1話 夜烏
昭和五年――。
帝都東京に光が輝けば輝くほど、おのずとそこへ落ちる闇も濃くなる。
人の欲望が渦巻くこの街では、理不尽な死など日常茶飯事であった。
利己のため、あるいはただの気まぐれで他者の命を奪い、法の網をかいくぐる悪党は、いつの世も絶えない。
弱い者ばかりが泣かされ、その涙さえいつしか枯れ果てる。
そんな深い無念を、金で引き受ける者がいた。
その名は……夜烏。
「やっと雨も上がって、今宵の月もきれいだね……」
昭和五年、帝都東京・銀座の路地裏。
ガス灯の淡い橙色の光が石畳を濡らしたように染める中、カフェー「月夜亭」は静かに息を潜めていた。
夜の十一時を過ぎ、店内に残る客はまばらになっていた。
先ほどまで笑い声とグラスの触れ合う音で満ちていた空間は、今や重い煙草の煙と、遠くから流れてくるジャズの残響だけが漂っている。
女給の櫻井綾は、白いエプロンの裾を指先で軽く払いながら、最後の客にゆっくりと近づいた。
唇の端に浮かべた微笑みは、いつものように甘く、男の視線を絡め取る。
「ありがとうございました。今夜も……楽しんでいただけましたかしら?」
自分の声が低く、耳の奥に溶け込むように響くのを、綾は心地よく感じていた。
まるで指先で頰を撫でるような、甘美で少し危険な響き──それが自分の武器だと、彼女はよく知っている。
客の男が満足げに鼻の下を伸ばし、何か言葉を返そうとした瞬間、
綾はするりと男の懐へと滑り込んだ。
豊満な胸が、男の胸板にぴたりと押しつけられる。
熱と柔らかさが伝わり、上等なフランス製香水の薫りが二人の間に甘く広がった。
灯りにきらめく自分の銀色の長い髪が、男の視界を妖しく染めているのがわかった。
紅い瞳をわずかに伏せ、綾は男の反応をそっと確かめる。
男は一瞬で息を呑み、目を細め、指先一つ動かせなくなっていた。
魂を奪われたような、そのうっとりとした表情を、綾は満足げに眺めた。
日本人と英国人の血を引くハーフである自分は、帝都の常識から大きく外れている。
銀髪と紅い瞳。
百六十センチのしなやかな肢体は、純白のドレスとエプロンに包まれていても、その肉感的な曲線を隠しきれない。
特に、きつく締め上げられた胸の膨らみは、約三尺──九十センチはあると噂されるほど重く、男の腕に触れるたびにその質量を意識してしまう。
腰は約二尺(六十センチ)と驚くほど細く、抱き締められたときに与えるしっとりとした充実感を、綾自身もよく理解していた。
さらにその下で、豊かに弧を描く臀部の曲線は、歩くたびにドレスの生地を悩ましく揺らし、男たちの目を釘づけにする。
そんな自分の身体を武器に、綾は男の耳元へ甘く囁いた。
「……また、遊びにきてね」
綾は男の耳元にそう囁き、甘い吐息をそっと吹きかけた。
その瞬間、男の体がびくりと震え、理性が音もなく吹き飛ぶのを、彼女は肌で感じ取った。
満足げに唇の端を上げ、綾はゆっくりと男の胸から体を離した。
「綾ちゃん。過激なサービスは控えてって言ってるでしょ」
店の奥、カウンターの陰から低く抑えた声が飛んできた。
女将の峰子が、細い煙管をくわえたまま、細めた目でこちらをじっと見つめている。
四十半ばの峰子は、かつて銀座一の美貌を謳われただけあって、今も凛とした威厳を漂わせていたが、今夜の声には苛立ちと心配がはっきり混じっていた。
綾は男の背中が店の扉をくぐるのを見送ってから、ゆっくりと振り返った。
「女将さん、すみません。……あの旦那様は御贔屓にしてくださる方ですから、つい」
「まったくもう!」
峰子は煙管を灰皿に叩きつけ、大きなため息を吐いた。
口では叱っているが、それが建前であることは綾にもよくわかっていた。
月夜亭が路地裏で細々とやっていけるのは、こうした「特別なサービス」が客の心を掴み、財布の紐を緩めるからだ。
ただし、度が過ぎればお上の臨検が入る。
摘発されれば店は一瞬で潰れてしまう。
その危うさを、綾は十分に理解していた。
「やりすぎだよ、綾ちゃん。臨検の犬に見つかったらどうするんだい」
「心配してくれて、ありがとうございます」
綾は柔らかく微笑みながら、胸の谷間からさりげなく抜き取った一円札を指先で摘まんだ。
まだ男の体温が残る紙幣は、わずかに湿り気を帯びていた。
当時の一円は、工場の熟練工が一日中働いてようやく手にする額だ。
それを峰子が受け取りながら、呆れたように肩をすくめるのを、綾は静かに見つめた。
「大丈夫だとは思うけど、円タクを呼ぶかい?」
峰子がエプロンを畳みながら、心配そうに尋ねてきた。
その声音に、綾はふっと頬を緩めた。
「いえ、結構です。月もきれいですから、このまま夜風に吹かれて、まったり散歩しながら帰りますわ」
