第7章
格納庫。
ハッチが閉じ、減圧警告が消える。
リムのコックピットが開き、エヴァとメイが降りる。
探査艇のハッチも開き、セレナが外に出た。
レオンとシグがすでに待っている。
レオンはいつものように落ち着いた表情だが、視線は鋭い。
セレナは敬礼するわけでもなく、自然な動作で状況を伝える。
「外部観察の範囲では、生存者は確認できませんでした。内部への侵入は危険と判断して行ってません」
2人は恋人同士であるが、公的には上司と部下の関係だ。口調は固い。
シグが腕を組んだまま聞いている。
「もう一つあります」
セレナが続ける。
「艦の後方に大型構造物」
レオンの視線が少しだけ動く。
「画像照合を行いました」
そしてセレナは言った。
「マナドライブ製造設備です」
格納庫の空気が、一瞬止まる。
レオンは数秒黙っていた。
やがて小さく息を吐く。
「わかった。よくやってくれた。ご苦労様。」
それだけ言うと、レオンは振り返った。
「ブリッジへ」
ブリッジ。
マナリンク通信の再接続が行われている。
約8時間もの間、通信不能だった。
それ自体がかなり異常だ。
マルコが言う。
「マナリンク安定しました。通信可能です。……しかし、こんなに長く通信不能になるなんて聞いたことないですね」
その横でシグがぼそっと言う。
「それだけ異常な状態だったんだろう」
レオンは席に座る。
「接続」
数秒後、回線が開いた。
マルコが顔を上げる。
「OED本部、マナリンク接続完了」
レオンは静かにうなずいた。
「回線を開いてくれ」
一瞬のノイズのあと、落ち着いた事務的な声が流れる。
「こちらOED通信センター」
レオンは椅子に座ったまま、真っ直ぐスクリーンを見て言った。
「こちらステラ・ヴィア艦長レオン」
短い間。
「緊急事態だ。ヴァルグレン局長に繋げてくれ」
通信の向こうで、少しだけ間が空いた。
端末を確認している気配がある。
そして事務的な声が返ってきた。
「申し訳ありません。閣下は現在会議中です」
さらに続ける。
「三十分後にかけ直してください」
ブリッジの空気がわずかに凍った。
普段のレオンなら、ここで声を荒げることはまずない。
彼はどんな状況でも温厚で、淡々と処理するタイプの指揮官だ。
だが今回は違った。
レオンの表情は変わらない。
だが次の言葉は、はっきりと力がこもっていた。
「……もう一度言う」
声の温度が一段下がる。
「緊急事態だ」
一拍。
「至急繋げろ」
その言い方は、命令だった。
ブリッジのクルーが思わずレオンを見る。
セレナでさえ、わずかに眉を上げた。
通信の向こうも、さすがに空気が変わったらしい。
数秒の沈黙。
やがて、先ほどより慎重な声が返ってきた。
「……少々お待ちください」
回線が保留音に変わる。
ブリッジには、機器の低い駆動音だけが残った。
保留音が、ふっと消えた。
ブリッジに流れていた単調な電子音が途切れた瞬間、空気がわずかに張り詰める。
誰も声を出さないが、全員が自然と姿勢を正していた。通信士の指先もコンソールの上で止まっている。
次の瞬間、回線の向こうから低い声が聞こえた。
「……ヴァルグレンだ」
映像はない。音声だけだ。
会議の途中で急いで回線を開いたのだろう。背景には人の気配や椅子の軋む音が微かに混じっている。
外域拡張局(OED)局長、ヴァルグレン。
その名前は、この組織の中では一種の重力みたいなものだ。
誰もその姿を見ていなくても、声が届くだけで場の空気が変わる。
レオンは背もたれに深くもたれたまま、スクリーンを真っ直ぐ見て言った。
「こちらステラ・ヴィア艦長レオン」
声は落ち着いている。いつもと変わらない調子だ。
そして短く続ける。
「艦が到着しました」
一拍。
回線の向こうで何かが動く音がした。
紙か、端末か、それとも椅子か。とにかく、向こう側の空気が急に動いたのが分かる。
「……何だと?」
