第十六話 弁丸騒動
1586年7月。大坂の政務は多忙を極めていた。主・羽柴秀吉が藤原性を貰い受け、関白に就任する準備が着々と整っていた。このところの秀吉は朝廷との付き合い、公家との会合に追われ、政務どころではない。そのため子飼いの奉行衆が指揮を引き継いでいるのだ。
「上杉景勝殿の任官式、前田利家殿にも、か……ええい、銭のかかる事よ」
頭を掻きむしって指示を飛ばしているのは、奉行衆筆頭の浅野長政である。秀吉の義弟である彼は特に信頼され、重要なポストに置かれ続けていた。この年は上杉景勝・前田利家という二人の近衛少将が任官されるため、衣冠・束帯の準備やその祝宴等に費用を割かなければならなかった。
「浅野様、それはもう上杉と前田に出費して貰えば宜しいのでは?特に前田利家殿は蓄財の鬼とも言われる倹約家。そのぐらいの銭はありましょう」
「黙らんか治部省!兄上……じゃなかった、殿下の威光は銭の使い方で見せる様言われておるのだ。はぁ……」
「やれやれ。知りませんぞ、九州攻めの遠征費が足りなくなっても」
秀吉は天下の台所である堺・摂津を抑えている。銭が足りなくなるわけは無かった。実際に足りなくなるのは、自分たちの給料である。浅野長政は政治家としては優秀な男だが、算盤の計算は他の奉行には劣る様で、仕事に大きな後れを取っていた。
「治部。お前、既に終わっておるのか?」
「とっくに。長束ほどではございませんが」
元丹羽長秀家臣の神童・長束正家はとっくの昔に担当分の兵站の用意を指示し終え、屋敷に帰ってしまった。計算の速さは天下一である。
そして長束ほどではないにしろ、この男……石田治部省三成も自分の仕事は既に終えて高みの見物をしていたのだ。
「治部!頼む、一生の願いじゃ!ちょっとだけ手伝ってくれんか」
「駄目でございます。そうしたいのはやまやまでござるが、殿下の義弟を甘やかしては駄目だと、小一郎(豊臣秀長)様よりキツく言われておりますれば」
「ぐぬぅ、儂は一体何時になったら屋敷へ帰れるのじゃ……」
三成が長政の肩をポンポン、と叩いて政務室を後にしようとした、その時である。
「いた……みつなり……」
「むっ!?」
三成は膨大な紙の山の向こうから、狂暴な獣臭を嗅ぎ取った。
――忍!?浅野様、いや俺の暗殺か!?
身の危険を察し身構えた時には、既に獣は飛びかかっていた。
「いしだ、みつなりぃぃぃ!!」
身軽なその男は神の山を跳躍で飛び越え、三成に斬りかかる。が、武器が木刀である事に即座に三成は気づき、拍子抜けする。
「でぇぇい!」
――バチィン!
男は二連、三連と続けて木剣を打ち込んで来る。三成は脇差の鞘を抜き受け止める。両者の衝突は痛烈な破裂音を生んだ。
「やるな、石田殿!」
「誰だ!とんだ無礼者……って貴様、子供ではないか!」
「何!?ガキと申したかぁ!」
男は激しい鍔是り合いの末、三成を吹き飛ばす。勢い余った三成は壁に背中をぶつけてしまった。
「あ痛ッ」
「某をガキ呼ばわりとは、無礼千万!」
「無礼はお主だ、たわけ!とにかく、名を名乗らぬか!徳川か雑賀衆か、長宗我部であれば容赦はせぬぞ!」
「上等にござる。某の名は真田安房守昌幸が次男、真田弁丸……弁丸……」
「……続きはどうした。名は」
「う、うるさい!元服はまだなのだぁ!」
三成に豪剣が振り下ろされる。三成はこれを最小限の動きでかわすと、宙に浮いている弁丸にちょこん、と蹴りを合わせた。
「う、うわ!?」
「賤ヶ岳の一番槍、石田三成に挑もうとは命知らずめ」
弁丸は成す術なく、床板に頭から落っこちた。視界には銀色の星が飛び交っている。
すぐに飛び上がるのが弁丸の悪い癖である。以前の慶次郎や三成からしてみれば子供だましの戦法にすぎなかった。
「痛ぁ……くっ、まだ終わっておらん!真田昌幸の、父上の名誉を挽回するまでは!」
「真田の、『表裏比興』の次男?」
「その名だ、その名!石田様、あなた様が名付け親だと聞き及び、撤回させるべく参った次第!」
「撤回と言われてもだな」
「あの様な不名誉な渾名をよくも!」
三成は何より、弁丸の回復力に驚いた。真っ逆さまに頭から落ちたのに、このカラ元気である。そして例にもれず、一つの印象に辿り着く。
――大物、だな。
「あのな。『表裏比興』とは立ち回りの上手さと強かさを讃えておるのだぞ?」
「その手には乗りませぬ!御家老にも同じことを言われましたぞ」
「御家老?ひょっとして、直江殿の事か?」
「然り」
三成は呆れた顔で座り込み、頭を掻きむしりながら言い放つ。
「あの者は貴殿をからかって楽しんでおるだけだ。寡兵で徳川に勝った勇者を、どうして俺が貶めねばならんのだ?」
「え、馬鹿にしておるのではないのですか?」
「それならただの『卑怯』にすると思わぬか?」
「……それもそうでござる」
弁丸は木剣を降ろした。弁舌が苦手である弁丸は、三成の堂々とした態度に敗北を悟った。どうやら本当に賞賛による渾名だった様子である。
――グキュウウウ……。
同時に、腹の虫が鳴り出した。
「腹が減っておるのか?」
「はぁ。豊臣の屋敷を抜け出して来た故、朝から飯を食うておらんのです」
「仕方がない奴だ。ほれ」
三成は腰に巻いた巾着から包みを出すと、弁丸へ投げ渡した。
「石田殿、これは?」
「俺の非常食だ。食べるがよろしい」
中には『干し飯』が入っていた。忍の里に赴いた事のある弁丸には、それが何であるかすぐに理解が回り、目を輝かせた。
「これは馳走にござりまする」
「それは良かった。殿下の客将に失礼はできぬからな」
「某は石田殿、いえ三成殿を誤解しており申した!この様な持て成しができるお方とは」
散々失礼をしたのは自分なのに『人質』ではなく『客将』と呼んでくれる三成を、弁丸はすぐに好きになった。
悪く言えば餌付けされたという事になるが、三成にはそんな気は毛ほどもない。本来は客人に『干し飯』を振る舞うなど失礼極まりない事なのだが、この二人の波長においては問題視されなかった。
「終わったか、真田の子倅」
「はっ!知己も得て大満足にございまする。浅野様にもご迷惑を」
「そうか。ではお前達、連れて行け」
「はい?」
長政の護衛達が弁丸の背後に回り、弁丸の肩をガッシリと掴み引き摺って行く。
「小一郎様のところへ連れて行け。きつ~く絞ってもらうのだぞ」
「こ、小一郎様!?それは、それだけはご勘弁を!」
「駄目だ。貴殿は放っておけばまたやらかすであろう」
「お待ちを!某の勘違いでございまして、御慈悲を!浅野様、三成殿、お助けを~」
「浅野様の仕事を邪魔した罪は重いぞ。罰を受けて参られよ」
哀れにも弁丸は小一郎秀長にこってりと絞られた。
そして彼はまた一人、偉大な男を知った。石田三成。算術と政務に優れ、その身一つでも働ける男。困っている者のためなら、自らの安全を顧みない男……。
後に『さいつ殿』と呼ばれる人物の、無二の親友となる男であった。




