


「奪い合いにさせないために、領主がいるのです」


 バルドは何も言えなかった。


「それに」


 わたくしは続ける。


「領民を信用していない者に、領地を任せることはできません」


     ◇


 昼前には、代官屋敷の地下から運び出された物資が広場に並べられた。


 麦袋。

 干し肉。

 塩。

 毛布。

 薬草。

 油。

 冬用の上着。


 町の人々が集まり、誰もが言葉を失っていた。


「こんなにあったのか」


「去年、薬はないって言われたのに」


「あの毛布……」


 一人の女性が、積まれた毛布を見て膝から崩れ落ちた。


 隣にいた者が慌てて支える。


 女性は震える声で言った。


「うちの子が熱を出した時、毛布はもうないって……そう言われて……」


 広場に沈黙が落ちた。


 わたくしは目を逸らさなかった。


 見なければならない。


 領主になるということは、帳簿の数字を見ることだけではない。


 その数字の向こうで、誰が泣いたのかを知ることだ。


「申し訳ありません」


 わたくしはその女性に向かって、深く頭を下げた。


 女性は驚いたようにわたくしを見た。


「わたくしは、昨年のあなたを助けられませんでした」


「領主様が悪いんじゃ……」


「いいえ」


 わたくしは顔を上げた。


「領主の血を引く者が、領地を見ていなかった。その結果、代官の不正を見逃しました。責任はあります」


 言い訳をすることはできた。


 わたくしは王太子妃教育に縛られていた。


 王都から送られる報告書には、不正が巧妙に隠されていた。


 公爵家も代官に任せきりだった。


 けれど、言い訳で失われた時間は戻らない。


 ならば、これからの行動で返すしかない。


「リーナ、配給名簿を」


「はい」


「まず、子供、高齢者、病人のいる家を優先します。次に、昨年配給を減らされた家。最後に、全戸へ最低限の麦と塩を配ります」


 ざわめきが起きる。


「本当に、もらえるのか」


「後から税を増やされるんじゃないのか」


「代官様が黙ってないぞ」


 恐れ。


 疑い。


 それは当然だった。


 奪われ続けた者は、差し出された手をすぐには握れない。


 わたくしは声を張った。


「これは施しではありません」


 広場が静かになる。


「ここにある物資は、本来、皆様のために備蓄されたものです。わたくしが与えるのではありません。返すのです」


 老人が顔を上げた。


 昨日、門の前でわたくしに「王都の貴族様が、今さら何をしに来た」と言った老人だ。


「返す、か」


「はい」


「本当に返すだけか。恩に着ろとは言わんのか」


「言いません」


 わたくしは老人を見た。


「領主が領民の食料を守るのは、当然の仕事です」


 老人はしばらく黙っていた。


 やがて、深く息を吐く。


「……なら、俺たちも手伝う。配る順番を間違えりゃ、揉める」


「助かります。家ごとの事情を教えてください」


「トマス爺、あんたは川だけじゃなく家の事情まで知ってるだろ」


「うるさい。長く生きとるだけだ」


 周囲から、小さな笑いが起きた。


 初めて聞く、少しだけ柔らかな笑いだった。


 それだけで、広場の空気が変わった気がした。


 リーナが名簿を書き、老人たちが家の状況を伝え、職人たちが麦袋を運ぶ。


 カイと騎士たちは、混乱が起きないよう周囲に立った。


 だが、思ったより騒ぎは少なかった。


 皆、互いの家の事情を知っている。


「あそこの家は婆さんが寝込んでる」


「ミナのところを先にしろ。弟が小さい」


「うちは後でいい。昨日、少し残りがあった」


 貧しい土地だ。


 けれど、貧しいからこそ、互いを見ているのかもしれない。


「領主様」


 小さな声がした。


 振り返ると、ミナが立っていた。


 両手で小さな麦袋を抱えている。


 彼女は恐る恐るわたくしを見上げた。


「これ、もらっていいの?」


「ええ。あなたの家の分です」


「でも、代官様に怒られない?」


「怒らせません」


「領主様が?」


「はい」


 ミナはわたくしをじっと見た。


 その瞳には、まだ不安がある。


 でも昨日より、ほんの少しだけ近かった。


「……ありがとう」


 小さな声だった。


