第十五話 比興者と卑怯者
「残念だったな、弁丸。貴様の兄は生き残った様だ」
「当然の事にござりまする」
「ふん。だが時間の問題であろうよ」
1586年5月。
兼続と弁丸は直江邸の庭で飼っている鯉に餌をやりながら、山浦国清からの報告文を読んでいた。
あの上田城の戦いから一ヵ月、真田家は北条・徳川両軍の攻撃を何とか耐え抜いた。徳川は羽柴秀吉と、北条は佐竹・里見家と同時に戦闘状態にあったため、真田相手には兵を小出しにしていた事が幸いした。
だがいくら局所戦で勝っていたとしても結局は物量差で押し切られる。筈であった。
しかしここで奇跡が起こる。徳川軍の頭脳、最古参の家老・石川数正が羽柴軍に寝返ったのだ。徳川もまた豊臣・真田の両者を同時に警戒していただけに、この事態は混乱を招いた。軍事・政治両方の内部事情を全て持ち出されたのだから当然である。
この時点で徳川は内部情報を新しいものに更新しなければ、とても秀吉とは戦えなくなってしまう。彼我の兵力差が五倍以上あるのに加え軍法が熟知されているのでは奇襲すら出来ないため、勝負にならない。
そういった理由から、家康は信濃一帯から軍を引いたのである。
「上田城の戦法といい今回の件といい、真田という家は運任せなのだな」
「御家老にはそう見えまするか?」
「全てがそうでない事ぐらいはわかる。だがこれからの計略が全て上手くいく事など有り得ぬ」
「それをやってのける所が、父上の凄き所にございます」
兼続は舌打ちをする。弁丸の目は透き通って、穢れを知らない。結構なことだが、上杉の家臣である事を自覚してもらいたかった。
「だが中々どうして、貴様の兄もやるではないか」
「左様にござりましょう?」
「山浦殿も、奴に上手く使われた様だ。一軍の将としての才は俺をも凌ぐかもしれん」
「おお、ようやく御家老にも兄上の凄さが」
「ともすれば、だ。貴様はもう、用無しなのではないか?」
「は?」
兼続が何を言っているのか。弁丸は一瞬分からなかった。その細まった目と歪んだ口元から、馬鹿にされているという事だけはわかったのだが。
「ど、どういう理屈でござるか」
「どうもこうもない。貴様ほどの槍の才を持つ者を何故、人質にやるのかが俺には解せんかったのよ」
「……!?」
弁丸は褒められているのか、馬鹿にされているのかの判別がつかない。だが、次の一言でハッキリした。
「なるほど、この活躍で合点がいった。貴様は真田昌幸に、武将として必要とされておらん様だ」
「な、何を申されまするか!」
「自分の手足の様に動く嫡男がおるのだ。次男坊は人質として、政治の道具として利用すればよい」
「左様な事、父上は申されませぬ!」
「兄の器量が、いささか大きすぎた様だなぁ」
「お止め下され!」
弁丸は苦し紛れに餌を鯉達に叩きつける。鯉は一瞬怯んだ後に、落下点に擦り寄ってパクパクと餌を食べている。その様子に弁丸は何とも虚しくなった。
「何度も言うが、上杉には活躍の場はある。貴様は名将となれるのだぞ」
「それは、分かっており申す」
「真田の事は忘れろ。義将・上杉景勝公にこそ貴様の武は相応しい。『表裏比興の者』にはあまりに勿体ない」
「父上は、必死なだけなのでござる」
表裏比興の者。上田合戦後に根付いた真田昌幸の異名である。場合によっては表にも裏にもなる男。それが中央政権の評価であった。
「だいたいその言葉も卑怯者だなどと、父上を誤解した言い回し」
「卑怯者ではない、『比興者』だ。恥も外聞も無い強かさを褒め称えておるのだぞ」
「やはり馬鹿にしているではありませぬか!一体誰がその様な言葉を」
「知りたいか?名付け親は『石田三成』。俺の知己だ」
