第十九話 その名は信繁
時は1590年。真田昌幸・信幸親子は、北条征伐の軍に参加するべく信濃で軍を整備し、待機していた。
驚くべきことに、北条から領地を防衛するわけではない。『真田』が『北条を征伐しに』出陣するのである。数年前までは考えられない状況である。
切っ掛けは真田家の領有する名胡桃城であった。真田家臣・鈴木重則が城主を務めるこの城に、北条家臣・猪俣邦憲が調略を仕掛け、落城させてしまう。
これ自体は、戦国時代で言えば非日常では無かった。しかしそれ以前に豊臣秀吉が発していた『惣無事例』、つまり関白の許しを得ない一切の戦の禁止を、北条は破ってしまった事になる。
大義名分を得た秀吉は、東国・西国に散らばる従属国の諸将を集め、北条征伐へ向かう旨を告げた。
その中には遂に従属を決意した徳川家、従属済みであった上杉家……そして、弁丸を人質に臣従した真田家の姿もあった。
合流地点の上田で待つ信幸は、久しぶりに緊張していた。間もなく上杉・前田の連合軍……二万の大軍がやってくる。その中には、関白秀吉の許しを得て初陣を飾る弁丸も混じっているのだ。
――胸を張って会わなければ。
気負う信幸を見て、昌幸が声を掛ける。だが、優しく気遣ってくれる様なタマではない。
「恐ろしいか、弁丸に会うのが」
「は?何を仰られますやら。それは父上の方ではござりませぬか?」
「強がるな。四年半、信濃を離れ過ごした次男坊。京文化が、関白秀吉がどの様な変化を与えたかは未知数よ」
「……」
「ひょっとしたら儂もお前も、食われるかも知れぬな」
昌幸はまるでそれを望んでいるかの様な軽口であった。
近頃、信幸はまた昌幸の考えが読めなくなっていた。上田合戦の頃は手に取る様に分かっていたはずだったのだが、勘が鈍ったのか、はたまた思い上がりにすぎなかったのか。
そのどちらでもなかった。信濃の争乱を乗り越えた昌幸自身が、まだ一段厚くなったというだけの事である。
すぐ近くで見ていたはずの昌幸でさえ、これほどの変化がある。では目の届かないところにいた弁丸は、一体どれほどまでに成長したのか、想像もつかない信幸であった。
だが、昌幸の心中は信幸とは全く裏腹であった。
――この数年で最も成長したのは、この倅……。こ奴を人質に徳川に取り入る思惑は上手くいくだろう。だが、もしこ奴が真田を、儂を見限ったなら……。
弁丸が自分を裏切らない、いや裏切れない事を昌幸は知っている。だから弁丸が信幸を圧倒し、家中での信幸の影響力が弱まる事を、昌幸はこの北条征伐に期待しているのである。
そう、昌幸は弁丸の元服の為、一度大坂へ上洛している。その際に日ノ本を総べる存在……豊臣秀吉と面会を果たしていたのである。
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「そちが『表裏比興の者』か」
「左様に存じておりまする。関白様にはご機嫌麗しゅう」
昌幸は秀吉への謁見に、心から安堵していた。門前払いをされなかったという事は、少なくとも弁丸に対しては好印象を持ったという事である。
信幸と違い裏も表もない弁丸を、これほど可愛く思った事は無かった。
「家康からも聞いておろうがの、信濃の統治はお主が基軸じゃ。しかと頼むぞ」
「ははっ。尽力しまする」
「ところで弁丸の事じゃが、そろそろ元服も済まさねばなるまい?」
――来たか。
昌幸の予想通りに、秀吉は動いていた。ここで切り出される話は昌幸、そして弁丸にとって非常に利となる話であった。
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「若、大殿!」
「才蔵、来たか?」
「はい!上杉、前田勢二万の大軍にござりまする!」
遠目で見ると、まるで畑に群がるイナゴの様。それほどまでに兵士が集まっていた。
若い才蔵はその光景に興奮している様だった。無表情を装ってはいるが、信幸もまた同じである。北条が万の軍勢を押し出して来た事はあったが、それもここまでの数ではなかった。
先頭を歩く兵士がやたら大きく見えた。信幸は気をしっかり持つためパンパン、と顔を叩いた。しかしそれでも先頭の男は大きく見える。そして周りの兵が頭一つ分も男よりも小さい事に気づき、その大きさが錯覚で無い事を確信する。
更に言えば、知り合いである事にもすぐに気づいた。
「やぁやぁ信幸殿。久しぶりであるの」
「爺、貴様ここで何をしておるのだ」