 けれど、確かに聞こえた。


 わたくしは膝を折り、ミナと目線を合わせる。


「こちらこそ」


「なんで?」


「教えてくれたでしょう。麦が足りなかったことを」


 ミナは不思議そうに瞬きをした。


「子供の言葉も、領地を救うことがあります」


 ミナは頬を赤くした。


 寒さのせいだけではないように見えた。


 彼女は麦袋を抱え直すと、祖父のもとへ走っていった。


 それを見送りながら、わたくしは静かに息を吐いた。


 まだ、何も解決していない。


 倉庫の麦は返した。


 代官の権限は止めた。


 だが、冬は続く。


 井戸は凍る。


 橋は壊れたまま。


 畑は痩せ、兵は足りない。


 それでも。


 昨日よりは、少しだけ前に進んだ。


「エレノア様」


 カイが隣に来た。


「はい」


「町の空気が変わった」


「物資が見つかったからです」


「それだけじゃない」


 カイは広場を見渡した。


「昨日まで、皆は代官に逆らえなかった。今日、あんたが先に立った。それで、やっと口を開けるようになった」


「わたくしは帳簿を開いただけです」


「その帳簿を開ける人間が、今までいなかった」


 胸の奥が、少しだけ熱くなった。


 王都では、わたくしはいつも誰かの補佐だった。


 王太子の婚約者。


 王太子妃候補。


 公爵家の娘。


 どれも、誰かに付随する名前だった。


 けれど今、目の前には、わたくしの判断を待つ人々がいる。


 それは怖い。


 とても怖い。


 けれど、逃げ出したいとは思わなかった。


「カイ」


「何だ」


「わたくしは、この土地の領主になります」


「もう名乗っているだろう」


「肩書きとしてではなく、仕事としてです」


 カイはわたくしを見た。


 それから、ほんのわずかに表情を緩めた。


「なら、俺たちも働く。領主一人で町は動かない」


「頼もしいですね」


「その代わり、無茶をしたら止める」


「なぜ皆、わたくしを休ませようとするのですか」


「顔色が紙みたいだからだ」


 その時、広場の端で騒ぎが起きた。


 バルドが兵に囲まれている。


 彼は顔を真っ赤にし、こちらを睨んでいた。


「エレノア・ヴァレンタイン!」


 広場の視線が集まる。


 バルドは怒りに震えながら叫んだ。


「覚えておけ! この地はお前一人で動かせるほど単純ではない! 私を罷免して終わりだと思うな!」


「思っていません」


「私の後ろには、王都に太い繋がりがある!」


「そうですか」


「王太子殿下も、いずれお前の無礼を知ることになる!」


 王太子殿下。


 その名を聞いても、もう胸は痛まなかった。


 ただ、少し面倒だと思っただけだ。


「それは困りましたね」


 わたくしは静かに答えた。


「では、その時までに、証拠をさらに整理しておきます」


 広場の誰かが、ぷっと吹き出した。


 それをきっかけに、小さな笑いが広がる。


 バルドの顔が歪んだ。


「笑うな! お前たち、誰のおかげで今まで――」


「誰のせいで苦しんだかなら、皆よく知っている」


 老人の声だった。


 広場が静まる。


 老人は杖をつきながら、バルドをまっすぐ見た。


「わしらは馬鹿じゃない。ただ、声を上げられなかっただけだ」


 バルドが言葉を失う。


 老人はわたくしを見た。


「領主様」


 初めて、彼はそう呼んだ。


「川のことなら、明日案内する。春に水が暴れる場所を見せよう」


 わたくしは姿勢を正した。


「お願いします」


「ただし、綺麗な靴では来るな。泥に沈む」


「分かりました」


「それと、今日は寝ろ」


「……なぜ皆、それを言うのですか」


「顔が白い」


 広場の何人かが頷いた。


 どうやら、領民からの最初の助言は治水ではなく睡眠らしい。


 領主業は難しい。


     ◇


 同じ頃。


 王都では、ルーデン王国の使節団との会談が始まっていた。


 会議室には、王太子ジルベルト、外務卿、数名の文官、そしてルーデン側の使節たちが向かい合って座っている。


 いつもなら、ジルベルトの右手側にエレノアがいた。


 彼女は目立たなかった。


 発言を求められた時だけ、静かに補足した。


 相手の言葉に含まれる意図を読み、王太子が不用意に頷く前に、必要な資料を差し出した。


