(二十八)護衛の魔物②
リリィーナは目指す場所へ、数センチの狂いも無く着地した。
すかさず床に左膝を付き、左掌を床に押し当てる。
掌の下から光が湧き出す泉のごとく生まれ、波紋のごとくに広がった。光はホールを走り、床面積よりも一回り小さな黄金色の光の円を描き出す。その周縁に沿って、光は右回りの螺旋を描きながら上方へ成長し、ほどなくホールの内側をぐるりと囲む光の壁を形成した。
ほとんど透明な、ほのかな光を放つ魔法の障壁、いわゆる結界だ。魔術も物理的な衝撃も外には漏らさない。これで二階にいる野次馬たちは、のんきに見物できるだろう。
いきなり強い風が吹きつけてきた。
リリィーナの髪は逆巻き、上着の裾はめくれ上がった。風は唸りを上げながら、光の壁の内側を左回りに吹き荒れた。
6暴風の源は、シャンデリアにぶら下がる大ガニの甲羅の背だ。
リリィーナは立っていられず、床に右膝を付いた。剣を床に突き立て体を支える。床を覆っていた白煙も吹き飛ばされ、木の床は黒い粘液に汚された部分が風で乾き、モザイクのような斑模様になった。
リリィーナは床に倒れ込んで黒い粘液に汚れていない床面を転がり、暴風の中心地であるシャンデリアの真下に移動した。台風の目のごとく無風に近い場所で立ち上がったとき、頭上でシャラシャラとガラスが鳴り、目の前にハラリと黒い糸が数本垂れてきた。
大ガニがハサミを振り立て、鎖が軋んでいる。巨大な四本のハサミのうち二本がシャンデリアの鎖を切った。シャンデリアだけが落ちてくる。黒い糸にまみれた危険なガラスの大きな凶器の落下する真下に、リリィーナはいる。
大ガニは落ちてこない。二本のハサミに何重にも巻き付けた黒糸と、もう一組みある二本のハサミで残ったシャンデリアの鎖を掴んでぶら下がり続けている。
床に落下したシャンデリアは、盛大に砕けた。
ロウソクと炎とガラス飾りが無数の破片となって飛び散り、大量の埃が吹き抜けの天井近くまでもうもうと舞い上がる。
埃に閉ざされたホールのどこかで最後のガラス片がチリンと鳴ったとき、大ガニはやっと鎖を放した。右のハサミと半身に巻き付けた糸を、蜘蛛のようにツツーッと長く引いて滑り降り、音もなくホールの中央に降り立った。
床は壊れたテーブルや椅子やガラスの破片やらで足の踏み場がないほどだ。
大ガニは、シャンデリアの残骸をハサミで押しのけた。敵の死体を確認するためだ。キョロついている。
床のどこにも、肝心のリリィーナの姿がないからだ。
ホールを空間ごと封じたのはリリィーナだ。となれば大ガニ同様、閉じられた空間内部にいるリリィーナも逃げられず、隠れる場所もないはずだった。
「こっちだ」
大ガニは頭上を仰ぎ、いきなり大量の泡を吹き出した。バケモノが驚くとすれば、まさにその驚きを、こいつは泡を吹いて表現したのだろう。
リリィーナは吹き抜けの天井すれすれにいた。
明かり取りの天窓から地上まではおよそ三十メートル、数分前の大ガニよりもより高い位置でシャンデリアを吊り下げていた鎖にぶら下がっていた。鎖とリリィーナを繋ぐのは、左手の甲と手首に巻き付いた絹の如き細い黒糸のみ。
黒い泡沫と違い、固形化した黒糸はシャンデリアも鎖も害さない。
大ガニは長い糸を吐き続け、天井から床にまでたっっぷりと垂れさせていたから、リリィーナは床に落ちていた黒糸を必要な分だけ拾えたのだ。長さも強度も充分だった。一定の力を掛けて物に触れると適度な粘着力を発揮する。
リリィーナはシャンデリアが床で砕ける一瞬前に、黒糸を頼りに、垂直に飛び上がっていた。埃と破片を煙幕に上昇するや、たちまち天井にたどり着いた。入れ代わりに大ガニは降下した。リリィーナは埃の煙幕の中、下へと向かう大きな甲羅の背面を見下ろしながら、鎖の上方に巻き付けてあった黒糸を引いた。その刺激によって粘着性の強さを発揮させた黒糸は、リリィーナの左手と鎖をしっかりと繋いだ。
そして今、大ガニの驚愕が覚めやらぬ間に、リリィーナは大ガニの真後ろに着地した。
横歩きしかできない大ガニが真後ろへ振り向くには、数秒が必要だった。
リリィーナは銀の剣の一閃で四本のツメを斬り飛ばした。それが床に落ちる前に、さらに漆黒の甲羅を背中から真っ二つに切り分けていた。




