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妻が『白米の裏切り』を絶対に許さない  作者: そらのことのは


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8/8

第8話 炊飯器だけが残っていた

翌朝。


悠人が目を覚ますと、家の中は水を打ったように静まり返っていた。


いつもなら聞こえるはずの、出汁を取る音も、まな板を叩く軽快なリズムもない。

キッチンから漂ってくる、温かい朝の香りもない。


リビングに向かうと、炊飯器の保温ランプだけが、オレンジ色の光を静かに灯していた。


蓋を開けると、昨日あかねが炊いた白米が、まだほんのりと温かい湯気を立てている。


テーブルの上には、昨日と同じメモが一枚。


『ご飯は冷める前に食べて』


あかねの丸文字。

怒りや恨み言は一切なく、ただ悠人を気遣う言葉だけが残されていた。



悠人は茶碗に白米をよそい、冷蔵庫を開けた。


専用棚には、昨日あかねが丁寧にラップをかけた『全国ご飯のお供博覧会』の戦利品たちが、静かに主の帰りを待っている。


悠人は博多の極上明太子を取り出し、一人でテーブルについた。


白米の上に明太子を乗せ、口に運ぶ。

完璧な水分量の白米と、極上の塩気。

間違いなく、最高に美味しいはずだった。


なのに、味がしなかった。


「……美味しくない」


その瞬間、悠人の脳裏で、あかねの言葉がフラッシュバックした。


『私はね、毎朝、白米にその日の気持ちを添えてるの。昆布はおつかれさまで、明太子はあなたを信頼してる』


『私が欲しかったのは、この完璧な朝に、あなたと一緒に、同じものを美味しいねって言い合える安心だったのに』


悠人は箸を置いた。


あかねが守りたかったのは、明太子の味でも、昆布の温度でもなかった。

悠人と向かい合って座る、あの温かい時間そのものだったのだ。


「白米だけでよくない?」


自分が軽く言い放ったその一言が、彼女が懸命に紡いできた愛情の言葉を、コミュニケーションの手段を、根本から否定してしまった。


「俺は……なんてバカなことを」



悠人はスマートフォンを手に取り、あかねの母・節子に電話をかけた。


数コールの後、落ち着いた声が聞こえてきた。


「もしもし?」


「お義母さん、悠人です。あかね、そちらに……」


「来てるわよ。今、まだ寝てるけど」


その答えに、悠人の胸の奥がきゅっと掴まれた。


「昨日は何があったの?」


悠人は朝からの出来事を、できるだけ正直に話した。

「白米だけでよくない?」と言ったこと、それがあかねの何を踏みにじったのか、今になって気づいたこと。


「……あなたなりに、あの子を気遣って出てきた言葉でしょう?」


「はい……」


「でも、あの子にとっては違うのよ。『ご飯のお供』は、あの子の中では『祈り』であり、『言葉』であり、『家庭への願い』なの」


「はい……」


「今のあなたに一番必要なのは、ちゃんと話すこと。その準備ができたら、迎えに来なさい」


電話を切った後、悠人はしばらく考えた。


そして、ノートとペンを取り出し、震える手で文字を書いていく。


『あかねへ』


『俺、やっと分かった。あかねが毎朝作ってくれてたのは、ご飯じゃなくて、俺への「言葉」だったんだな。昆布でおつかれさまって言って、明太子で信頼してるって言って。俺はずっとそれを、ただの食べ物だと思って食べてた。』


『白米だけでいいなんて、二度と言わない。あかねが選んでくれたお供と一緒に、あかねの言葉をちゃんと受け取るから。』


『帰ろう。炊飯器のご飯、まだ温かいよ。』



その日の夕方。


悠人が仕事から帰ると、玄関にあかねのスニーカーがあった。


「……ただいま」


「おかえり」


あかねは、エプロン姿でキッチンに立っていた。

振り返らずに、鍋をかき混ぜている。


「あかね……手紙、読んでくれた?」


「読んだ」


しばらくの沈黙。


「あかね、俺――」


「手を洗ってきて。ご飯、もうすぐできるから」



二人で並んでテーブルについた。


今夜の食卓には、ご飯のお供が一つだけ置かれていた。


紀州南高梅の、はちみつ漬け。

大きな梅干しだった。


「梅干しって、何だっけ?」


悠人が聞くと、あかねは少しだけ笑った。


「仲直り」


「そっか」


あかねは大きな梅干しを一つ、悠人の白米の上に乗せた。


悠人は白米と一緒に、その梅干しを口に運んだ。

はちみつの優しい甘さと、梅の爽やかな酸味が、温かい白米と見事に調和して口の中に広がる。


「……うまっ」


「でしょ?」


あかねも自分の白米を口に運び、ふわりと微笑んだ。


「美味しいね、悠人くん」


「ああ、最高に美味しい」


その瞬間、悠人は確信した。


あかねが守りたかったのは、完璧な味覚のバランスなんかじゃない。

こうして二人で向かい合って、「美味しいね」と笑い合う、この温かい時間そのものだったのだ。



食後、あかねが洗い物をしている横で、悠人は冷蔵庫の専用棚を開けた。


「なあ、あかね」


「なに?」


「明日の朝、明太子でいい?」


「……どうして?」


「信頼してるって、言いたいから」


洗い物の音が止まった。


しばらくして、あかねの声が返ってきた。


「……明太子は、冷蔵庫から出して十五分、室温に戻してから食べるのよ」


「わかった」


「直箸は絶対にダメ」


「うん」


あかねは洗い物を再開した。その背中が、少しだけ柔らかくなっていた。



翌朝。


テーブルの上には、炊きたての白米と、室温に戻された博多の極上明太子が並んでいた。


悠人は専用の取り分け匙で、丁寧に明太子を小皿に盛った。

白米の上に乗せ、一口食べる。


「……うまい」


「でしょう? 白米だけじゃ、出ない味でしょ」


「うん。白米だけじゃ、ダメだ」


あかねは少し驚いたように悠人を見た。


「白米は最高だけど、一人じゃ完成しない。お供があって、初めて本当の味になる」


「……悠人くん」


「俺たちも、そうだろ」


あかねは何も言わなかった。

ただ、自分の白米に明太子を乗せ、一口食べて、静かに目を閉じた。


その顔は、幼い頃に夢見ていた「笑って食べられる食卓」そのものだった。



春日家の小さな戦争は、今日も続いている。


きっと明日も、悠人は何かをやらかすだろう。

でも、それでいい。

やらかして、怒られて、気づいて、また食卓を囲む。

その繰り返しの中に、二人の「安心できる場所」が少しずつ積み上がっていく。


炊飯器の保温ランプが、今日もオレンジ色に灯っている。


白米は、誰かと食べるために炊かれる。

お供は、言葉にならない気持ちを乗せるために存在する。

そして食卓は、二人が「ただいま」と「おかえり」を交わすための、世界で一番小さくて、大切な場所だ。


春日あかねは今日も、完璧な食卓を守り続ける。


隣に、うっかり屋の夫を置いて。


妻が"白米の裏切り"を絶対に許さない理由を、悠人はようやく理解した。


それは狂気ではなく、愛情だったのだ。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


人それぞれのこだわりには、理由があります。


鮭フレークの空瓶から始まった小さな戦争が、

「信頼してる」という言葉を乗せた明太子で終わる8話。

狂気の裏にあった不器用な愛情を、

少しでも感じていただけていたら嬉しいです。


もしよろしければ、ブックマークや評価で応援をお願いします。

皆さまからの反響があれば、また春日家の食卓に戻ってくるかもしれません。

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