父への願い/二人での旅立ち
夜会を抜け出したエリーゼは、ドランを抱いたまま、そのまま馬車で屋敷へと戻った。
朝の光は、まだ弱かった。
エリーゼは、ドランを外套ごと抱きかかえたまま、書斎の扉を叩いた。返事を待たず、そのまま入る。父アーレンブルク伯爵は、書類の山の向こうから顔を上げ、娘の腕の中の小さな竜と、汚れの残ったドレスを見て、目を見開いた。
「エリーゼ、それは……夜会で、何があった」
「お願いがございます」
エリーゼは、ドランを大切に抱いたまま、まっすぐに父を見た。
「エルデンライヒ辺境州の、竜騎士団支援に伺いたいのです。この子と、一緒に」
「その竜は、一体どこで」
「夜会の庭園に続く森で、傷ついているのを見つけました。誰かに、ひどい扱いを受けていたようです」
父は、しばらく言葉を失っていた。娘の腕の中で震える竜と、いつになく静かな決意を宿した娘の目を、交互に見つめる。
「母の血には、竜語の素養があると聞いております。お父様もご存知のはずです」
「それは、そうだが」父は、椅子から立ち上がった。「エリーゼ、これは、ヨアヒム殿との婚約はどうする気だ」
「婚約破棄を、願い出とうございます」
エリーゼの声は、平坦だが、揺るぎなかった。父が、探るような目でこちらを見る。
「一体、何があったのだ」
エリーゼは、少しの沈黙のあと、静かに口を開いた。
「あの方の優しさは、演技でした。私を孤立させ、依存させるためのものだったのです」
父の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「あの方は、私が孤立すればするほど、ご自分に縋るしかなくなるとお考えでした。どれだけ冷たくされようと、私の方から婚約破棄など言い出せはしないと」
エリーゼは、視線を逸らさずに続けた。
「とんだ、思い違いでございます」
「私が黙って辺境へ行けば、あの方々は満足なさるでしょう。手続きは、私がすべて整えます。お父様は、何もご心配なさらず」
父は、しばらく口を開かなかった。窓の外で、朝の鳥が鳴いていた。
「その竜のことは……ちゃんと、面倒を見られるのか」
「見ます。この子は、もう独りでは、ありませんから」
父は、しばらく黙っていた。それから、机の引き出しから白い便箋を取り出し、ペンを執った。
「一つだけ、聞かせてくれ。お前は、辺境へ行きたいのか。それとも、逃げたいのか」
エリーゼは、腕の中のドランに、そっと目を落としてから、答えた。
「わかりません。ただ、この子と一緒に、強くなりたいのです。もう、二度と、どちらも踏みにじられないように」
父は、少しの間、娘の顔を見つめていた。それから、静かに頷き、書簡に署名を落とした。インクの匂いが、書斎に広がる。
その日のうちに、伯爵家の顧問弁護士が呼ばれた。婚約解消の書類は、驚くほど滑らかに整えられていった。ヨアヒム側の署名も、内容をろくに確認しないまま、形式通りに取り付けられた。誰も騒がなかった。誰も涙を流さなかった。社交界の噂にすら、上らなかった。
出立の前夜、父は、古い小箱をエリーゼの手に握らせた。
「アーレンブルク家に代々伝わる首飾りだ。竜を鎮める力があると言われている。母も、肌身離さず持っていた」
小箱の中には、淡く光る石を嵌め込んだ首飾り――『竜の涙』が収められていた。
「お前と、その子を守ってくれるはずだ。どうか、持っていきなさい」
エリーゼは、それを胸元にしまい込んだ。誰にも見せることのない、静かな備えだった。
辺境行きの馬車が屋敷を出る朝、エリーゼは一度だけ振り返った。見慣れた屋敷の門が、朝靄の向こうに小さくなっていく。膝の上では、ドランが、外套に包まれたまま、すやすやと眠っていた。
頬に当たる風は、乾いていた。もう独りではなかった。