「石田?」
聞いたことの無い、どこの馬の骨とも知れない人物が名付け親と告げられれば、増々弁丸の頭は沸騰した。
「石田という者、許せませぬ」
「おいおい、羽柴の配下の武将であるのだぞ。いずれお前も上洛する。くれぐれも三成に粗相はするなよ」
「知りませぬ。御家老も明日ご出立なされるのなら、今日はお帰りになるのがよろしい!」
「そうするか。ではな、『表裏比興』の次男坊よ」
兼続は言動とは裏腹に、爽やかな顔で去って行く。弁丸はもう一度、鯉に餌を投げつけた。
兼続と主君・上杉景勝は翌日、秀吉に謁見するために大阪へ向かった。
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上田城では戦勝祝の宴が連日催され、兵士達は勝利の美酒に酔いしれていた。
砥石城から信幸も呼ばれていた。徳川は確かに引いたが、まだ北条が残っているのにこれでは……と信幸は思ったが、同時にこのくらいの息抜きが無くては兵がついて来ない事も知っていた。沼田で奮戦している叔父(矢沢頼綱)には悪いが、ここは甘えることにした。
「若殿」
「才蔵か、如何した」
「大殿が屋敷に来るようにと」
「父上か……承知した。直ぐに向かうと伝えてくれ」
昌幸と話すのは、徳川との戦が終結してから初めての事だった。信幸は変に緊張した。
――古今東西、暗殺というのは……。
ブンブン、と頭を振って邪念を振り払う。幾らなんでも、それは考え過ぎである。動機も何も無いではないか。宇喜多和泉守ではあるまいし。
火照った顔を洗って冷やすと、堂々とした面持ちで昌幸の屋敷へ赴き、座敷部屋の戸を開く。
だが、十分な心構えをしていた筈なのに言葉を失った。
「べ……!」
いるはずの無い人物が、昌幸の傍らにいた。次男坊・弁丸である。
「如何した源三郎。近う寄れ」
「父上……これは一体どうしたことでしょうや!?」
信幸は般若の様に憤った表情を昌幸と、入口に控えている佐助に見せた。ここに弁丸がいるという事は、即ち上杉から人質を奪ったという事である。弁丸の文では上杉景勝・直江兼続の主従は大阪に出張っているとの事だった。その隙を見計らって佐助に指示を飛ばし、弁丸を上田に連れ戻したに違いない。恐らく見張りも籠絡したのだろう。
「父上、やはり上杉を裏切るおつもりか!」
「『やはり』とは聞き捨てならんな。弁丸の顔が見とうなっただけよ」
「お戯れを!」
「頼康は置いてきた。これで上杉への義理立ては十分」
「んなわけありますまい!これでは頼康が殺されかねない」
「それこそ有り得ぬわい。こちらはまだ同盟を続ける気なのだからな。そんなことをすれば『向こうから同盟を破棄することになる』」
「は?上杉がそうするのは……当然では?」
昌幸は不敵な笑みを浮かべている。
信幸は久しぶりに、昌幸の意図が汲取れなかった。口惜しくもあり、どこか嬉しくもあった。自分の怒号に動じない父の姿が、やたら大きく見える。
「もう上杉には、それが出来ぬのよ」
「何を仰っておるのです」
「弁丸よ。貴様の口から説明してやれ」
「……」
弁丸は、とても悲しそうな目をしていた。信幸は長く離れていたためか、弟の顔がやたら弱弱しくなった気がした。そして弁丸は覚悟を決めたのか、兄の目をしっかりと見つめ話し始める。何か、最後の希望を見るような目で。
「某は……羽柴秀吉への人質となるのです」
「は、羽柴だと?」
それだけで、信幸の頭の混乱は紐解かれた。そして数瞬置いて昌幸の智謀への賞賛と、ある種の申し訳無さが沸いてきた。