 だが、その席には今、誰もいない。


 赤い紐でまとめられた論点整理もない。


 相手の癖や過去の発言を記した覚書もない。


 ただ、急ごしらえの資料が置かれているだけだった。


「では、羊毛関税の引き下げについて」


 ルーデンの使節が穏やかに切り出した。


「我が国としては、昨年の条件よりさらに二割の引き下げを希望いたします」


「二割?」


 外務卿の眉が動く。


 ジルベルトは平然と頷いた。


「友好のためなら、検討しよう」


 文官たちの顔が青ざめた。


 その条件を飲めば、国内の織物業者が強く反発する。


 以前エレノアが作成した資料には、羊毛関税については一割が限度、代わりに塩の輸入枠で譲歩を引き出すべきだと記されていた。


 だが、その資料は今、ここにない。


「殿下」


 文官が小声で呼びかける。


「その条件は一度持ち帰って検討を」


「必要ない。友好こそ最も大切だ」


 ジルベルトは自信ありげに言った。


 ルーデンの使節は、柔らかく微笑む。


「さすが王太子殿下。寛大なご判断です」


 外務卿が口を開きかけた時、使節はさらに続けた。


「では、鉄鉱石の輸出制限についても、我が国の事情をご理解いただけると」


 文官の一人が、息を呑んだ。


 エレノアが予想していた通りだった。


 ルーデンは必ず鉄鉱石を持ち出す。


 羊毛で譲歩を引き出した後、鉄鉱石でも譲歩を迫る。


 それが彼女の読みだった。


 しかしジルベルトは、その危険を知らない。


「鉄鉱石か」


「はい。我が国でも軍備の見直しがありまして、一時的に輸出量を絞らざるを得ないのです」


「一時的なら仕方あるまい」


「殿下!」


 ついに外務卿が声を上げた。


「鉄鉱石の輸入量が減れば、国内の鍛冶、農具、騎士団装備に影響が出ます!」


「分かっている」


 分かっていない声だった。


 会議室の空気が重くなる。


 その時、控えめな声が入口から聞こえた。


「殿下、紅茶をお持ちしました」


 ミリアだった。


 会議中にもかかわらず、彼女は茶器を持って立っていた。


 ジルベルトの表情が和らぐ。


「ミリア。ありがとう」


「皆様、難しいお話ばかりでお疲れでしょう? 少し休まれてはいかがですか」


 ルーデンの使節は目を細めた。


 外務卿は額に手を当てた。


 文官たちは視線を落とす。


 外交交渉の場に、正式な役職のない男爵令嬢が入ってくる。


 それがどれほど異様なことか、ミリアだけが分かっていなかった。


「お優しい方ですな」


 ルーデンの使節が微笑んだ。


「王太子殿下には、良き支えがおありのようだ」


 ジルベルトは満足そうに頷いた。


「ああ。彼女はエレノアとは違う」


 その名が出た瞬間、会議室の空気がわずかに変わった。


 ルーデンの使節は、何気ない様子で言った。


「エレノア・ヴァレンタイン公爵令嬢は、本日はご不在で?」


「あの女はもう関係ない」


「そうですか」


 使節は微笑んだまま、資料を閉じた。


「それは、我が国にとって幸運でした」


「何?」


「いえ。独り言でございます」


 その言葉の意味を、ジルベルトは理解できなかった。


 だが外務卿と文官たちは、理解してしまった。


 相手国の使節にまで、王太子宮の本当の頭脳が誰だったのか見抜かれていたのだ。


     ◇


 夕暮れ。


 配給を終えた広場には、まだ人が残っていた。


 リーナは疲れ切った顔で帳面を抱えている。


 カイは兵に指示を出し、残った物資を領主館へ運ばせていた。


 わたくしは最後の名簿を確認し、ようやくペンを置く。


「お嬢様」


 リーナが小声で言った。


「今日は、本当にもうお休みください」


「あと、明日の視察予定だけ」


「お嬢様」


「はい」


「休んでください」


 リーナの声が、いつになく強かった。


 わたくしは少しだけ驚く。


 彼女は唇を引き結び、目を潤ませていた。


「お嬢様が倒れたら、誰がこの領地を立て直すのですか」


 その言葉に、わたくしは返事ができなかった。


 王都では、わたくしの代わりなどいくらでもいると言われた。


 実際にはそうではなかったとしても、少なくとも殿下はそう思っていた。


