(三十九)月光の下で咲く白薔薇のごとき
「さっきは、びっくりさせてすまなかったね。もう大丈夫だよ」
「ああ、良かった……」
きれいな作業エプロンを付けた普段通りのトイズマスターを見て、ラリゼルは安心し、落ち着きを取り戻した。
「わたしの用は済みました。トイズマスター、ラリゼル姫をよろしく」
リリィーナはラリゼルの前からサッと踵を返すと、廊下へのドアに向かった。
「ああ、気を付けて。姫君は私が王城に送り届けるよ」
「お願いします。では、これで失礼」
ドアが閉じた。最後にリリィーナは、ラリゼルを一瞥もしなかった。
ふいに、ラリゼルは、リリィーナと再会した当初の違和感を思い出した。
何故このときに記憶が刺激されたのは、わからない。
ただ、自分の直感を確かめたいだけで、廊下へのドアを開けて飛び出した。
そのタイミングは、リリィーナの後ろ姿が奇妙にぼやけた一瞬と、奇跡のように合致していた。実際に目にするのは初めてだったが、魔法で変身が成される瞬間だったとわかった。
リリィーナのスリムな身体が、さらにすらりと背が高くなり、肩の逞しい騎士の後ろ姿に変じる。その黒いマントの肩に流れた輝く銀の巻き毛、完璧な白い横顔。チラリと見えた瞳はエメラルドの緑。
まるで、月光の下で咲く白薔薇のような美しさ。
――――――ラリゼルには、そう見えた。
自分の視力と正気を疑って、慌てて瞬きしたら、黒髪に黒い衣装の黒騎士の後ろ姿が玄関から出て行き、ドアはパタンと閉められた。
ラリゼルが我に返ると、無人の廊下には薔薇のかすかな香りが軌跡のように残っていた。
あの人が局員の『ブランシュ』だ、と、ラリゼルは確信した。
偶然見てしまったブランシュの美しい姿は、ラリゼルの目と心の奥に強く焼き付いた。その輝きは、ハーレキンへの恐怖や絶望や憎しみや、夜の遊びの国に来てからラリゼルの心に澱んでいたあらゆる負の感情を、きれいに漂白してしまった。
無言で部屋に戻って来たラリゼルを、トイズマスターは不思議そうに眺めたが、そろそろ王城へ行こうか、と優しく促してきた。
「ええ、大舞踏会には参加するわ」
ラリゼルがうなずくと、トイズマスターはホッとした表情になった。まだラリゼルが大舞踏会へ行くのを渋っていると危惧していたのだろうか。
トイズマスターは王城までラリゼルを送ろうと申し出た。
「さて、いよいよだ。王城は君にとっては安全な場所だし、大舞踏会にも危険なことは何一つ無いけど、一つだけ、ハーレキンから身を護るための、秘密のキィワードを教えておこう。もしも、ハーレキンが、君の嫌がることをしようとしたら、『愛している』と言うんだよ。それで彼は何も出来なくなる」
トイズマスターの言い様は、含みのあるのを通り越して怪し過ぎた。
ラリゼルは勢いよく首を横に振った。
「それだけは、絶対、いや。たとえ世界の終わりでも、ハーレキンに向かってその言葉だけは言いたくないわ」
そこはトイズマスターの頼みだから百歩譲ったとしても、ラリゼルにもできないことがある。
ところがトイズマスターはさらに念を押してきた。
「良いから、しっかり覚えておきなさい。仮面をつけていないハーレキンにとって、偽りの愛の言葉は最凶の破壊の魔法なんだ。忘れないで、『愛している』だよ。言うのは、どこで、どんな言い方でも、かまわないからね」
あまりにも真剣な迫力ある言いつけに、ラリゼルは渋渋だが了承した。
ラリゼルが王城の門をくぐって振り返ると、トイズマスターは手を振り、匠の館へ戻って行った。