「何とはなんぞや、戦に決まっておろう」
「北条攻めに?前田に戻っておったとは知らなかった」
大男の正体は前田慶次郎であった。滝川家が秀吉との戦いに敗れ没落したと聞いていた信幸は、彼の同行もまた気になっていた。しかし七年前に会った時とは違い、服装が派手になっている。恐らく前田家に戻った後に城代にでも出世したのであろう、と信幸は分析した。が、次に発せられた彼の台詞には開いた口が塞がらなかった。
「前田?いや、一度は戻ったのだがなぁ。出奔したわい」
「はぁ?前田の将でないのなら、何故……あっ」
信幸は察した。この破天荒な男ならば、有り得る話であった。
「貴殿、まさか上杉に!?」
「左様。あの直江という男、中々面白い奴でなぁ」
その点はある意味、信幸も否定できないが問題はそこではなかった。信幸は周りをキョロキョロと見渡すと、慶次郎に耳打ちする。
「前田殿、あのな」
「何だ水臭い。古い付き合いなのだ、慶次郎で良いぞ」
「ならば慶次郎。これは前田と上杉、真田の連動作戦なのだぞ?」
「知っておる」
「それなのに前田を出奔したお主が」
「儂が?」
「……もうよい。とりあえず遠くへ行け」
時既に遅し、であった。信幸と話し込んで油断した慶次郎を、前田の雑兵達が羽交い絞めにする。
「ぬぅ!?何だぁ、貴様ら!儂を稀代の傾奇者・前田慶次郎と知って」
「十二分に知っておりまする。しかし!今は利家様の命にて、何としても連行致す」
「お、叔父貴の!?」
「慶次郎様には五人では足りん!十人で抑え込んで連れて行け!」
「ま、待て、叔父貴の所は止せ!あんな事をした後では……」
「構うな、行け!まったく、この歳にもなって何をしておられるのやら」
「ええい、放さぬかぁ!畜生ぅぅぅ!」
まるで夜盗退治の一幕である。信幸は苦笑しながら慶次郎が何をしでかしたかを想像した。大方、利家公を水風呂にでも放り込んだのだろう、と思いついた時であった。
視線の中に、一際目立つ赤の具足。悠然と馬上で構えるその将の顔には、すぐには消せない少年期の面影が残っていた。
認めると同時に、信幸の胸はいっぱいになった。
「おお、弁丸様!弁丸様じゃ!」
「なんと凛々しく、御立派になられて……」
信幸は、真田兵達のすすり泣く声を聴いた。弁丸が真田領を離れて四年。その成長と信濃への帰還は、多くの老兵達の涙腺を緩ませた。
信幸は、自分が既に修羅か獣になっていると思っていた。戦を続け、命を削る度にそう思ってきた。
しかしこの場では、涙を流すことができる自分がいる。驚き、安堵、歓喜……それらが少しづつ胸に去来した。
「兄上……泣いておられるのですか?」
「阿呆!欠伸をしただけだ!」
「えへへ」
「ふん。佐助、よくぞ弁丸を連れて参ったな!褒めてつかわす」
信幸は突拍子もなく従者として参戦した佐助を褒めだし、恥ずかしさを紛らわした。
「父上、ただいま着きましてございます」
「うむ、よくぞ参ったな『源次郎』」
湧き上がった群衆が、ピタリと静寂に飲み込まれた。
「源、二郎?」
「そうじゃ、『源三郎』。こ奴が元服した事は知っておろう」
「兄上、某の名は信繁と申します」
弁丸は……否、信繁は群衆の方を振り向いて、堂々たる名乗りを上げる。
「我が名は信繁。真田安房守昌幸が次男、真田源次郎信繁!関白殿下より豊臣性を下賜された、真田家の日輪なり!」
「オオオォォォ!」
「稀代の智将・武田信繁様の再来じゃ!信繁様万歳!」
「信繁様、信繁様ぁ!」
信幸の涙が止まっていた。
――関白?豊臣性?『源次郎』だと!?
信幸は最初、冗談だと思った。真田の嫡男は夭逝が多いから、お前は源三郎にするのだ。そう教えられてきた。弟が訝しがってきた際にも、『沈黙は妙手』と理を説いた。
だが、本当に弟に『源次郎』を与えるとは、ついこの瞬間まで思っても見なかったのである。
そして、それ以上に衝撃だったことは関白秀吉から豊臣性を得ている事であった。確かに秀吉は名だたる大名を豊臣に改姓していると聞くが、田舎大名の人質に対して下賜されるとは思わなかった。
信幸は昌幸を睨んだ。涼しい顔をして信繁と並び立つ昌幸を。
そして関白の名を出し、真田衆の心を鷲掴みにした信繁を見て、昌幸と関白秀吉の狙いを見抜く。
この戦は、信繁に戦功を上げさせ、相対的に自分の評価を落とす為の物。つまり……。
――真田家を、信繁に継がせるつもりか!
昌幸が妖しく笑った様に見えた。




