(二十七)護衛の魔物①
「ハウ・ディンクル! 何をしている、早く殺せ、ズタズタにしちまえ!」
レキノ船長の指令を受け、巨大なツメが引かれた。まるで長い柄に装着された鎌の刃のようなそれは左右に一対あり、ハサミのように向かい合っていた。
そいつの全身は艶光りする漆黒の甲羅で覆われ、その上部の真ん中から突き出た二本の触覚の先端で、二個の球体がグルリと動いた。目だ。
漆黒の、巨大な蟹の怪物。
「護衛の魔物か!」
リリィーナは振り上げられたハサミを見上げた。
大きなカニは、ハサミをもう一組持っていた。
四本のハサミが、それぞれ別の動きをするのだ。
店内は阿鼻叫喚のるつぼとなった。
「あいつら、魔術師だ!」
「だれか、港湾局に連絡しろ!」
「ほかの魔術師はいないのかよ」
客たちが我先にと逃げ出していく。椅子やテーブルが蹴倒され、食器と料理が撒き散らされる。大勢がいっせいに出口へと殺到した。
「ハウッ、ディングル、イケト! 早く殺しちまえ!」
レキノ船長の指令に応えるように、大ガニの口から漆黒の泡がぶくぶくと吹き出した。
次の瞬間、泡が滝のようにほとばしった。
床に流れた泡が潰れて粘液状にわだかまる。シュウシュウと音を立てて白い煙が上がり、強烈な異臭が漂ってきた。酸性毒だろう。後から後から吐き出される泡に押され、粘液がどろどろと床を流れて押し寄せてくる。大ガニは酸に耐性があるとみえ、平気で粘液の上を渡っている。
ホールを横切る間に長テーブルは叩き壊され、ベンチはハサミで切り裂かれた。
ホールの左右と中央階段近くにいた客はいち早く階上へ避難した。
裏口のある厨房からも遠く、逃げ遅れた少数の客はホールの片隅で倒れた長テーブルやベンチを盾代わりにうずくまっている。
リリィーナはホールの右端にたどり着き、階段を中半まで駆け上がった。
大ガニは、ホールの真ん中で上向き、ピューッと液体を吹いた。液体は細く伸び、ヒュルヒュルと糸状に宙を飛んでシャンデリアにへばりついた。
大ガニは床を蹴って跳び上がった。天井から垂れ下がる数条の黒糸をよじ登り、シャンデリアの上部に取り付く。明かり取りの天窓を背にした大ガニの影が、一階のホールの床にくっきりと落ちた。
大ガニのいる高さは、階段の中途にいるリリィーナの真正面だ。
シャンデリアが、ギシ、ギシ、と揺れる。鎖が軋む音かと思えたが、どうやら大ガニの笑い声らしかった。
「嫌な笑い方をするな。海の魔物にしては乾いたヤツだ。陸のカニかな?」
リリィーナはすばやく周囲を見回した。
魔術絡みの争いには、普段はケンカや騒ぎ好きな船乗りたちすら忌避して、誰も参加しに来ない。しかし、吹き抜けに面した二階の廊下では野次馬たちが手すり沿いに並んで高みの見物だ。
左の階段近くの壁際に黒い塊がある。
アル・レキノ船長が隠れている闇の盾だ。
大ガニをけしかけたきり、他には仕掛けてこない処を見ると、どうやらレキノ船長自身は魔術師ではないようだ。大ガニがリリィーナを片付けるのを闇の楯に潜んで待つつもりだろう。
一階から人気は無くなった。
隠れていた客は大ガニの攻撃目標がリリィーナだけだと知り、ゆうゆうと逃げだしたようだ。壊れたテーブルやベンチの大半は移動中の大ガニにはじき飛ばされて隅のほうへ押しやられ、ホールの中央付近は広く空いていた。
シャンデリアがチリチリと鳴った。
大ガニは天井から吊り下がっている鎖に左のハサミと足を絡ませ、足場としたシャンデリアを揺さぶっている。振れだした。ゆっくりと大きく、リリィーナと大ガニとの距離が遠のき、また戻る。もっともリリィーナの方へ近付いたとき、ブウッ、と黒い泡が飛んできた!
リリィーナは銀の剣を一閃させた。銀の刃が空を切り裂く。剣の軌跡が円を描いて風圧の盾となり、黒い泡をはね除けて消えた。銀の刃に触れた泡はことごとく蒸発した。階段の手すりや床にこぼれた分は白煙をあげた。その部分は黒ぐろと変色していた。
リリィーナは階段を下りかけた。ここでは足場が不利だ。ヤツを引き下ろす方法を考えなくては。
通常の魔法攻撃では倒せなくとも、銀の剣なら大ガニを斬れる。
だが、リリィーナは二段降りて佇んだ。
階段の上り口が白煙ただよう異臭の黒沼になっている。
大量の粘液が低い階段の下に流れ集まったらしい。
いかにリリィーナでも踏み込みたくない危険な沼沢地だ。だが、野次馬の居並ぶ二階には大ガニをつれて上がれない。
一階ホールには、白い煙が床を這うように充満している。
ところが、ホールの中央付近だけはポッカリ円形に空いていた。そこは黒い粘液で汚されておらず、木の床そのままの色だった。
リリィーナは手すりを乗り越え、きれいな場所めがけて、飛んだ。




