(幕間)逃した魚/頼み事の行方
王都では、辺境からの噂が、まことしやかに囁かれ始めていた。
「エルデンライヒで、竜語を操る女団員がいるらしい」「先の遭遇戦、五十の魔物を単独の連携指示で退けたとか」
ヨアヒムは、社交場でその話を耳にするたび、落ち着かない気分になった。
「あれ、エリーゼの噂じゃないかしら」
ヒルデガルトが、探るように尋ねた。ヨアヒムは、苦い顔で押し黙った。
母方に竜語の血が流れていることは、ヨアヒムも知っていた。だが、あの頃は、それを「変わり者の血筋」程度にしか思っていなかった。今、王国が喉から手が出るほど欲しがっている力を、あの女は、生まれながらに持っていたのだ。
ライヒェンバッハ侯爵家の財政は、もはや誤魔化しようのないところまで傾いていた。エリーゼの援助を失った穴は、二年経っても埋まらないままだった。
「クルト、お前、辺境に伝手はないのか」
ヨアヒムは、酒の席で、旧友に切り出した。
「伝手も何も……お前、まさか」
「頼みがある。エリーゼに、うちの家門の商隊へ竜の護衛をつけてもらえないか、聞いてきてくれ。裂け目の魔物が国境の外まで溢れているという話だろう。護衛さえあれば、商路は立て直せる」
クルトは、渋々、辺境行きの旅に付き合わされることになった。
辺境の竜舎に着いたクルトを迎えたのは、冷ややかな沈黙だった。
団員たちの視線には、値踏みも遠慮もなかった。ただ、余所者を見る目があるだけだった。
「エリーゼ様に、お目通りを」
ようやく現れたエリーゼは、記憶の中の令嬢とは、別人のようだった。学院で虐げられ、俯いて今にも泣き出しそうだった、あの面影はどこにもない。竜語の声を宿す瞳は、静かで、揺るがなかった。
クルトは、精一杯の愛想笑いを浮かべた。
「久しぶりだな、エリーゼ嬢。いや、今は、何とお呼びすれば」
「ご用件を」
にべもない答えに、クルトの笑みが引きつった。彼は、ヨアヒムの頼みを、できる限り体裁よく伝えた。
エリーゼは、最後まで黙って聞いていた。そして、静かに答えた。
「お断りします」
「そこを何とか……昔のよしみで」
「昔のよしみ、ですか」
エリーゼの声に、初めて、微かな温度が宿った。侮蔑には聞こえなかった。ただ、完全に興味を失った者の、平坦な響きに、クルトには聞こえた。
「あなた方に貸すものは、何もありません。竜の護衛は、この土地と、この土地の民のためにあるものです」
背後で、フィリアスが低く唸った。竜の大きな瞳が、まっすぐにクルトを捉える。クルトは、思わず後ずさった。顔から、血の気が引いていく。
「ひ……っ」
「フィリアス」
エリーゼが短く声をかけると、竜は、すぐに唸りを収めた。だが、クルトの顔は、すでに青ざめていた。かつて、回廊の陰で、一人の男に縋りつくだけの惨めな女だと、エリーゼを侮っていたクルトは、今、竜の一瞥だけで、膝が笑っていた。
「……失礼、した」
クルトは、逃げるように、竜舎を後にした。帰りの馬車の中、彼は、ヨアヒムに何と報告すればいいか、頭を抱えていた。だが、それ以上に、消えない恐怖と、小さな屈辱だけが、胸に残り続けた。
王都に戻ったクルトから、けんもほろろの返事を聞かされたヨアヒムは、しばらく、言葉を失っていた。
「そうか……」
窓の外を見つめる彼の脳裏に、ふと、あの学院の夜会の夜、扉の向こうで交わした言葉がよぎった。
――逃がした魚は、大きかったのかもしれない。
だが、それを認めることは、彼のちっぽけな自尊心が、決して許さなかった。
その屈辱を、クルトは酒の席で持て余した。数日後、別の友人たちに囲まれた席で、酔いに任せて、つい口を滑らせたのだ。
「いや、笑うなよ。あの、大人しいだけの女だと思っていたのに、竜に凄まれて腰を抜かしかけたんだから、俺は」
話は、面白おかしく尾ひれをつけて、社交界に広まった。ライヒェンバッハ侯爵家が、辺境の元婚約者に頭を下げに行って、けんもほろろに断られたらしい。そんな噂話は、ヨアヒムの耳にも、当然のように届いた。
「余計なことを……」
ヨアヒムは、苦々しく吐き捨てたが、もはや噂を止める術はなかった。