ヴァルグレンの声が低くなる。
そのまま続けた。
「早過ぎる」
驚きというより、計算が狂った時の声だった。
通常、長距離ワープにはもっと時間がかかる。
予定より早い到着は、たいてい良い知らせではない。
レオンはすぐ答える。
「ワープ事故だと思われます」
言葉は簡潔だ。
宇宙では、長い説明は後回しになる。
まず結果を伝える。理由はあとで分析する。
回線の向こうで、短い沈黙が落ちた。
やがてヴァルグレンがゆっくり言う。
「……艦?」
言葉を区切るような言い方だった。
さらに続ける。
「だと?」
その声には、明らかな違和感が混じっている。
「艦隊ではないのか?」
ブリッジの何人かが、わずかに顔を上げる。
質問の意味を理解したからだ。
レオンは視線を前方スクリーンに向けたまま答えた。
「ええ」
少し間を置く。
「損傷した艦のみです」
その瞬間、ブリッジの空気がわずかに揺れた。
クルーの何人かが思わずレオンを見る。
シグも腕を組んだまま、横目でレオンの横顔を見た。
レオンは続ける。
「艦は損傷が激しく、型式は不明です」
スクリーンには、先ほど撮影された軍艦の映像が表示されたままだ。
裂けた装甲。歪んだ船体。砲塔の消えた空洞。
どう見ても、まともな状態ではない。
回線の向こうで紙をめくるような音がした。
ヴァルグレンが何か資料を確認しているらしい。
やがて長官の声が戻ってくる。
「……他には到着していないのか?」
少し間。
ブリッジの空気がさらに静かになる。
この質問の意味を、ここにいる全員が理解している。
レオンはわずかに間を置いた。
ほんの数秒。
だがブリッジのクルーには、その沈黙が妙に長く感じられた。
そしてレオンは言った。
「分かりません。残骸も多数確認しておりますが、資料が不足しており、それが何なのか現段階では確認できておりません」
その言葉に、クルーが一斉にレオンを見る。
レオンはそのまま続ける。
「現れた艦は一隻のみです」
声は落ち着いている。
レオンはさらに続けた。
「報告書は別途作成します」
そして少しだけ視線を下げる。
「損傷状況から」
一拍。
「恐らく生存者はいないと思われます」
通信回線の向こうが静まり返る。
怒鳴り声も、驚きもない。
ただ沈黙。
それは感情の沈黙ではない。
状況を計算している沈黙だった。
高官は予想外の出来事に慣れている。
だがこの状況は、その計算の外側にある。
数秒後、ヴァルグレンが口を開いた。
「……分かった」
声は再び落ち着いていた。
「詳細報告を待とう。至急作成するように」
レオンは短く答える。
「了解しました」
それ以上の言葉はない。
次の瞬間、通信が静かに切れた。
ブリッジに残るのは、機器の低い駆動音だけだった。
誰もすぐには話さない。
クルーの何人かはまだレオンを見ている。
驚きの表情のままだ。
今の会話で、レオンが何をしたのか理解したからだ。
彼は嘘を言っていない。
彼は最も重要な情報を意図的に伏せた。
ただ静かに前方スクリーンを見ている。
そこには、壊れた艦の映像がまだ映っていた。
通信が切れたあと、ブリッジにはしばらく静かな空気が残っていた。
誰もすぐには口を開かない。さっきの会話の意味を、それぞれが頭の中で整理している。
レオンはしばらくスクリーンを見ていたが、やがて背もたれに体を預けた。
肩から力が抜ける。
そして小さく息を吐いた。
「……ふぅ」
少し苦笑する。
「嘘をつくのは疲れるな」
その言葉に、ブリッジの緊張がほんの少し緩む。
何人かが小さく笑った。
レオンは軽く首を回し、クルーを見渡す。
「みんな聞いての通りだ」
声はいつもの調子に戻っていた。
「ワープは失敗した」
前方スクリーンには、壊れた軍艦の映像がまだ映っている。
裂けた船体。えぐれた装甲。静かに漂う残骸。
レオンは続けた。
「そして」
少しだけ視線を横に動かす。
