宴の隅で/こぼれた葡萄酒
学院の大広間は、灯りと音楽で満ちていた。
エリーゼは、正装に身を包み、会場の入り口でヨアヒムを待った。だが、彼は、開式の挨拶を交わすと、そのままヒルデガルトたちの輪の中へと消えていった。エスコートの手すら、差し出されなかった。
それでも、エリーゼは、壁際で静かに待ち続けた。皆の前で正式にエスコートされる瞬間を、まだ諦めていなかった。
会場の中央では、ヨアヒムがヒルデガルトの腰に手を添え、談笑していた。婚約者としてこの場に立っているのは自分のはずなのに、寄り添う二人の姿は、誰の目にも、まるで恋人同士のように映っていた。
「あら、エリーゼ様。お一人ですの?」
近づいてきたのは、ヒルデガルトの取り巻きの令嬢たちだった。一人が、わざとらしく小首を傾げる。その手には、葡萄酒の入った杯があった。
「婚約者様に、放っておかれるお気持ちは、いかがです?」
答える間もなく、杯の中身が、エリーゼのドレスの胸元にかけられた。冷たい液体が、白い布地に赤黒い染みを広げていく。
「あら、手が滑って」
くすくすという笑い声が、周囲から上がった。エリーゼは、よろめいた拍子に、別の一人に肩を突き飛ばされ、床に片膝をついた。
「大丈夫かしら。お可哀想に」
会場の中央で、ヨアヒムが、ちらりとこちらへ視線を向けた。だが、それだけだった。何事もなかったかのように、ヒルデガルトを伴い、談笑しながら会場の奥へと消えていく。
嘲笑を背に、エリーゼは、震える手でドレスを押さえながら立ち上がった。これ以上、この場にいることはできない。
「汚れを、落としてまいります」
侍女にそう告げ、控えの間へと続く回廊を、足早に進んだ。
回廊の途中、閉ざされた小部屋の扉の隙間から、聞き覚えのある声が漏れてきたのは、そのときだった。
「本当に、あの女から、あの首飾りを引き出せるのか。竜を鎮めるという、家宝のペンダント――『竜の涙』だろう。三月のうちに、彼女自身の手で差し出させられるかどうかの賭けだったのに」
クルトの声だった。エリーゼは、思わず足を止めた。
きっと、ヨアヒム様は、たしなめてくださる。
そう願わずにはいられなかった。何も言わなくてもいい。ただ、その話に加わらないでいてくれれば、それでよかった。
「当然だろう」
だが、返ってきたのは、ヨアヒム自身の即答だった。愉悦の滲む声だった。
「あの女は、きっと、家宝でも純潔でもなんでも、喜んで差し出すさ。この賭けは、俺の勝ちだ」
エリーゼは、扉に伸ばしかけた手を止めた。
「あの女の実家がなければ、うちの領地はとうに終わっていた。だが、本当に大事なのは、お前だけだ、ヒルデ」
ヒルデガルトの、鈴を転がすような笑い声が続いた。
「だったら、いっそ婚約を解消なさればいいのに」
「馬鹿を言うな。あの女は、周りから嫌われれば嫌われるほど、僕にしか縋る場所がなくなる。孤立させておけば、どれだけ冷たくしようと、向こうから婚約破棄など言い出せはしない。竜の涙さえ手に入れば、あの女なんて、ぽいだ」
エリーゼの頭の中が、白く染まっていった。
長年の献身も、耐え忍んだ屈辱も、すべて、この男にとっての打算だったのだと、今、はっきりと理解した。
ヒルデガルトの意地悪など、比べ物にならない。あの女よりも、この人の方が、よほど――
「エリーゼ様?」
背後から声をかけられ、エリーゼは、我に返った。侍女の一人が、怪訝な顔でこちらを見ている。
「い、いいえ。何でもありません」
これ以上、この場にはいられなかった。エリーゼは、汚れたドレスの裾を握りしめたまま、人目を避けるように扉を押し開け、夜の庭へと駆け出した。
会場に隣接する庭園は、奥に広がる森へと、境界もなく続いていた。エリーゼは、当てもなく、木々の間へと足を踏み入れた。頭の中で繰り返されるヨアヒムの声を、少しでも振り払いたかった。
月明かりの下、木の根に足を取られかけたとき、茂みの奥から、小さな呻き声が聞こえた。




