第7話 白米だけでよくない?
月曜日の朝。
ダイニングテーブルの上は、さながら宝石箱のようだった。
昨日、二人で戦場を駆け抜けて手に入れた『全国ご飯のお供博覧会』の戦利品たちが、美しく小皿に盛られて整列している。
北海道の三年熟成昆布佃煮、博多の極上明太子、京都のちりめん山椒、青森のにんにく味噌。
そして中央には、それらを迎え撃つべく完璧な水分量で炊き上げられた、艶やかな白米が湯気を立てていた。
「さあ、悠人くん」
エプロン姿のあかねは、かつてないほど輝いていた。
昨日のデートの余韻と、最高の食卓を作り上げた達成感が、彼女を包み込んでいる。
「今日はね、昆布から始めて、途中で明太子に切り替えるの。白米の甘みが昆布の旨味でリセットされてから明太子の塩気を迎えると、相乗効果が――」
「うまっ」
悠人は箸で白米だけをつまみ、口に運んだ。
噛み締めるほどに、米本来の甘みが口いっぱいに広がる。今日の炊き加減は、控えめに言っても芸術的だった。
「今日の米、いつも以上に甘いな」
「ふふっ、わかる? お供の塩気に負けないように、お米の銘柄を変えて、浸水時間も分単位で調整したの」
あかねが嬉しそうに微笑む。
その笑顔を見た悠人の心に、ふと、ある感情がよぎった。
毎朝早く起きて、出汁を取り、米の浸水時間を計り、お供の温度を管理する。
昨日の博覧会でも、彼女は必死だった。
(あかね、毎日こんなに頑張って……疲れないのかな)
純粋な、妻への思いやりだった。
彼女の負担を少しでも減らしてあげたい。
そんな優しい気持ちから、悠人は口を開いた。
「なあ、あかね」
「ん?」
「毎朝こんなにいろいろ用意しなくてもさ……この白米、すごく美味しいから」
悠人は、笑顔で言い放った。
「白米だけでよくない?」
◇
時間が、止まった。
エアコンの送風音も、近くの道路の車の音も、全部消えたような気がした。
あかねの手に挟まれていた箸が、カチリとわずかに震える。
「……え?」
あかねが、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、怒っているでも泣きそうでもなく、ただ「理解できないものを見た人間」のそれだった。
「今、なんて言った?」
「え、いや、その……白米だけでも十分美味しいから、あかねに無理してほしくないなって……」
「白米だけで、いい」
あかねの唇が、微かに動いた。
「ああ。あかねが炊くご飯は最高だからさ。おかずとかお供とか、そんなに頑張らなくていいよ。俺、白米だけで十分満足できるから」
悠人はまだ、自分が踏み抜いた地雷の大きさに気づいていない。
あかねにとって、ご飯のお供とは何だったか。
それは、冷え切った幼い頃の食卓を塗り替えるための『祈り』であり、悠人と一緒に「美味しいね」と言い合うための『感情表現』であり、この家庭を守るための『愛情の結晶』だった。
◇
「……悠人くん」
あかねの声が、いつもより少し低く落ちた。
「あなたにとって、ご飯のお供は『なくてもいいもの』なんだね」
「そうじゃなくて――」
「私にとってはね」
あかねは、白米を一粒、箸先でつまんだ。
「この一粒を、ちゃんと味わうための、大事な『言葉』なの」
「言葉?」
「うん。昆布は『おつかれさま』で、にんにく味噌は『今日もがんばろうね』で、明太子は『あなたを信頼してる』」
あかねは、一つ一つを指差しながら続ける。
「私はね、毎朝、白米にその日の気持ちを添えてるの。今日のあなたに、どんな言葉を乗せようかって考えるのが、私の一日の始まりなの」
悠人の喉が、ごくりと鳴った。
「でも、悠人くんにとっては、白米さえあれば全部同じってことなんだ」
「……そんなふうに言ってない」
「でも、そう聞こえた」
あかねは静かに立ち上がった。
そして、テーブルの上に並んだ極上のお供たちに、一つずつ、ゆっくりとラップをかけ始めた。
「必要ないんでしょう?」
声に抑揚がなかった。
それが、どんな激しい怒鳴り声よりも悠人の背筋を凍らせた。
「私が好きでやってただけ。悠人くんには、ただの迷惑だったのね」
「違う! そういう意味じゃなくて!」
あかねはラップをかけた小皿をトレイに乗せ、冷蔵庫へ向かった。
その動作に一切の乱れはなかったが、どこか機械的で、魂が抜けたようだった。
◇
その日の夜。
仕事から帰ってきた悠人は、玄関の違和感にすぐ気づいた。
靴箱の上に、いつも置いてあるはずのあかねのスニーカーがない。
リビングの照明は消えたまま。
キッチンのシンクには、きちんと洗われた食器が伏せて並んでいるが、鍋もフライパンも使われた形跡がない。
「……あかね?」
家中を見て回っても、あかねの姿はどこにもなかった。
寝室のクローゼットを開けると、服はそのままだ。
スーツケースもある。
だが、普段使いのトートバッグと、小さなポーチだけが消えていた。
テーブルの上にも、冷蔵庫にも、メモは一枚もない。
ただ、炊飯器だけが、保温ランプを点けて静かに佇んでいた。
蓋を開けると、ふっくらと炊き上がった白米が、まだ温かい湯気を立てていた。
その横に、小さなメモが一枚。
『ご飯は冷める前に食べて』
あかねの丸文字だった。
◇
「……家出、した?」
その言葉が口をついた瞬間、ようやく悠人は、自分が朝、何を壊したのかを理解し始めていた。
彼女が守りたかったのは、白米か、お供か、どちらか一方ではない。
「白米だけでよくない?」
自分が軽く言い放ったその一言が、あかねの中の「安心できる食卓」という基準を、根こそぎ揺らしてしまったのだ。
あの、どんなに怒っても、停電になっても、決して食卓を放棄しなかったあかねが、いない。
悠人は一人で茶碗に白米だけをよそい、ゆっくりと噛み締めた。
甘いはずの白米は、どこか少しだけ、しょっぱかった。
保温された白米から立ち上る湯気が、やけに心細く見えた。
春日家の食卓から、完全に光が消えた夜だった。
そして悠人はまだ知らない。
翌朝、炊飯器だけが残された台所で、彼がどれほど深く後悔することになるかを。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
うっかり過ぎるだろ…
「昆布はおつかれさまで、明太子はあなたを信頼してる」
あかねの愛情表現ごと「なくていい」と言われてしまった切なさ。
保温された白米の前で、悠人は何に気づくのか。
次回、最終話です。