別のスクリーンには、あの巨大なリング構造が表示されている。
「マナドライブ製造設備がここにある」
ブリッジの何人かが、改めてその映像を見る。
巨大な構造体。
文明の核心に触れる装置。
レオンは腕を組んだ。
「こいつの存在は俺達にとって、あまり良い状況ではない」
これは皮肉でも冗談でもない。
門外不出の国家機密である。それが中央の管理が届かない辺境にあるという事は、レオン達に悪意が無かろうと、あらぬ疑いをかけられる可能性が十分に考えられた。
レオンは続ける。
「しかし」
少し間を置く。
「本星からの調査団は当分来ないだろう」
その理由は全員分かっている。
超長距離直接ワープの不確実性。
損失の大きさ
世論操作
今は平時である。そんな中、軍艦を含む少なくとも数隻の艦が瞬時に失われたのだ。人的損失もかなりのものだ。恐らく本星は「隠蔽」という方針を取るだろう。そして早期に収束させたいと願っているはずである。ただし、古今東西完璧な隠蔽など出来た試しはない。ある程度の情報流出は避けられないため、事故の規模を小さく情報操作するだろう。
何にしても時間がかかるものだ。
レオンは肩をすくめた。
「報告書も送らないとならんしな」
書類仕事を思い出して、少しだけ嫌そうな顔になる。
「とりあえず」
前方スクリーンを見ながら言う。
「詳細調査するぞ」
短い言葉だが、ブリッジの空気が動いた。
クルーの何人かが端末を操作し始める。
レオンは顎に手を当てた。
「それにしても……」
スクリーンに映る施設を見上げる。
「マナドライブ製造設備か」
苦笑する。
「技術者がいないぞ」
これはかなり現実的な問題だった。
マナドライブ製造設備は、ただの機械じゃない。
工業システムだ。数百人単位の専門技術者がいて、ようやく運用できる。
レオンはぼやくように言った。
「調べるにしても」
少し首を傾ける。
「どうしたものか」
ブリッジのクルーも、同じことを考えていた。
レオンは腕を組み直し、前方スクリーンを見たまま静かに言った。
「まあいい」
少し笑う。
「まずは調べるところからだな」
GC320.7.9
格納庫の奥、簡易作業スペース。
大型スクリーンには、例の巨大リング構造の外観データが映し出されている。配管の束、外周モジュール、中央フレーム。拡大するたびに、複雑な回路が蜘蛛の巣みたいに広がっていた。
セレナは腕を組んで画面を見ていた。
マナドライブ製造設備など専門外だ。外観を眺めてもサッパリ分からない。
背後で金属椅子がきしむ音がした。
オスカーが腰を下ろし、コーヒーを片手にスクリーンを眺める。
しばらく無言。
彼は頭を少し傾け、外周リングのユニット配置を見ていた。
中央フレームの接続部、導管の太さ、回路の重なり方。
やがて、ぼそっと言う。
「……だいたいなら分かる」
セレナが振り向いた。
「えっ?」
その反応は、かなり素直だった。
オスカーは肩をすくめる。
「俺は元々」
スクリーンを指で示す。
「マナドライブ製造技師を目指してたんだ」
セレナは一瞬言葉を失う。
オスカーは画面を見たまま続ける。
「若い頃の黒歴史だ」
軽く鼻で笑う。
「つまらなくて途中でやめたが」
その言い方は冗談半分だが、目は真面目に構造を追っていた。顔付きは技術者そのものだ。
中央リングのエネルギー導管を拡大し、接続部を確認する。
セレナはまだ少し驚いた顔のままだ。
「調べられるの?」
オスカーは一度画面を拡大してから、ようやくセレナの方を見た。
「期待するなよ」
あっさり言う。
「ほんの基礎的な事だけだ」
再びスクリーンを見る。
「それでも」
中央フレームの巨大な導管を指差す。
「あのサイズの導管は主反応ラインだ」
外周モジュールに視線を移す。
「配置も教科書通りだな」
小さく息を吐く。
「つまり、これは確かにマナドライブ製造設備だ」
セレナはスクリーンを見上げた。
巨大な構造体が、静かに宇宙に浮かんでいる。