 けれどリーナは、今ここで逆のことを言った。


 あなたが倒れたら困る、と。


「……分かりました」


 わたくしは帳面を閉じた。


「今日は休みます」


 リーナの顔がぱっと明るくなる。


 カイが少し離れた場所から言った。


「聞いたぞ」


「分かっています」


「破ったら、明日の視察は延期だ」


「それは困ります」


「なら休め」


 本当に、この土地の人々は容赦がない。


 わたくしが苦笑した、その時だった。


 遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。


 雪の道を急ぐ、鋭い音。


 広場にいた者たちが一斉に振り返る。


 一頭の早馬が、町の門をくぐってきた。


 乗っているのは、王都の紋章をつけた使者だった。


 使者は馬から降りると、凍えた息を吐きながら膝をつく。


「エレノア・ヴァレンタイン様に、王太子殿下より書状でございます」


 広場が静まり返った。


 リーナが不安そうにわたくしを見る。


 カイの表情が引き締まる。


 わたくしは使者から封筒を受け取った。


 封蝋には、王太子ジルベルト殿下の紋章。


 つい数日前、わたくしとの婚約を破棄した男の印だった。


 封を切り、文面に目を通す。


 そこには、短くこう書かれていた。


 エレノア・ヴァレンタイン。


 速やかに王都へ戻り、王太子宮の政務補佐に復帰せよ。


 婚約破棄後の処遇については、追って沙汰する。


 なお、これは王太子命令である。


 読み終えた瞬間、わたくしは思わず笑ってしまった。


 本当に。


 どこまでも、あの方らしい。


「何と?」


 カイが尋ねる。


 わたくしは書状を畳んだ。


「王太子殿下が、わたくしに戻れとおっしゃっています」


 広場がざわめいた。


 リーナが目を見開く。


 使者は困惑した顔でわたくしを見ている。


「戻るのか」


 カイの問いは短かった。


 けれど、その声には急かす響きはなかった。


 ただ、わたくしの答えを待っていた。


 わたくしは空を見上げた。


 北の空は低く、冷たい。


 けれど、王都の夜空よりずっと近く感じられた。


 この土地には、まだ直すべきものがある。


 返すべきものがある。


 聞くべき声がある。


 そして、守ると決めた人々がいる。


「いいえ」


 わたくしは静かに答えた。


「わたくしの仕事場は、もう王太子宮ではありません」


 使者が目を瞬かせる。


「し、しかし、王太子殿下のご命令で」


「では、お返事を書きます」


 わたくしはリーナに目を向けた。


「紙とペンを」


「はい!」


 リーナはなぜか嬉しそうに返事をした。


 カイは黙って成り行きを見ている。


 広場の領民たちも、固唾を飲んでこちらを見ていた。


 わたくしは使者に向き直る。


「王太子殿下へお伝えください」


 雪が静かに降り始める。


 白い粒が、黒い土の上に落ちていく。


「エレノア・ヴァレンタインは、現在ノルデン領主として職務中です。王太子宮の政務補佐には復帰できません」


 言葉にした瞬間、胸の奥がすっと軽くなった。


 あの広間で捨てられた夜よりも、ずっとはっきりと。


 わたくしは、自分で自分の居場所を選んだのだ。


「それと」


 わたくしは少しだけ微笑んだ。


「婚約破棄後の処遇については、すでに十分いただきました、と」


 使者はぽかんとしていた。


 リーナは必死に笑いをこらえている。


 広場の誰かが言った。


「領主様、強いな」


 別の誰かが答えた。


「王都の悪役令嬢ってのは、なかなか頼もしいらしい」


 その言葉に、わたくしは少しだけ肩をすくめた。


 ええ。


 悪役令嬢で結構。


 ただし、わたくしが倒すのは可哀想な男爵令嬢ではない。


 腐った代官。


 壊れた仕組み。


 そして、捨てた相手を都合よく呼び戻せると思っている愚かな王太子だ。


 わたくしはペンを取った。


 北の雪の中で、最初の返書を書く。


 もう、王都の都合で動くわたくしはいない。


 ここから先は、ノルデン領主エレノア・ヴァレンタインの物語である。

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