表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/29

宴の隅で/こぼれた葡萄酒

学院の大広間は、灯りと音楽で満ちていた。


エリーゼは、正装に身を包み、会場の入り口でヨアヒムを待った。だが、彼は、開式の挨拶を交わすと、そのままヒルデガルトたちの輪の中へと消えていった。エスコートの手すら、差し出されなかった。


それでも、エリーゼは、壁際で静かに待ち続けた。皆の前で正式にエスコートされる瞬間を、まだ諦めていなかった。


会場の中央では、ヨアヒムがヒルデガルトの腰に手を添え、談笑していた。婚約者としてこの場に立っているのは自分のはずなのに、寄り添う二人の姿は、誰の目にも、まるで恋人同士のように映っていた。


「あら、エリーゼ様。お一人ですの?」


近づいてきたのは、ヒルデガルトの取り巻きの令嬢たちだった。一人が、わざとらしく小首を傾げる。その手には、葡萄酒の入った杯があった。


「婚約者様に、放っておかれるお気持ちは、いかがです?」


答える間もなく、杯の中身が、エリーゼのドレスの胸元にかけられた。冷たい液体が、白い布地に赤黒い染みを広げていく。


「あら、手が滑って」


くすくすという笑い声が、周囲から上がった。エリーゼは、よろめいた拍子に、別の一人に肩を突き飛ばされ、床に片膝をついた。


「大丈夫かしら。お可哀想に」


会場の中央で、ヨアヒムが、ちらりとこちらへ視線を向けた。だが、それだけだった。何事もなかったかのように、ヒルデガルトを伴い、談笑しながら会場の奥へと消えていく。


嘲笑を背に、エリーゼは、震える手でドレスを押さえながら立ち上がった。これ以上、この場にいることはできない。


「汚れを、落としてまいります」


侍女にそう告げ、控えの間へと続く回廊を、足早に進んだ。


回廊の途中、閉ざされた小部屋の扉の隙間から、聞き覚えのある声が漏れてきたのは、そのときだった。


「本当に、あの女から、あの首飾りを引き出せるのか。竜を鎮めるという、家宝のペンダント――『竜の涙』だろう。三月のうちに、彼女自身の手で差し出させられるかどうかの賭けだったのに」


クルトの声だった。エリーゼは、思わず足を止めた。


きっと、ヨアヒム様は、たしなめてくださる。


そう願わずにはいられなかった。何も言わなくてもいい。ただ、その話に加わらないでいてくれれば、それでよかった。


「当然だろう」


だが、返ってきたのは、ヨアヒム自身の即答だった。愉悦の滲む声だった。


「あの女は、きっと、家宝でも純潔でもなんでも、喜んで差し出すさ。この賭けは、俺の勝ちだ」


エリーゼは、扉に伸ばしかけた手を止めた。


「あの女の実家がなければ、うちの領地はとうに終わっていた。だが、本当に大事なのは、お前だけだ、ヒルデ」


ヒルデガルトの、鈴を転がすような笑い声が続いた。


「だったら、いっそ婚約を解消なさればいいのに」


「馬鹿を言うな。あの女は、周りから嫌われれば嫌われるほど、僕にしか縋る場所がなくなる。孤立させておけば、どれだけ冷たくしようと、向こうから婚約破棄など言い出せはしない。竜の涙さえ手に入れば、あの女なんて、ぽいだ」


エリーゼの頭の中が、白く染まっていった。


長年の献身も、耐え忍んだ屈辱も、すべて、この男にとっての打算だったのだと、今、はっきりと理解した。


ヒルデガルトの意地悪など、比べ物にならない。あの女よりも、この人の方が、よほど――


「エリーゼ様?」


背後から声をかけられ、エリーゼは、我に返った。侍女の一人が、怪訝な顔でこちらを見ている。


「い、いいえ。何でもありません」


これ以上、この場にはいられなかった。エリーゼは、汚れたドレスの裾を握りしめたまま、人目を避けるように扉を押し開け、夜の庭へと駆け出した。


会場に隣接する庭園は、奥に広がる森へと、境界もなく続いていた。エリーゼは、当てもなく、木々の間へと足を踏み入れた。頭の中で繰り返されるヨアヒムの声を、少しでも振り払いたかった。


月明かりの下、木の根に足を取られかけたとき、茂みの奥から、小さな呻き声が聞こえた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