(二十六)境海の旅人亭
その店は比較的新しい街の目抜き通りにあった。
ホテルとレストランを兼ね備えた『境海の旅人亭』だ。目印は帆船の形をした派手な立体看板で、よく待ち合わせに使われる。七階建ての建物は街でも五指に入る大きさだ。
一階ホールの大部分は、いくつもの長いテーブルが並べられたレストランだ。
長いベンチ席に隙間無く腰掛けているのは、ほとんどが船乗りと商人だ。午後遅くの昼食と早めの夕食を取りにきた人人は、酒を満たした大きなジョッキやゴブレットを何度も乾杯に掲げている。乾杯の音頭はゆるやかに歌へと移行し、荒っぽくも陽気なリズムの大合唱が、天井に垂れ下がるクリスタル装飾を揺さぶった。
店内では少年たちが大人に混じって立ち働いている。数人分の大ジョッキや料理の大皿を運び、食後の散らかったテーブルを片付ける係である。仕事は重労働で先輩従業員の厳しい目が光っており、忙しいから休憩も無きに等しい。
リリィーナはそんな少年のひとりに近付いた。
小年は、ちょうど客の立った席を片付け、厨房のカウンターに汚れた食器を持ち帰ったところだった。
「君に頼みがあるんだが」
リリィーナが声をかけると少年はうなずき、手にしていたお盆を置いた。
まだ十二、三歳にしか見えない少年だ。彼らが客からいろんな用事を頼まれるのはよくあることで、その労働は特別チップによって精算される。個人的に渡されるお金は四割が店の収入に、残りの六割が駄賃になる。リリィーナのような都会の紳士風の客は歓迎された。文明社会を旅慣れた商人や旅行者は荒くれ者の船乗りと違い、気前よくチップを払う習慣が身についているからだ。
リリィーナは銀貨を一枚渡した。少年の目の色が変わる。真新しい銀貨だ。この辺りの相場では少年の一ヶ月分の稼ぎに相当するだろう。店の外へ半日以上お使いに出たって許される金額だ。彼は破格のチップを左手に握りしめると、期待を込めた目でリリィーナを見上げた。
「どんな御用でしょうか?」
「まずは船を雇いたい。海図にも乗っていない海域へ行ってくれる船はないかな?」
「それなら、ちょうどいい船が今朝から寄港していますよ」
少年はいたずらっぽく目を輝かせた。港湾局職員の人間関係から、境海の果てを旅した船の最新の土産話まで、噂話は彼らの貴重な収入源なのだ。
「中央階段近くの、右側のテーブルです。ほら、大ジョッキでワインをぐいぐい飲んでいる、緑の上着に黒いヒゲの。あれが、ロム・バルディ船長です。商売に失敗して明日をも知れぬ身だそうだから、料金次第で魔界へでも行きますよ」
そのにぎやかなテーブルから、ひときわ豪快な笑い声があがった。黒いヒゲのロム・バルディ船長がジョッキを掲げて反っくり返っている。陽気に音頭を取っているが、どことなくやけっぱちにも聞こえる大声だ。船長のまわりに座る部下の船員たちの表情は、遠目にも暗く落ち込んでいる。
「なるほど、今にも沈没しそうな憂鬱さだね。わたしの求める条件にうってつけだよ。どんな無理でも聞いてもらえそうだ」
リリィーナは大きくうなずいた。港湾局や貿易会社も船の斡旋業をするが、詳しい内情や怪しい噂までは紹介してくれない。
「ぼくらはいろんな噂を耳にしますからね」
少年は誇らしげな笑みを浮かべた。
「その情報網を見込んで、もう一人、教えて欲しい。『海の道化号』の船長は来ているか?」
その名称を聞いた少年は、ギクリと身を震わせた。顔からは血の気が引いていく。それが答だ。彼は海の道化号の船長を知っている。
「すまない、怖がらせたか。どの辺りにいるか、教えてくれるだけでいいんだ。どこだ?」