「そうだね……あんた、朝霧子爵家のご令嬢の語学教師をして、あそこの小さな別邸に住まわせてもらってるんだろ? こんな夜の仕事までしてるなんて、ほんとに変わった子だよ。女一人で夜道を歩くんだから、気をつけなさいよ」
女将の言葉は優しく、でも少し呆れた響きを含んでいた。
綾はそれを素直に受け止めながら、軽く微笑んだ。
「ふふふ、ちょうど帝都へ来る最中に、子爵様が、暴漢に襲われていた時に、お助けした縁でして。では、お先に失礼します」
綾は軽く会釈し、柔らかな笑みを浮かべた。
「はい、早く帰ってお行き。心配してるからね」
「お疲れ様でした、女将さん」
そう言い残すと、綾は白いエプロンをするりと外した。
薄暗くなった店内の残り灯が、純白のドレスに柔らかな光を落とし、再び自分の豊かな曲線を浮かび上がらせる。
胸の深い谷間、驚くほど細く締まった腰、そして歩くたびに艶やかに揺れる豊かな臀部──夜の闇に溶け込む前に、彼女は夜道のための装いへと着替えた。
デコルテの大きく開いたドレスの上に、柔らかな白いファーのボレロを羽織る。
首元と袖口の上質な毛皮が、自分の銀髪と冷たく美しく調和するのがわかった。
頭にはお揃いのクラシカルなファー帽子を被り、両手には純白の手袋を滑り込ませる。
店の小さな鏡に映る自分の姿を一瞬だけ確かめ、綾は満足げに小さく頷いた。
銀髪のハーフ美女は、夜の銀座路地裏から、まるで月の妖精のように浮かび上がっていた。
カフェー「月夜亭」を後にした綾は、銀座の細い路地を抜け、静かな夜道を歩き始めた。
白いファーのボレロが肩に柔らかく触れ、クラシカルなファー帽子の下で銀色の長い髪が夜風にそっと揺れた。
冷え始めた空気が頬を優しく刺すが、それでも足取りは軽やかだった。
頭上の満月が、彼女を優しく照らしていた。
綾はふと思った。
こんなに月が美しい夜は、街灯など消えてしまってもいいのではないか──と。
そのとき、道の外れから、うっすらと人の声が聞こえてきた。
低く抑えた男たちの声と、怯えたような女性の小さな息遣い。
最初は、店の女給が客と過激な「商談」をしているのだろうと思った。
だが、声の数が妙だった。男が三人、女が一人。
ただの商談にしては、空気が張りつめすぎている。
綾は眉を寄せ、ゆっくりと近づいていった。
石畳を踏む自分の靴音を意識しながら、さらに数歩を進める。
月明かりの届く路地奥で、三人の男が一人の女性の手首を掴み、強引に暗がりへ引きずり込もうとしているのがはっきりと見えた。
女性の着物が乱れ、抵抗する足がもつれて石畳を擦る音がした。
危険だと直感した瞬間、綾の紅い瞳が鋭く細まった。
「何をしているの? 襲おうとしているのなら、ここで大声を出しますわよ!」
自分の声は澄んでいて、夜の路地によく通った。
三人の男たちはびくりと肩を震わせ、互いの顔を素早く見合わせた。
一瞬の沈黙の後、頷き合うと、女性の手を乱暴に放り捨て、暗闇の奥へと一目散に逃げていった。
慌ただしい靴音が石畳を叩き、すぐに夜の静けさに飲み込まれていく。
綾は素早く女性のもとに駆け寄った。
二十歳前後だろうか。
上品な紺色の着物をきちんと着こなし、清楚で育ちの良さがにじみ出る女性だった。
夜の仕事をしているなんて思えなかった。
夜の銀座で、こんな装いの女性が一人でいること自体が、すでにひどく不自然に感じられた。
「大丈夫?」
優しく声をかけると、女性は目に涙をいっぱい溜めたまま、
突然、縋るように綾の胸元へと飛び込んできた。
細い体が小刻みに震え、嗚咽が白いファーのボレロに染み込んでくる。
温かく湿った涙の感触が、ドレスの生地越しにじんわりと伝わってきた。
甘い香水の匂いと、彼女の髪から漂う上品な匂いが混じり合う。
綾は一瞬、戸惑いを覚えた。
深夜の路地に、こんな女性を一人残していくわけにもいかない。
朝霧子爵家の別邸まではまだ少し距離があるが……短く考えを巡らせ、綾は静かに息を吐いた。
「……仕方ないわね。一緒に来なさい。私の家まで送るわ」
彼女は震える女性の背中をそっと抱き寄せ、
再び月明かりの道を歩き始めた。
二人の影が長く石畳の上に伸び、静かに揺れていた。
銀髪を夜風にそっと揺らしながら、綾は胸の内で小さくため息をついた。
今夜は、どうやら面倒なものを拾ってしまったようだ。
ほんの少しの後悔が胸をよぎったが、すぐにいつもの冷静さが戻ってきた。
震える女性の肩を抱き寄せたまま、綾は月明かりの下、朝霧子爵家の別邸へと静かに足を進めた。
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