人間が作った、最も面倒で、最も重要な機械の一つ。
彼女は小さく笑った。
「……それ、途中でやめる人いるんですね」
オスカーは肩をすくめる。
「宇宙に出た方が面白そうだったんでな」
スクリーンには、巨大施設が映っている。
今、その中身を少しだけ読める人間が、この船に一人いた。
GC320.7.10
破損艦は、静かに宇宙に漂っていた。
外から見ても酷い状態だったが、近づくほどその傷の深さが分かる。装甲は何層も裂け、内部フレームがむき出しになっている。主砲塔のあった部分は根元から吹き飛び、代わりに巨大な穴が開いていた。
その船体に、探査艇がゆっくりと接近していく。
今回の調査チームは六人。
セレナ。
シグ。
ノア。
エヴァ。
メイ。
リナ。
与圧服が必須であろう。艦内の環境が維持されている可能性は、正直ほとんど期待されていない。
探査艇が破損部分の近くで停止した。
シグが前方を見ながら言う。
「ここから入ろう。」
正直どこからでも入れそうだが、一応通路になっていそうな場所を選ぶ。
「副艦長は探査艇で待機していた方がいいな。マナ操作は副艦長の右に出る者はいないからな。指揮を頼む。」
船体の装甲が裂け、内部の通路が露出している。
本来ならあり得ない入り口だが、今はそれが一番安全だった。エアロックを使うより、崩れた部分から入る方が構造崩壊の危険が少ない。
セレナが周囲を確認する。
「周辺、問題ないわ」
ノアが携帯センサーを見ながら続ける。
「とりあえず危険そうな感じは無いですね。」
メイがぽつりと言う。
「お化け屋敷みたい」
エヴァは無言で船体の裂け目を観察している。
内部の構造がどう崩れているか、目で追っていた。
セレナが探査艇から指示を出す。
「恐らくヴィジラント級だと思うの。標準型の艦内図を参考に案内するわ。とりあえず艦橋に行きましょう。航行記録があれば回収したいわね。」
宇宙軍艦の基本構造では、艦橋には記録装置と航行ログが残っている。
何が起きたかを知るには、まずそこだ。
シグが頷く。
「了解」
セレナは作業艇のハッチを開いた。
「行く」
5人が順番に外へ出る。
磁気ブーツが船体に吸い付く。
カチ、という小さな音が与圧服の内部スピーカーに響く。
破損した装甲の縁を越え、裂け目の奥をライトで照らす。
内部は暗い。完全な闇だ。
エヴァが先に進む。
彼女は戦闘でも調査でも、自然と前に出るタイプだった。
ライトの光が通路を照らす。
折れた隔壁。
浮いたケーブル。
凍りついた破片。
リナが静かに言う。
「……ひどい」
ノアが壁の表面を触りながら答える。
「どうしたらこんなひどになるんですかね」
装甲の変形がそれを物語っている。
艦を破壊した衝撃の凄まじさを物語っていた。
メイが通路の奥を照らす。
「誰もいないね」
声は軽いが、わずかに低い。
セレナは周囲を観察していた。
マナの流れはほとんど感じない。マナドライブの反応もない。艦のシステムは完全に停止しているようだった。
そのとき、シグが壁のプレートをライトで照らした。
金属板に刻まれた文字が浮かび上がる。
ノアが近づいて読み取る。
「……艦識別」
彼は少し驚いた声を出した。
「ヴィジラント級」
さらに小さな番号を確認する。
「ES721B」
メイが口笛を吹く。
「おお」
エヴァが振り返る。
「知ってるの?」
メイは肩をすくめる。
「知らない」
ノアが足元の突起でつまづく。
「全く紛らわしい反応だな」
「ごめんごめん」
メイがケラケラ笑う。
火星連合評議会所属。マッド社製の護衛艦である。
それがここまで壊れて、宇宙に漂っている。
闇が続いている。
「……とにかく進むぞ」
シグはライトを前に向ける。
「艦橋を目指すぞ」
「型式照合完了。艦内図を送るわ。」
セレナはシグに伝える。
5人はゆっくりと艦の内部へ進み始めた。
壊れた軍艦の中は、驚くほど静かだった。
