壊された教科書/それでも信じていた人
机の蓋を開けた瞬間、エリーゼは、小さく息を止めた。
中に入れておいたはずの教科書は、表紙を剥がされ、ページの半分近くが引き裂かれていた。引き出しの奥には、生ごみが詰め込まれている。饐えた匂いが、鼻の奥を突いた。
ああ、また。
驚きはなかった。呆れる気力も、もう残っていなかった。エリーゼは、破れた紙片を一枚ずつ拾い集め、ハンカチで手を汚しながら、生ごみを片付けた。教室の隅で、くすくすという忍び笑いが聞こえていたが、振り返らなかった。
これで、何度目だろう。数えることも、いつしかやめていた。
昼休み、渡り廊下でヒルデガルト・ノイマンとその取り巻きに囲まれたのは、その直後だった。
「あんたみたいなのが、ヨアヒム様の婚約者だなんて許せない」
ヒルデガルトが、扇の先でエリーゼの肩を小突く。取り巻きの一人が、エリーゼの腕を乱暴に掴んだ。
「さっさと辞退なさいよ。それとも、辞退の仕方も分からないほど、頭がお粗末なのかしら」
囲まれた輪の中で、エリーゼは、ただ黙って俯いていた。言い返せば、火に油を注ぐだけだと、経験でわかっていた。
腕を掴む力が、痛いほど強くなる。だが、エリーゼは、それに耐えながら、別のことを考えていた。
――ヨアヒム様のことを、考えよう。
輝くような金髪と、優しい微笑み。学院中から遠巻きにされ、陰口を叩かれてもなお、堂々と胸を張って歩く婚約者の姿を思い浮かべると、この程度の痛みは、耐えられる気がした。
彼の領地、ライヒェンバッハ侯爵家は、長らく財政が困窮していると聞いていた。だから、彼の頼み事には、何でも応えてきた。宿題を代わりにこなすのは、当たり前のことだった。彼が欲しがる物は、エリーゼの実家の財から、惜しみなく買い与えた。
ヨアヒムが、礼を言ったことは、一度もない。だが、それでいいのだと、エリーゼは思っていた。婚約者なのだから、当然のこと。その素っ気なさこそが、飾らない信頼の証なのだと、そう信じてきた。
去年の誕生日、彼から贈られたのは、庭先で摘んだだけの花束だった。包み紙すらなかった。それでもエリーゼは、飾らないところが彼らしいのだと、無理やり自分に言い聞かせた。宿題も、贈り物の代金も、当たり前のように差し出してきたけれど、見返りを求めたことは一度もない。
「聞いているの?」
ヒルデガルトの声に、エリーゼは我に返った。
「申し訳ございません」
「申し訳ないと思うなら、辞退することね」
ヒルデガルトは、それだけ言い捨てると、取り巻きを引き連れて去っていった。エリーゼは、ゆっくりと腕をさすった。赤い指の跡が、くっきりと残っていた。
今夜は、学院主催の夜会がある。
ヨアヒムと共に出席する、初めての大きな夜会だった。皆の前で、婚約者として、正式にエスコートしてもらえる。そう思うと、腕の痛みも、教科書のことも、少しだけ軽くなる気がした。
きっと、今夜こそ。
エリーゼは、そう信じて、夕暮れの支度部屋へと向かった。