リリィーナは少年の目線を追った。怯えた目がホールをぐるりと見回し、奥のテーブルの一角で止まる。
「気をつけてください。あの隅っこで、ひとりで飲んでいる痩せぎすの船乗りがそうです。ほら、黒いコートの袖を通さずに羽織っている人。鋭い目つきと尖った顎が特徴的な。ずいぶん前ですが宿泊されて、部屋に朝食を届けた事があります。海の道化号のアル・レキノ船長だと聞きました。魔物が付いているそうです。それも、灰色の神の……」
少年はおどおどとリリィーナを見上げた。得体の知れない気前の良い紳士が、急に怖くなったらしい。
「……あの、ほかにも御用がおありですか?」
リリィーナは海の道化号の船長を見据えながら、少年の肩を軽く叩いた。
「すぐ逃げたまえ」
リリィーナが背を向けて歩き出すと、小年は、慌てふためいて先輩従業員の所へ行った。おそらく、ものすごい勢いで報告していることだろう。
この店にも暴力沙汰を専門に扱う従業員が雇われている。
その大男たちが見回りの途中で、リリィーナを見て足を止めた。顔を見合わせている。彼らは不思議探偵の顔を知っているようだ。一人が急いで奥へ行く。
これから起こるであろう、魔術の絡んだ騒ぎにどう介入するか、上司の指示を仰ぐために。
そのあいだに、リリィーナは目的のテーブルにたどり着いた。
「海の道化号のレキノ船長ですか?」
白髪交じりの茶髪を短く刈り上げた頭が、ゆっくりと振り向いた。海の男よりも、都会で銀行の窓口に座っていそうな青白い男だ。神経質そうな細い顔、薄い唇を取り巻くヒゲは食べかすで汚れている。
「なんだ? オレになにか用か?」
アルコールでどんより曇った目が胡散臭げに細められた。彼は全身から、世界の暗黒面に関わった者たちに共通する、恐怖と禍禍しさを霊気のように放射している。そのためか、彼の周囲はゴーストタウンだ。同じ長テーブルを使う隣人とは、たっぷり五人分くらい、距離が空いている。酒場によくいるおべっか使いのたかり屋すら近づいてこない。
「ええ、不思議探偵のリリィーナのことで」
レキノ船長は、クワッと目を見開いた。
「くそ、あの女か!」
ジョッキをひっつかみ、ワインを飲み干してテーブルに投げ戻した。金属の食器がけたたましい音を立ててはね飛ばされた。皿から食い散らかされた料理が投げ出され、テーブルの上はメチャクチャになった。
「おや、顔をご存じですか。闇では手配書が出回っているそうですが」
「いいや。だが、べつの港で、手下どもが酷い目に遭わされたんだ。おまけに多次元管理局まで介入してきやがって、手下の半分は逃げ出せたが、積み損ねた荷物をごっそり奪われちまった。くそっ、北方海の女神の名にかけて、永遠に呪われるがいい!」
リリィーナはほくそ笑んで返答した。
「わたしがそうです」
アル・レキノ船長は目を剥き、すかさずカラのジョッキを投げつけてきた。リリィーナが飛びずさってジョッキを避けたその隙に、床から闇が立ち上がった。
「ディングル・ハウト!」
レキノ船長の叫び声は闇壁の向こうから聞こえた。球形の闇だ。大きな黒い卵の殻のような闇が、すっかりレキノ船長を中に隠してしまった。
リリィーナは銀の剣を構えた。こちらもポケットから出した一瞬で長剣と化してある。闇の殻を切り裂こうとしたそのとき、足下で影が蠢いた。シャンデリアの光を透過して揺らぐ影絵かと思えたが、次の瞬間、墨を流したように床に広がった。
後方へ跳んだリリィーナを追って盛り上がり、さらに空中へと湧き上がる。
リリィーナの頭上で風がうなった。
間一髪で頭を下げた直後、頭上の空気が右から左下へ切り裂かれた。
飛び退いた場所には、質感を持った闇色の巨大なツメが突き立っていた。




