第6話 ご飯のお供博覧会
日曜日の朝。あかねは珍しく、スニーカーに動きやすいパンツ姿で玄関に立っていた。
「行くよ、悠人くん」
いつもの穏やかな笑顔。
ただし、肩には大容量のエコバッグが二つ、そして手には詳細な会場マップが握られている。
「今日は楽しみだな」
悠人はのんきに靴紐を結びながら答えた。
今日のデート先は、隣町の展示場で開催される『全国ご飯のお供博覧会』。
年に一度、全国の生産者が集まる食通の聖地だ。
「悠人くん、今日のルールを確認するわ」
「ルールがあるのか」
「まず、私より先に試食しない。次に、私が『これ』と目配せしたら即座に列に並ぶ。最後に、限定品の前では余計なことを言わない」
あかねの目には、静かな闘志が宿っていた。
◇
会場に入った瞬間、あかねの纏う空気が変わった。
穏やかな主婦の顔が消え、代わりに現れたのは、獲物を前にした猛禽類のような眼差しだった。
「……戦場ね」
「デートだよな、これ」
「デートよ。スペシャルミッション」
あかねは事前に印刷したマップを広げた。
蛍光ペンで三色のルートが引かれている。
「赤ルートが最優先。限定品を押さえる。青ルートが試食重視。黄色ルートが情報収集」
「……用意周到すぎる」
「今日の最大目標は、北海道ブースの『幻の昆布佃煮』よ。でも、致命的な条件があるの」
あかねは、マップの一点を指差した。
「限定三十個。開場から十五分以内に完売する可能性が高い」
その瞬間、あかねの目が完全に獣のものに変わった。
◇
最初のブースは、その北海道の昆布佃煮だった。
「これは三年熟成の真昆布を使った逸品。経験上、白米との相性は最高のはず」
あかねは試食を一口。
目を閉じ、数秒間、完全に静止した。
「……旨味の層が三段階ある。最初に昆布の深み、次に醤油の甘み、最後に磯の余韻。白米の甘みがこの余韻を引き立てる構造になってる」
悠人も試食してみると、確かに美味しかった。
ただ、三段階の旨味の層は正直よく分からなかった。
「二瓶、お願いします」
あかねは即座に購入を決め、次のブースへ向かった。
◇
問題は、会場中央の特設ステージで起きた。
大きな垂れ幕に、赤い文字で書かれている。
『本日限定 博多・極上明太子 30個限り』
あかねの目が、一瞬で獣のものになった。
「悠人くん」
「うん」
「走って」
「え?」
「今すぐ走って」
気がつけば悠人は走っていた。
何故走っているのか分からないまま、本能的に走っていた。
振り返ると、あかねも走っていた。
普段の穏やかな主婦の顔は完全に消え去り、そこには純粋な本能だけで動く生き物がいた。
列に並んだ時、あかねは二十八番目だった。
「ギリギリ……」
あかねが、静かに息を整えた。
「あかね、そんなに欲しかったの?」
「公式サイトにね、『白米との相性98%』って書いてあったの」
列が少しずつ前に進む。
そのとき、あかねの前に並んでいた年配の女性が、店員に声をかけた。
「すみません、これ、アレルギー成分は大丈夫でしょうか?」
「申し訳ございません。製造工場で小麦を使用しておりまして……」
「あら、そうですか。孫が小麦アレルギーなので、残念だけど諦めます」
女性が列を離れた瞬間、あかねの順番が一つ繰り上がった。
「次のお客様」
あかねは、震える手でその小瓶を受け取った。
「……ありがとうございます」
それは、ただの買い物というより、神聖な儀式のようだった。
◇
昼食は会場内の休憩スペースで、試食で集めたお供と、持参した白米のおにぎりを広げた。
「おにぎり持ってきてたの?」
「当たり前でしょ。試食のお供だけ食べても、白米との相性は判断できないもの」
あかねは昆布の佃煮をおにぎりに乗せ、一口食べた。
先ほどの獣のような表情は消え、いつものあかねに戻っていた。
「やっぱり、白米と一緒だと全然違う」
「一口食べてみて」
あかねが自分のおにぎりを差し出した。
悠人は受け取り、一口かじった。
「……美味いな、これ。なんか、口の中で会話してる感じ」
あかねが少し驚いたように目を丸くした。
「……悠人くん、少し分かってきたじゃない」
「俺も成長してるよ」
あかねが笑った。
ただの、嬉しそうな笑顔だった。
◇
帰り道、二人は大きな紙袋を抱えながら並んで歩いた。
「今日、楽しかったな」
「私も。今まで、食卓を守るのは私一人の戦いだと思ってた。でも、今日は悠人くんが一緒に戦ってくれた。それが、何より嬉しかったの」
あかねは腕を悠人に絡めた。
「来年も、一緒に来よう」
あかねは答えなかった。
ただ、腕に絡めた手に少しだけ力を込めた。
それが答えだった。
◇
その夜。
テーブルの上には、今日の戦利品がずらりと並んでいた。
だが蓋は一つも開いていない。
「今日は我慢。明日の朝まで寝かせるの」
「今食べないの?」
「お供だけ先に食べるのは、花嫁に置き去りにされた花婿みたいなものなの。可哀想でしょ?」
「例えがだんだん高度になってきたな」
あかねは満足そうにため息をついた。
「でもね、やっぱり私、ちょっと反省した」
「なにを?」
「限定品って聞いたとき、頭の中が『どうやって確保するか』だけになってたの。せっかくのデートなのに、悠人くんの顔、全然見てなかった」
「そういえば、最初からずっと俺のこと引っ張ってただけだな」
「ごめんね。本当は、どのお供よりも、悠人くんと一緒に選んでる時間が一番楽しいのに」
「……それ、反則級のセリフだから、外で言うのやめて」
「うん」
二人の笑い声が、夕暮れの部屋に響いた。
◇
戦利品を冷蔵庫の専用棚に収めながら、あかねは小さく呟いた。
「白米、覚悟しておいてね。明日、最高の相方たちを連れてくるから」
その声には、戦闘モードでも狂気でもない、ただの「幸せな妻」の響きがあった。
しかし翌朝、悠人が何気なく発する一言が、この幸せな余韻を木端微塵に吹き飛ばすことになるとは、この時の二人はまだ知らない。
「なあ、あかね。毎朝こんなにいろいろ用意しなくても、白米だけでよくない?」
その言葉が、春日家史上最大の危機を招くことになる。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
せっかくあんなにいい雰囲気だったのに……。
悠人のうっかりさん。抜けすぎている。
次回、春日家史上最大の危機をお楽しみに。