昌幸の考えはわかる。というより、もうそれしかないのだ。ハッキリ言って、上杉は真田を徳川・北条からの盾としか捉えていない。事実として彼らは真田・羽柴との同盟のお蔭で新発田重家の反乱に集中し、鎮圧できた。
しかしその後の徳川・北条との合戦において、彼らはまるで動きはしない。牽制はしてくれているが、能動的に合戦に参加することは決してない。実際、これだけでも多大な労力と金が動くため、感謝すべき事ではあるのだが……。
つまり上杉は真田にとって合戦をする際の『後ろ盾』にはなり得るが、前方を守ってはくれないのだ。それに対し羽柴秀吉はいつでも徳川家康を攻撃できる位置に領地を持っているし、ついこの前まで実際に交戦中だったのだ。石高といい実力といい、最強の抑止力となるだろう。そして羽柴に臣従している上杉は、同じく臣従国となった真田を勝手に潰す事は出来ないのである。
しかし、その人質がまたしても弁丸とは……。
「父上。弁丸でなければ……なりませぬか?」
「ならん」
「しかし、それは余りにも」
どうにもならないという事は信幸にも分かっていた。これは弁丸の溜飲を下げるための術である。だが、眉間に皺を寄せた昌幸からは予想外の言葉が飛んで来た。
「ならばお前が行くか?儂はそれでもよいが」
「なっ……俺は、砥石の守備がありまする」
「弁丸にさせればよいではないか」
「出来るわけがありますまい!」
「えっ……」
信幸はまたまた怒鳴った。自分が侮られるくらいなら、弟への評価を下げもするのが人間である。が、すぐに後悔した。弁丸が拳を握りしめ、戦慄いている事に気づいたのだ。
『嫡男がおるのだ。次男坊は人質として、政治の道具として利用すればよい』
弁丸は、兼続の言葉を反芻していた。
「弁丸、勘違い致すな」
「分かっておりまする。某には……人質くらいしか役割がないという事」
「違う!政務を任せるにはまだ早いというだけの事」
「兄上は今の某より若いころから城持ちでござったではありませぬか」
「俺だって、その頃は拙かったのだ。事情が違う」
「物は……言い様でございまするな」
信幸は、その自棄になっている目に背筋を凍らせた。何が、あの優しき弟をここまで荒ませた!?
――父か、上杉か、それとも……この俺か!?
ならばと、信幸は迷わず行動をとった。
「すまぬ……すまなかった」
「あ、兄上!?」
弁丸も、昌幸すらも驚いた。嫡男の信幸が、弁丸に向かって頭を垂れている。
「お前が初陣を楽しみにしているのは分かっている。いつかその才を生かす時が必ず来る。堪えて……秀吉殿の元へ行ってくれ」
「よ、止して下され!兄上は何も」
弁丸から毒が抜けた事を確認すると、信幸は頭を上げた。
「俺が婚儀を結び、子が生まれたらその子を人質とし、必ずお前をこの信濃に呼び戻す。城持ちの家老として迎えることを約束する。だから、それまでは辛抱願う」
「兄上……」
「儂からも頼む」
昌幸も頭を垂れる。もう弁丸には選択肢は残されていなかった。
「承知致した。行きまする、大坂へ……」
弁丸は、頭を垂れた信幸を立派だと思ったが、卑怯だとも思った。頭を下げられれば、純な自分から毒を抜くことは簡単なのだから。彼が信幸に期待したのは、人質を出さずに羽柴に臣従する道であった。共に戦場に出る事を望んだのだ。
尊敬する兄の本心は、一体自分をどう思っているのか?分かっている事は、大坂からではそれを見極められないだろうという事であった。
――御家老と兄上……どちらの言葉を信じれば良いのですか。
信幸も戦慄いていた。昌幸が表裏比興の者なら、自分はただの卑怯者。弁丸の自分への敬意を、こんな形で利用する卑怯者であると、只管に自分を卑下していた。将として、口には出せない言葉であった。




