(五十一)真実の姿は③
ハーレキンは揺れた。
ラリゼルの手を放してのけぞり…………倒れた。
糸の切れた操り人形のように、あっけなく。横たわった身体の下から真紅の液体が流れ出して青い衣裳を染め、さらに周囲の床にじわじわと広がっていく。
「姫君、こちらへ!」
リリィーナに肩を掴まれた瞬間、ラリゼルはひと呼吸置いて、思いっきり悲鳴を上げた。リリィーナの腕にしっかりとしがみつき、あらためてハーレキンを見下ろした。ハーレキンの顔面には黒く細いひび割れが数本走っていた。
「死んでしまったの? きれいな顔は仮面だったのね。ハーレキンは、仮面を付けていたのね?」
泣きそうなラリゼルの声を聞きながら、リリィーナはハーレキンのひび割れた顔を取り上げた。
美しい顔は、仮面だった。顔の下は、朱銅色の繊維の束に銀線が混じった作り物の筋肉で構成されていた。その顔筋を縦横に走る血管は透明な管であり、床に流れ出た薄紅い血のような液体は、ある程度広がると紅い痕跡を残してゆっくりと消えていく。
後には、むせかえるような薔薇の香りが残った。揮発性の高い液体なのだ。ハーレキンから薫っていた薔薇の芳香は、この液体の香りだったのだ。
「これがハーレキンの正体です。いつわりの道化の王であることが、彼の役割でした」
リリィーナは仮面をじっと見てから、ハーレキンの頭の近くにそっと置いた。
不気味なほど静かだった。
大広間からは音楽も聞こえてこない。
誰も見に来ないのは、王城では子どもの悲鳴は日常茶飯事だからだと、リリィーナは説明した。
普段の王城では、変身する子どもの断末魔のような悲鳴が、いつもどこかで聞こえている。けれど、ピエロは気にせず、様子を見にさえ来ない。変身した子どもたちは自動的に地下の檻へ転送されるから。そうして翌朝になれば、魔法の幻惑は子どもたちの記憶を再び塗り変え、夜の遊びの国の秘密は心の闇の中に封印される。
現在、王城に居るピエロの多くは、密かに局員と入れ替わり済だとリリィーナは言った。
「タンゲイトーの魔法はすでに綻び始めているんです。わたしが外から堂堂と乗り込んできたことによってね。もう、大人がはじき出される魔法は、効果が無くなっています。さあ、子豚を探しに行きましょう」
リリィーナに手を引かれ、ラリゼルはドレスをさばきながら、回廊を小走りに移動した。
「ハーレキンが人形だったなんて…………」
ラリゼルは呆然と呟いた。ハーレキンの手が氷のように冷たかったのは、人間ではないからだ。そして体温が無いように、心も無かった。ハーレキンは自分で魂が無いと言った。彼の言ったことはすべて真実だった。愚かな正直者、それがハーレキンだった。
「本当に生きているみたいだったのに……」
「ええ、彼はトイズマスターの作品でした」
パチンッ、とラリゼルの中で、最後のパズルのピースがはまった。
トイズマスターの魔法の手にかかれば、ぬいぐるみにさえ擬似生命が宿る。不可解だったトイズマスターの言葉や行動に一本の筋道が通っていく。――――とはいえ、これですべての疑問が氷解したわけでもない。
「ハーレキンはトイズマスターがここへ連れてこられる前からいたはずよ。それにあのトイズマスターが、邪悪な目的で魔法の人形を作るわけがないわ」
「トイズマスターが作ったのは、完璧な人間に見える器です。リングマスターが望んだのは、己の分身として操れる邪悪なる傀儡でしたが、境海の悪魔には人型の人形は作れても、真に美しい物は創造できなかったんです。だから、一流の腕を持つトイズマスター・ニザエモン氏を誘拐してきました。トイズマスターが精巧な『顔』を作るまで、ハーレキンは素顔をさらさない、白い仮面の人形でした」