宇宙の真空より、さらに深い沈黙がそこにあった。
壊れた通路を、ゆっくり進んでいた。
磁気ブーツが床に吸い付くたび、カチ、カチと乾いた音が与圧服の内部スピーカーに伝わる。
周囲は完全な闇だ。ヘルメットのライトだけが、壊れた艦内を白く切り取っている。
通路の壁は歪み、天井のパネルは半分外れ、ケーブルの束が宙に浮いている。
重力がないせいで、破片は落ちることもなくその場に漂っていた。
メイが浮いていた工具を軽く押すと、それはゆっくり回転しながら闇へ流れていく。
誰もしばらく口を開かなかった。
沈黙の中で、リナがぽつりと言う。
「……どうしてこうなっちゃったんだろう」
彼女のライトが、裂けた隔壁を照らす。
鋼鉄がまるで紙のように折れ曲がっている。
通常の戦闘なら、こんな壊れ方はしない。
砲撃なら穴が開く。爆発なら内側から吹き飛ぶ。
だがこの艦は、潰されたような形になっている。
前を歩いていたシグが、少しだけ振り返った。
「高次元空間での事故は」
彼の声は低い。
「今でも稀に発生している」
通路の奥をライトで照らしながら続ける。
「だが、証拠が残らない」
エヴァが横目でシグを見る。
「残らない?」
シグは小さく頷く。
「普通はな」
そして周囲を見回す。
「ワープ航行ってのは、三次元空間を走ってるわけじゃない」
メイが苦笑する。
「高次元空間だよね」
シグが言う。
「そうだ」
少し考えるように言葉を選ぶ。
「ワープ航行中の艦は、一時的に別の層に入る」
手を軽く振る。
「そこは俺達の宇宙とは、物理法則が異なる場所だ」
リナは壊れた通路を見回した。
「じゃあ……」
少し不安そうに言う。
「事故が起きたら?」
シグは短く答える。
「消える」
その言葉は、妙にあっさりしていた。
「高次元空間に取り残される」
少し間を置く。
「そう考えられている」
ノアが口を挟む。
「実際に確かめた訳ではないんですけどね」
シグは首を振る。
「あくまでも理論上はな」
そして壊れた壁を見た。
「だから証拠が残らない」
ワープ事故の多くは、単なる行方不明として記録される。
艦が消えるだけで、残骸すら見つからない。
だが——
シグはゆっくり周囲を見回した。
歪んだ通路。
裂けた船体。
静かに漂う破片。
「俺も」
少しだけ苦い笑みを浮かべる。
「こんなのは初めて見た」
エヴァが足を止める。
「どういう意味?」
シグは通路の奥を見ながら答えた。
「高次元空間で消息不明になった艦が」
少し間を置く。
「三次元空間に戻ってくる例は、聞いたことがない」
その言葉に、誰もすぐ返事をしなかった。
与圧服の呼吸音だけが小さく響く。
シグは最後に静かに言った。
「恐らく」
ライトが壊れた通路を横切る。
「記録にもないはずだ」
5人は、その記録にない残骸の中を進んでいた。
歪んだ通路を進むにつれて、艦内の損傷はさらに酷くなっていった。
床だったはずの場所が壁のように傾き、隔壁は押し潰されている。
通路は本来の形をほとんど保っていない。地図の上では一直線のはずの経路も、実際には瓦礫と曲がった構造材の迷路になっていた。
ノアが先行して、工具で漂う破片を軽く払いのける。
その横を、シグが慎重に進む。
後方でリナが足を止めた。
周囲を見回しながら、小さく呟く。
「……なんだかグチャグチャで、地図通りに進んでるのか分からないですね」
声にはわずかな震えが混じっていた。
宇宙服越しでも、それがはっきり分かる。
セレナは艦の設計データと現在位置を照合する。
「大丈夫」
短く言う。
「そのまま直進すれば、艦橋のはずよ」
その言葉に、リナは小さく息を吐いた。
しかし足取りは相変わらず慎重だった。
やがて、通路の先に大きな開口部が見えてくる。
シグがライトを向けた。
「……艦橋だな」
隔壁の一部が裂け、入口は半分崩れている。
六人は順番にその隙間をくぐり、内部へ入った。
