(三十八)局員の内偵③
「トイズマスター!」
「ニザエモンさん!」
ラリゼル姫とリリィーナが駆け寄ろうとするのを、左手を上げて制したトイズマスターは、作業台にあった布をすばやく取り、口元に当てた。それから布を押さえる手を左に変え、自由になった右手でペンを持ち、メモ用紙に走らせた。
――血はすぐ止まる。これは警告だ。禁忌に触れたことへの。用心して、関係の無い内容を話すつもりで言葉を選んだのに、禁忌に抵触したらしい――――
「リリィーナ、トイズマスターは!?」
ラリゼル姫は目を涙で潤ませ、握った両手を顎に当てて震えていた。
「リリィーナは、魔法で治せないの?」
ラリゼル姫は涙を流していた。目の前でトイズマスターが血を流したことがそうとうショックだったようだ。
「トイズマスターは禁忌の魔法でリングマスターの支配下にあります。わたしが魔法を掛けると、リングマスターに知られてしまうんです」
――そう、これはただの脅しだ。私が動けなくなると困るのはリングマスターだから、心配はいらないよ。それより君は、もう行かないとだめだ。私から差し入れがある――
トイズマスターはペンを放した右手で、エプロンのポケットから何かを掴み出し、すばやく投げた。
リリィーナは空中で掴み取った。ふわりと甘い薔薇の芳香がした。手の中にすっぽり収まる青い香水瓶だ。目の上にかざして灯りに透かしてみる。青ガラス製の栓が少し弛んでいたらしく、瓶の口が濡れていた。
トイズマスターからも薔薇の香りがいた。香りにむせたのか軽く咳き込むと、ハア、と大きく息を吐いて、口を押さえていた布を下ろした。
「それ、は、闇夜に摘んだ月光草と、薔薇から抽出したエッセンスの混合液だ。液体で少量付ければ香りを楽しめるが、吹きかけて肺に直接吸入されれば即効性の眠り薬になる。この島の自生植物で作ったから、リングマスターも魔法の香りの違和感には気付かないはずだ……」
ふう、と、トイズマスターは肩を落とした。胸元から腹の辺りまで作業用エプロンは血で汚れている。
「ありがたく頂戴します。喉は大丈夫ですか」
リリィーナは香水瓶の口を閉め直し、作業台にあった布で丁寧に拭いてから、背広の左ポケットに仕舞った。
「ああ、少し痛むが、裂けたのは喉の奥だ。一日くらいで治る。それより、君だ。時間が無いだろう。姫君に話があるなら先に聞き出したまえ。その間に私は、手を洗って着替えてくるよ」
トイズマスターは隣室のドアから出て行き、リリィーナとラリゼルは作業場で二人になった。
「姫君、最後の質問です。姫君の同情を、一番引きたがった人はいましたか?」
「みんな気の毒で、同情せずにはいられないわ。比べたりできない。この国では大人も子どもも、みんな不幸だわ……」
ラリゼルは震えながら、隣室へのドアを涙目で見つめていた。リリィーナがいて、これ以上の悪いことは起こらないと確信しているから耐えてはいるが、そろそろ限界だろう。
「これから捜査は大詰めを迎えます。リングマスターは姫君に接触して来るはずです。我我はその前に彼を確保したいのです。リングマスターが必要としているのは、姫君の心なんです。同情を引いて付け込むための、姫君の優しさの隙間を狙っているんです」
リリィーナはラリゼル姫の顔をじっと見守った。
ラリゼル姫は、村に居た女性と、王城から出してくれたおじいさんかしら、と小首を傾げながら答えた。女性の方は遊園地に来た子どもだったが追放されて召使いにされた。おじいさんはリングマスターに攫われてきて召使いにされた、という話だった。
「姫に接触した大人は限られている。リングマスターは魔法で姿を変えますが、何にでもなれるわけではありません。その二人に絞り込めただけでもありがたい」
と、ドアが開いてトイズマスターが入ってきた。新しい作業エプロンは染み一つ無い白さで、薔薇の香りも消えていた。




