(二十四)アリアドネの糸
白雪姫と別れたあたりまで来た時、ポケットからアリアドネ・フローラが飛び出した。ラリゼルを手招きすると、ササッと先へと走り出す。その跡をよく見れば、チラッ、と細い金色が光る。
「あ、目印の糸ね!」
通り過ぎた後には、金色の糸の軌跡。
蜘蛛のぬいぐるみ妖精はラリゼルのポケットの中にいた時から、帰り道がわかるように、光の糸を吐いていたのだ。
「なんて賢いの、あなたは!」
アリアドネ・フローラは金糸をたどり、ラリゼルはその後を追い、螺旋階段の扉にまで戻ってきた。今度は螺旋階段を上る。螺旋の中央の柱は直径十メートルくらいだろう。時計回りに階段を上り続け、十回りを数えた時、アリアドネ・フローラが止まった。
「どうしたの?」
小さな前脚が左手の壁を示した。
ラリゼルがその辺りに手をつくと、ドアが出現した。螺旋階段はまだまだ続くが、アリアドネ・フローラは前脚でドアをチョンチョンと突いた。
ラリゼルは丸いドアノブを回してみた。
ドアの向こうは真っ赤な絨毯の敷かれた廊下だ。
突き当たりは、紫色のガラス窓。そこから、匠の館から見えるのと同じ観覧車の風景が見えている。
「はじめに入った廊下みたいだけど?」
金色の糸は続く。
案内人は一足先にドアの隙間から廊下に這い出し、一瞬も停滞することなく先導していく。
「待って、そっちに出口があるの?」
ピンクの頭がクイと持ち上がって振り返り、前脚でクイクイとラリゼルを差し招いた。
ところが、廊下の角を曲がった瞬間、鼻腔を刺すような鋭い香りがした。
アリアドネ・フローラがあとずさる。
あたりに漂うのは現実の臭気ではない。魔法の匂いだ。普段は眠っている警戒の本能が呼び起こされ、迫り来る危険を幻の匂いとして知覚した。
ラリゼルの行く手に漆黒の影がうずくまっている。――――動いた! 大きな手、大きな足。長方形の胴体に、四角い頭。
黒い巨人の影が、のっそりと立ちはだかった。
「これが王城の番人ね!」
ラリゼルはアリアドネ・フローラをひっ掴み、全速力で廊下を戻り、再び螺旋階段を駆け下りた。影の巨人が追ってくる。足音はしない。影には体重も質量もないから、ドアが閉めてあっても、隙間からスルリと抜けてきた。
「追いつかれるわ」
螺旋階段の中途で影が迫り、すぐ後ろに追いつかれたとき、ラリゼルの手の中からアリアドネ・フローラが飛び出した。
空中高く黄金色の糸がきらめいた。
まばゆい光の糸が宙を舞い、柔らかな形を空中に描きながら、間断なく影の巨人へと降り注ぐ。
あまりのまばゆさにラリゼルはその場にしゃがみ、腕で目をかばった。
やがてまぶしさが収まり、ラリゼルは目を開けた。
階段の数段上で、影の巨人は、光の糸でぐるぐる巻きにされていた。光の糸で小山のような塊になっている。巨人はかすかに蠢いていたが、ラリゼルが息を詰めて見守るうちに、静まっていった。
黄金の糸の山も、少しずつ小さくなっていく。
光が空気に溶けている。
やがて取り込んだ影の魔物もろとも分解し、消えて無くなるだろう。この多量の光の山が凝縮され、ちっちゃなぬいぐるみ妖精の中に収まっていたとは、信じられなかった。いったい、トイズマスターは光の綿をどれほど詰め込んだのだろう。
糸を吐き尽くしたアリアドネ・フローラは、空っぽになった。
ぺしゃんこの布の袋になってしまった!
「アリアドネ・フローラ」
ラリゼルが呼びかけても、床にわだかまったピンクの布きれはピクリとも動かない。ラリゼルは震える手で拾いあげ、ポケットに入れた。
ラリゼルは階段を上ろうとして、いきなり動けなくなった。
下方から、誰かが、ラリゼルの左肘を掴んでいる。
「静かに! そちらに行ってはいけません」
真っ白な髪の老人だった。黒ずくめで、長い足を曲げ、背を丸く屈めているので、顔の位置はラリゼルと同じ高さにある。
老人は穏やかに微笑みかけた。細めた瞼の奥には、濃い紫の瞳が覗いている。
「ご安心を、わたしはピエロではありません。番人は他にもいますから、わたしがここから連れ出してあげましょう。さあ、こちらへいらっしゃい」
老人はラリゼルの腕を放した。彼からは、ラリゼルの知るいかなる種類の魔法使いめいた雰囲気も感じられなかった。仮面を付けたピエロのような得体の知れなさもなく、普通の人間に思えた。それでも敵か味方かはすぐに判断できず、ラリゼルは胸をドキドキさせながら、老人について下りていった。
十段ほど下りると、先ほどは気付かなかったドアがあった。そこをくぐり、見知らぬ通路を歩き、突き当たりの重い扉をあけると、明るいホールに出た。見覚えのある王城の玄関ホールだ。地下への隠し扉は、大広間の壁に掛けられた案内図の裏側だった。
ラリゼルが外へ出ると、入り口に立っていたピエロと目が遭った。
その瞬間、ピエロはギクリと身を震わせた。こころなしか、直立不動の姿勢になったようだ。何に驚いたのだろう。
もしやラリゼルが王城の秘密の通路から出てきたから?
なんだか怖くなって立ちつ尽くしていると、肩にそっと骨張った手が置かれた。
「大丈夫ですよ。ピエロは何もしません。さ、行きましょう」
老人と一緒にラリゼルは門に向かい、ピエロは黙って二人を通した。
王城の門から十分離れてから、ラリゼルは連れ出してくれた御礼を述べた。
明るいところで改めて見ると、老人の髪は純白で、白い眉は長く伸び、脂肪の付いた目蓋が重たげに目を半分塞いでいる。暗い瞳は黒と見紛おうほどに濃く深い紫色だ。顔つきはまだ初老といったところなのに、ひどく曲がった背や屈めた腰は、もっと歳を取った人のような印象がある。
ラリゼルが自分を観察しているのに気づいた老人は、とつとつと話し出した。
「わたしは魔術師ではありません。リングマスターの召使いなのです。むかし、遠い異世界から攫われてきた普通の人間です。召使いとしてリングマスターに従順にお仕えしておりますおかげで、こうして遊園地を散歩する自由を許されておるのですよ。子どもたちは、老人の仮装をしたピエロだと思っているようですね」
老人は匠の館へラリゼルを送り届けてくれた。