艦橋も、他の区画と同様に酷い有様だった。
操縦席は根元から折れ、コンソールは粉々。
天井のパネルは剥がれ、計器の破片が静かに漂っている。
本来なら、ここには艦長や航法士、通信士、戦術士など十数人が詰めているはずだった。
だが——
誰もいない。
シグがゆっくりと艦橋の中央まで進む。
ノアは壊れたコンソールを調べ、エヴァは周囲をライトで照らした。
メイが周囲を見回しながら言う。
「……死体とか、全く無いよね」
その言葉に、リナがすぐ反応した。
「こ、怖いこと言わないで」
少し泣きそうな声だった。
メイが肩をすくめる。
「ははは」
軽く笑う。
「私だってそんなの見たくないよ」
壊れた艦橋を見回す。
「でもさ、こういうのってさ」
少し芝居がかった声になる。
「バーンってホラーな展開がお約束じゃん」
その瞬間、リナのライトが慌てて周囲をぐるぐる照らした。
「やめてよ……!」
メイはさらに笑う。
エヴァが静かに口を開いた。
「このくらいの軍艦なら」
壊れた艦橋を見回す。
「2、300人は乗ってるはずよ」
ゆっくり言葉を続ける。
「確かに」
短く言った。
「全く無いのは、おかしいわね」
言葉のあと、艦橋に静かな沈黙が落ちた。
壊れた軍艦。
血痕も、遺体も、衣服の切れ端すらない。
残っているのは、潰れた艦だけだった。
艦橋の中央に浮かびながら、セレナはゆっくり周囲を見回していた。
艦橋はほぼ壊滅している。
本来なら正面にあるはずの主航法コンソールは、基部から折れ曲がり、内部フレームがむき出しになっていた。配線の束が裂けた血管のように漂っている。
ノアがその残骸を慎重に押し分けながら言う。
「ここ、航行記録のメモリーがある場所ですね」
シグも近づいてくる。
航行ログは通常、艦のブラックボックスのようなものだ。
ワープ航行の詳細なデータや航路計算、機関状態がすべて保存されている。事故原因を調べるなら、最も重要な情報源になる。
だが——
そこにあるはずの装置は、完全に潰れていた。
ノアがライトを近づける。
「……ダメですね」
内部フレームは折れ曲がり、メモリーケースごと粉砕されている。
通常は耐衝撃構造になっているはずだが、まるで巨大な手で握り潰されたような壊れ方だった。
シグが静かに言う。
「メモリーはダメそうだな」
エヴァが周囲を照らす。
「他のバックアップは?」
ノアは首を振る。
「ここまで破損してると本格的に解体すれば何とかなるかもしれませんが、本星の調査団に任せるのが正解だと思います」
メイがコンソールの破片を軽く押すと、それはゆっくり回転しながら漂っていった。
「つまり」
軽い口調で言う。
「お手上げってわけね」
誰も否定しなかった。
その後もしばらく、六人は艦橋の中を調べ続けた。
壊れた端末。
裂けた隔壁。
浮かぶ破片。
だが、何も見つからない。
乗員の痕跡。
事故の手掛かり。
航行ログ。
どれも残っていなかった。
まるで艦だけが、空っぽの殻として漂ってきたようだった。
やがてシグが小さく息を吐く。
「……これ以上探しても」
周囲を見回す。
「何も無さそうだな」
少し間を置いて言う。
「これから調査艇に戻る」
セレナはモニターを見ながら頷く。
「分かったわ。ご苦労様」
その言葉を聞いた瞬間、リナの肩がわずかに緩む。
与圧服の中でも分かるくらい、明らかにホッとした様子だった。
その様子を見て、メイがにやっと笑う。
「分からないよ〜?」
わざとらしく言う。
「帰りにババーンってのも、お約束だから」
リナの体がビクッと跳ねた。
「ひっ……!」
メイは声を上げて笑う。
「あはは」
リナは半分泣きそうな声になる。
「やめてよ……!」
壊れた艦橋に、少しだけ人間らしい空気が戻る。
だがその笑い声も、どこか空虚に響いた。
200人以上が乗っていたはずの軍艦。
その中心部で、
生きているのは、今この5人だけだった。




