(幕間)王都の噂/ライヒェンバッハ家の陰り
ヒルデガルト・ノイマンは、ライヒェンバッハ侯爵邸の応接間で、帳簿を睨むヨアヒムの背中を見つめていた。
「父上への支払いが、また滞っているそうよ」
「わかっている」
ヨアヒムは、苛立たしげにペンを置いた。侯爵家の財政は、この一年でみるみる傾いていた。夜会や賭け事、見栄のための贈答品という、積み重ねた浪費のつけが、今になって回ってきている。
「エリーゼの家宝を、奪えていれば……」
ヒルデガルトは、思わず口にしてから、しまったと思った。ヨアヒムの顔が、みるみる険しくなる。
「お前が、やりすぎたんだ」
「は?」
「お前と、お前の取り巻きが、いじめすぎたんだろう。だから、あの女の心が折れて、賭けの期限を待たずに逃げ出した。俺にもう少し、時間さえあれば」
ヒルデガルトの顔から、血の気が引き、代わりに怒りが上ってきた。
「よく言うわね。婚約者のくせに、あの女に労いの言葉一つかけようともしなかったのは、あなたじゃない。少しでも優しくしていれば、あんなに簡単に逃げられることもなかったはずよ」
「今更、それを言うな」
「ごめんなさい。でも……」
ヒルデガルトは、窓の外を見た。エリーゼが辺境に去ってから、もうずいぶん経つ。あの静かな令嬢のことなど、社交界の誰も、もう話題にしていない。
「あの女がいなくなって、清々したでしょう」
「ああ」
ヨアヒムは、そう答えたが、その声には、以前ほどの余裕がなかった。
「支度金の件は、お前の家からなんとかならないのか」
「子爵家に、そこまでの蓄えはないわ」
沈黙が落ちた。窓の外で、馬車の音が遠ざかっていく。
ヒルデガルトは、ふと、あの夜のことを思い出した。竜を鎮めるという家宝、『竜の涙』。あと少し時間があれば、あの首飾りは手に入っていたはずだった。なぜだか、それが今になって、小さな棘のように、胸の奥に刺さっていた。
「大丈夫よ、私たち」
ヒルデガルトは、ヨアヒムの肩に手を置きながら、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「きっと、なんとかなるわ」
窓の外の空は、王都らしい、灰色がかった曇り空だった。