「この国の真の支配者であるリングマスターと、王さまは別だったのね。みんなはハーレキンを嫌いではなかったわ。でも彼がきれいな顔になったのは、私が来てからなのね?」
「ええ、ニザエモン氏も、そんな物を作るのは世界にとって危険だからと拒否していたんですが、ラリゼル姫を匠の館に留めるのと引き換えに、取引に応じたそうです。そして、人間と見分けがつかない精巧な仮面を作りあげた。ハーレキンの造形は彼の最高傑作だったそうですよ」
「だったら、本物のリングマスターはどこにいるの。この国の真の創造主は誰なの?」
「それをこれから探り出します。リングマスターは必ず姫君に会いに来るはずですから」
「わたしに? なぜ?」
「この島から脱出するには、全き人間である姫君の助けが必要だからですよ。ご心配なく、接触する前に逮捕しますから」
子豚は探すまでもなく、ラリゼルが隠したときと同じ柱の陰に座り込んでいた。 ラリゼルは子豚を抱き上げ、しっかりと胸にかかえた。
だしぬけに、外でカミナリが轟いた。
ラリゼルは窓へ近付き、外の光景に目を見張った。夜空に星がない。満月は顔を出しているが、ほかは暗雲が空を覆っているのだ。
「いったい、外で何が起こっているの?」
夜の遊びの国は常春の国だ。天候は魔法によって完全管理され、一年を通して四季が無い遊園地には、雪遊び用の雪が降ることはあっても、雨の日は無い。
「姫君、こちらを」
リリィーナは左手で、ポケットから小さな箱を取り出した。蓋の中央に赤い石の嵌め込まれた小箱だ。
「それは、トイズマスターのオルゴールね」
「トイズマスターから姫君へ、特別な贈り物です」
リリィーナはオルゴールを左手に載せ、ラリゼルに向けて蓋を開けた。
金属の舌を弾いて、もの哀し気な音色のワルツが始まる。オルゴールの右半分は小物入れだ。左半分を占める鏡の湖の上に、白と銀の踊り子人形がひょこんと立ち上がった。
次の瞬間、踊り子人形は等身大の少女となって、ラリゼルの前に立っていた。
ふわっとした銀の巻き毛に青鋼玉の瞳、紅い唇をした少女だ。同じ大きさになると、ラリゼルの姉妹のように似ている。いや、これはラリゼルへの贈り物、トイズマスターは意図してラリゼルそっくりに作ったに違いない。
人形の少女は、踊り子の優雅な足取りで、ラリゼルの方へ近付いた。
ラリゼルも人形の少女も、俯いて顎を引いた。額がぶつかる――――だが、接触の感触は無く、人形の少女は幻影のようにラリゼルに重なって、風のように透過していった。
ラリゼルが背後を振り返ると、通り過ぎた人形の少女は、白と銀の夜会服をまとっていた。ラリゼルが着ていたのとまったく同じだ。そして、ラリゼルの方は、レースとチュールを重ねた踊り子の衣裳に変わっていた。靴まで銀のダンスシューズだ。茶色の紐靴は少女人形が履いている。
「どういうこと?」
ラリゼルは子豚を胸に抱きしめた。トイズマスターとリリィーナの魔法なら怖がることなど何も無いが、少女人形がラリゼルになって、ラリゼルが踊り子の衣装を着る理由がさっぱりわからない。
「コロンバインになったラリゼル姫の協力は、このお人形に手伝ってもらいます。本物の姫君は休んでいてください。疲れたでしょう?」
リリィーナが右手の指をぱちりと鳴らした。
ラリゼルは魔法の光に包まれた。急にリリィーナが巨人のように大きく見えて、体がフンワリ空中を飛び、オルゴールの中に運ばれた。
オルゴール箱の中半分は人形のドレッサールームだ。真珠の花で飾られた白い鏡台に紅いビロードの寝椅子がある。ラリゼルはその寝椅子にそっと降ろされた。そのまま真紅のビロードのクッションに横たわる。
ラリゼルはたちまち眠りに襲われた。寝椅子の足下には子豚が丸くなって深い眠りについている。
リリィーナはオルゴールの蓋をそっと閉めた。




