(二十九)海の道化
アル・レキノ船長は、逃げ道を求め、ホールの左翼階段へ走った。ホールは結界で閉じられて逃げられず、彼の護りであった闇の盾は大ガニの消滅とともに消えていた。魔物の存在そのものが、レキノ船長を護る魔法の源でもあったのだ。
リリィーナは左手を一振りした。ホールを囲む結界の壁が打ち消され、光の消滅とともに、ポン、と空気が抜ける音がした。わずかな間とはいえ魔物のいた空間では、外気にくらべて気圧が低くなっていたのだ。
「こんちくしょうめ!」
レキノ船長は階段を駆け上がったが、五段目でリリィーナは追いついた。
リリィーナはレキノ船長に銀の剣を突きつけた。
レキノ船長は死人のように蒼白になり、右手の短剣を落とした。
「それが局員の銀の剣か。確かにそれなら、境海の悪魔の魔力も斬れるだろうさ。探偵と言いながら、結局は局の犬だろうが。ケッ、さぞかし、いい気分だろうぜ」
のろのろと両手を挙げたレキノ船長は片頬を歪め、歯を剥き出した。
「その通りだ。境海における司法の権限はすべてが多次元管理局に収束する。なんなら私に襲われたとリングマスターに知らせ、助けを求めてみるか?」
リリィーナが剣の先でレキノ船長の顎を持ち上げると、彼は高高と挙げていた両手を肩の高さにまで下げ、鼻息を吹いた。
「きさまらの目的はリングマスターか。それこそ愚の骨頂だ。ヤツは境海の悪魔だぞ。一介の奴隷商人のために、リングマスターは島を離れたりしないさ!」
「リングマスターと取り引きをしたんだろう。ヤツはどんな姿をしていた?」
「知らないね。リングマスターは島から出ないんだ。たとえ多次元管理局でも真の姿を見いだせるものか。俺が取り引きしたのは代理の黒騎士と魔術師さ」
「では、こちらから連絡する手段は?」
「そんなものはない。だが、あのディングル・イケトはオレの見張りを兼ねたボディガードだったんだ。リングマスターが海の魔物を模して魔術で創造した、人工精霊というやつさ。創造主であるリングマスターに消失は伝わるはずだ」
レキノ船長の目には冷たい憎悪が燃えている。リングマスターの復讐を恐れるがいい。お前は破滅だ、と。
リリィーナは鼻先で笑い飛ばした。
「エレメンタルは滅ぼした。もう痕跡すらない。創造主が知ったとしても、それだけだ。どちらにせよ、リングマスターはお前を助けられないさ」
断言すると、レキノ船長の口の端がピクピクと痙攣した。額に汗が玉を結んで鼻筋を伝い落ちていく。
「オレをどうするつもりだ。殺すのか?」
「店を出ろ。それから次の指示を与える」
リリィーナは剣を突きつけたままレキノ船長に階段を下りさせた。ホールを横切り、玄関へ向かった。
「出ろ。わたしはもう用が無い」
リリィーナはレキノ船長を外へ蹴り出して、ドアを閉めた。
外でひとりになったと知ったレキノ船長は、案の定、逃げ出した。
バタバタと石畳を走る足音が遠ざかり
止まった。ワァッ、と悲鳴があがった。
リリィーナが耳を澄ましていると、レキノ船長の気配は消えた。外で待ち受けていた多次元管理局の局員が、レキノ船長を連れ去ったのだ。
通りに面した窓からは店を取り囲む野次馬の群れが見える。すでにこの事件は噂となって、野火のように街に広まっているだろう。
リリィーナは銀の剣を小さくし、ポケットに収めた。
破壊されたホールは無人だったが、吹きぬけに面した階上の廊下には、根性のある野次馬が残っている。リリィーナが障壁を張ったおかげで、嵐が吹き荒れたのは吹き抜けの一階部分だけだった。二階を見上げると、一人と視線が遭った。彼は不敵に笑い返し、破壊の名残の少ない左の階段を降りてきた。
「驚いたぜ。最近の魔術師は、ところかまわずケンカをふっかけるんだな」
ロム・バルディ船長はまったく恐れ気無く、リリィーナの方へやって来た。
「ちょうど良かった、ロム・バルディ船長。あなたの白い女神号を雇いたいのですが、都合はつきますか?」
リリィーナの唐突な申し出にバルディ船長は顔をしかめて怪しんだが、不思議探偵のリリィーナだと名乗ると、得心がいったのか大きく頷いた。彼は経験深い境海の船乗りらしく多次元世界を知っており、多次元管理局についての知識があり、白く寂しい通りも知っていた。
「中央世界がここまで出てくるとはね。こんな所で船を探すのは理由ありの仕事に違いないな。どこへ行きたいんだい?」
バルディ船長とリリィーナが話出すと、二階に残っていた野次馬も解散し、店の従業員は破壊されたホールの片付けを始めた。
「普通の海図には載っていない場所です。代金は特別に払いますよ。これは手付けです」
リリィーナがポケットからダイヤ付きのきらめく金貨を出して見せると、バルディ船長は白い歯を見せて破顔した。いかにも海の男を絵に描いたような、日焼けした大男だ。四角い顔にごわごわの黒いヒゲ。ぶっとい二の腕には海竜の図柄が青黒く彫り込まれ、海賊と名乗ったほうが通りが良さそうだ。
「まかせろ、この辺の境海は俺の庭みたいなもんだ。料金次第でどこへでもいってやらあ!」
バルディ船長は分厚い胸をそらせた。その長い経歴には怪しい噂も含まれているが、現在は腕のいい船長として有名だ。リリィーナが必要とする条件を満たした人物である。
「わたしをタンゲイトーに連れて行って欲しいんです」
それは最果ての魔の海にある。意味するところは死に等しい。
「なんだって?!」
海の男の蛮勇は、たちまち崩れ去った。
境海の旅人亭は閉店状態に追い込まれたにもかかわらず、魔物が大暴れして壊れた一階を見物しに大勢の見物人が押し寄せて来た。
リリィーナは店の支配人に数枚の金貨を握らせ、やってきた港湾局の係官に後をまかせて、ロム・バルディ船長と港へ向かった。




