(五十九)一斉捜査、終了す①
テントの一つで、リリィーナは報告書にサインを終えた。
「コーヒーを、ブラックで」
軽食のスペースで紙コップのコーヒーを受け取り、リリィーナは波打ち際まで歩いて行った。熱いコーヒーの湯気を顎の下に当てながら、沖合いを眺める。
島の南には、十二隻の大型帆船が停泊していた。すべて局の船だ。近海を周航していたリングマスターと取引していた海賊船はすでに拿捕されていた。
昨夜のうちに、二千人の局員が島に上陸している。一時間足らずのうちに、海岸沿いには屋根だけの大テントが九十幕、設営された。このテントが、今日から三日間、局の臨時出張支局となる。
真珠の室の、あの状況で、リリィーナがただ瞬きしただけだったとは、誰にわかるだろう?
「ついに、心停止です。わたしは死亡状態になりました」
リリィーナはきちんと報告しながら目を開けたのに、トイズマスターは恐怖の悲鳴で迎えてくれた。
「死んだって!? うわ、真っ青だしッ、ホントに心臓止まってるな、血流も、君、なんで動いているのッ!? ゾンビなのか!? それともこれも、リングマスターの呪いなのか!?」
このときの心境を後で聞かされたが、トイズマスターは現役を退いた予備局員だ。技術を供与するデスクワーク派の仕事人なので、リリィーナたち武闘派局員のように、本物のゾンビ退治をしたことなど無い。そして、ゾンビについては、地球産のB級映画から仕入れた知識しかなかった。トドメに真珠の殻に覆われて見動きが取れず、恐怖はいっそうつのったらしい。
「なにをおっしゃっているんですか、先輩。わたしも局員ですから」
リリィーナは悪気は無かったが、悪ノリはした。トイズマスターに微笑みかけた。顔色は青いだろうが、もう動作にも支障は無い。おかげで右掌の傷の痛みも気にならなくなったのは、不幸中の幸いか。
トイズマスターは、わあ、と怯えた悲鳴をあげた。いやいやそんなの局員でも変だ、君はおかしいよ、と、慌てふためいた。
そこへ、祭壇の間の入口に白い制服の医療班がやって来たので、リリィーナは左手を上げて大きく振り、サッと立ち上がった。
「では、ニザエモンさん、また後ほど」
リリィーナは医療班と入れ替わりに、真珠の室を出て行った。
リングマスターのすべてのエネルギーを封じたリリィーナの銀の剣は、掃除班の手で回収された。厳重な警戒の下で局に運ばれ、解析後は速やかに分解処理されるだろう。
トイズマスター・ニザエモン氏は、多次元管理局の仲間の手によって保護された。軟禁のストレスによる疲労は認められたが、体の方は軽傷だった。大テントで医療班の応急処置を受けると、ラリゼル姫を隠したオルゴールボックスを携えて、匠の館に戻って行った。
リリィーナはコーヒーを一口飲んだ。舌の味覚が麻痺しているので味がわからない。体は魔法で意思通りに動かせるが、皮膚も痛覚も、手足の感覚も、完全に麻痺状態が続いている。
今頃はトイズマスターが魔法のオルゴールを開けているだろう。
そしてメロディーが流れ出す。
人形の部屋の赤い寝椅子で眠っていたラリゼル姫が、身じろぎして、ゆっくりと目を覚ます。するとそこは、見慣れた匠の館の、トイズマスターの作業場だ。窓からは明るい朝の光が差し込んでいる。
ラリゼル姫は寝椅子に上半身を起こし、手をついた赤いビロードの感触に首を傾げる。こんな寝椅子は昨日までトイズマスターの作業場には無かったはずだと。
でも、すぐ近くでは、トイズマスターが鼻歌交じりに、大きな鞄に荷物を詰めている。
「さあ、支度は済んだ。一斉捜査は終了したんだ。みんなで一緒に、白く寂しい通りへ帰ろう」
トイズマスターの優しい言葉に、ラリゼル姫は帰れる事をまだ夢のように思いながらも、大切に仕舞っていた魔法学院の制服に着替えるだろう。ただ、靴だけは踊り子人形と交換した銀のダンスシューズだ。学院指定の茶色の紐靴は、身代わりの踊り子人形と一緒に失われてしまったから――――。
リリィーナがリングマスターの全エネルギーを銀の剣に封印したとき、事実上、リングマスターの支配は終わったのだ。
同時に、雇用されていた者たちの契約は、その場で失効した。とくに魔法の契約内容が金銭などの物質的報酬だった者は、その場で契約が解除された。一方で、リングマスターの真の生業を知った上で加担していた黒騎士団の者たちなどは、急襲した局員によって全員逮捕され、その半数は、数時間前に出航した第一便ですでに境海を越えていた。
そろそろ朝の七時になる。
トイズマスターと再会を約束した時刻が近づいていた。




