森の子竜/二つの傷
茂みをかき分けると、木の根元に、蹲るような影があった。
月明かりの下、そこにいたのは、竜だった。
まだ小さい。生まれてさほど経っていないのだろう、体は人の子供ほどしかない。あちこちに、噛まれたような痕と、爪で引っかかれたような傷が残っていた。片方の翼は、不自然な角度に折れ曲がっている。
「――ひどい」
声が、勝手に漏れた。誰にやられたのかは、わからない。だが、寄ってたかって痛めつけられ、それでもまだ息をしている姿は、ついさっき聞いたばかりの己の境遇と、あまりにも重なって見えた。
子竜が、警戒するように喉を鳴らした。人間を信じていない目だった。それも、よくわかる気がした。
エリーゼは、震える手を、ゆっくりと差し出した。
「あなたも、いじめられているの?」
言葉が届いているとは思えなかった。それでも、喉の奥から、母に教わった声が、自然とこぼれ出た。歌でも、囁きでもない、低く静かな響き。竜語の声だった。
子竜の目が、大きく見開かれた。震えが、少しずつ収まっていく。
エリーゼは、纏っていた外套を脱ぎ、子竜の体をそっと包んだ。折れた翼に触れると、子竜が小さく鳴いたが、逃げようとはしなかった。
「痛かったね。……よく、耐えたね」
そう囁いた瞬間、エリーゼの目から、堰を切ったように涙がこぼれた。飲み物をかけられたときも、突き飛ばされたときも、流れなかった涙だった。それが今、腕の中の小さな竜のために、止めどなく溢れてくる。
自分のために泣けなかった涙を、今、誰かのために流している。その事実に、エリーゼは、ようやく気づいた。
さっき聞いたばかりの言葉――孤立させておけば、向こうから婚約破棄など言い出せはしない――が、まだ耳の奥に残っていた。だが、もう、それに怯える自分ではいたくなかった。
「一緒に、来る?」
子竜が、答えるように、額をエリーゼの腕に擦り寄せた。温かかった。傷だらけの、小さな体が。
「これからは、誰にも、傷つけさせない。あなたのことも、私自身のことも」
言葉にして初めて、それが、単なる慰めではないとわかった。誓いだった。
「あなたを、ドランと呼ぶわ」
風にそよぐ葦の音に似た響きを持つ、母が好きだったという古い言葉から取った名だった。子竜――ドランは、その名を受け入れるように、もう一度、小さく鳴いた。
エリーゼは、ドランを外套ごと抱きかかえ、立ち上がった。もう、あの大広間には戻らない。
戻る場所は、もう、決まっていた。




