第5話 停電
金曜日の夜九時。
激しい雷雨が春日家を襲っていた。
窓を叩く雨音と、時折響く雷鳴の中、悠人はリビングでくつろぎ、あかねはキッチンで明日の朝食の準備をしていた。
ピカッ。
強烈な稲妻が夜空を引き裂いた直後、轟音とともに家中の電気がふっと消えた。
テレビの音も、エアコンの稼働音も、そして冷蔵庫の低い駆動音も、すべてが突然途絶える。
完全な静寂と暗闇がリビングを支配した。
「うわ、停電か」
悠人はスマートフォンのライトを点けながらキッチンへ向かった。
「あかね、大丈夫――」
言いかけて、言葉を失った。
あかねが冷蔵庫の前に立ち尽くし、その背中が小刻みに震えていたからだ。
◇
「あかね?」
悠人が近づいても、彼女は振り向かない。
ただ、じっと冷蔵庫の扉を見つめている。
いつもなら微かなモーター音を響かせている大型冷蔵庫が、完全に沈黙していた。
「……止まってる」
あかねの声は、ひどく掠れていた。
「大丈夫だよ。すぐ復旧するって。最近の冷蔵庫は保冷力もあるし――」
「違うの」
あかねがゆっくりと振り返った。
スマートフォンの光に照らされた彼女の顔は、これまでのどんな時よりも蒼白だった。
「私の専用棚は、お供の性質に合わせて温度設定を変えてるの。発酵が進みやすい塩辛はチルド室の奥、風味を保ちたい海苔の佃煮はドアポケットの上段……」
あかねの言葉が震えを帯びていく。
「温度が変われば、味が変わる。風味が飛ぶ。私が計算し尽くした、白米との完璧な調和が……崩れていく」
彼女は両手で顔を覆った。
「全部、ダメになる」
その言葉の重さが、暗闇の中に沈んでいった。
◇
悠人の胸に、義母の言葉がよぎった。
『この子、昔から食卓だけは壊されたくなかったの』
「あかね」
悠人はスマートフォンをテーブルに置き、あかねの目の前にしゃがみ込んだ。
「子どもの頃ね」
あかねが、震え声で話し始めた。
「よくブレーカーが落ちてたの。お父さんが電気代を払わなかったり。急に真っ暗になって、冷蔵庫が止まって、中のものが全部ダメになった」
スマートフォンの光が、涙ぐんだあかねの顔を照らす。
「その度にお母さんは泣きながら、『もったいない』って叫んで。ご飯の時間は、いつもバタバタで、怒鳴り声と泣き声でぐちゃぐちゃだった」
「あかね……」
「だから、停電が怖いの。あのときの『全部ダメになっていく』感じを、身体が覚えてる」
悠人は立ち上がり、収納棚からカセットコンロと土鍋を引っ張り出してきた。
「何してるの?」
「救出作戦だ」
悠人は懐中電灯をいくつか点灯させ、キッチンに即席の調理場を作る。
「冷蔵庫の中身がダメになる前に、全部俺たちの胃袋に避難させよう。ガスなら使えるし、土鍋でご飯も炊ける」
あかねの目がパチリと瞬きをした。
「あかねは、温度変化に弱いお供から順番に選抜してくれ。俺は米を研ぐ」
◇
三十分後。
キャンドルの光に照らされたダイニングテーブルには、ふっくらと炊き上がった土鍋の白米が鎮座していた。
その周囲には、あかねが厳選した『救出対象』たちが並んでいる。
「よし、炊き加減は完璧だ」
悠人が土鍋の蓋を開けると、甘く芳醇な白米の香りが湯気とともに広がった。
「……美味しそう」
あかねの顔に、ようやく少しだけ赤みが戻る。
「さあ、どれから救出する?」
「それじゃあ、温度に一番敏感な、このイカの塩辛から」
暗闇の中、二人は次々にご飯のお供を白米に乗せ、口へと運んだ。
雷の音はまだ外で鳴り響いていたが、不思議と恐怖は感じなかった。
「ふふっ」
突然、あかねが小さく吹き出した。
「どうした?」
「だって、暗闇の中で、二人で必死にご飯かきこんでるんだもの。なんだか、悪いことしてるみたいで」
「深夜の明太子よりは健康的だろ?」
悠人が笑うと、あかねも声を上げて笑った。
その笑顔を見た瞬間、悠人は確信した。
彼女が本当に恐れていたのは、食べ物が腐ることではない。
自分が築き上げた『安心できる場所』が失われることだったのだ。
でも、どんなに外が荒れていても、電気が消えても、こうして二人で笑ってご飯を食べられるなら、そこが一番安全な場所になる。
◇
「ねえ、悠人くん」
あかねが、明太子を乗せた最後の一口を味わいながら言った。
「冷蔵庫が止まっても、食卓は壊れないのね」
「当たり前だろ。俺がいるんだから」
少しだけかっこつけて言った直後、パッと部屋の明かりが点いた。
同時に、冷蔵庫がブーンと低いモーター音を立てて再稼働を始める。
「……あ」
あかねが、テーブルの上を見た。
そこには、空になったご飯のお供の瓶や容器が、無残に散らかっている。
明日の朝のために残しておくはずだったものまで、綺麗に空っぽだった。
悠人は慌てて冷蔵庫に駆け寄り、扉に手を当てた。
「大丈夫だ。お前らは全部、守るからな」
冷蔵庫をポンポンと叩きながら、あかねに向かって振り返る。
「救出作戦は大成功。でも……」
「でも?」
あかねの声が、いつもの静かで冷たいトーンに戻りつつあった。
「明日の朝の白米は、どうやって食べればいいのかしら」
「えっ……いや、それは……」
「まさか、土鍋の底にこびりついたおこげだけで満足しろと?」
「あかねさん、目が笑ってないです」
無事に電気が戻った春日家には、再び日常という名の小さな戦争が戻ってきた。
しかし、悠人の心はどこか晴れやかだった。
空になった瓶を洗う作業すら、今は少しだけ愛おしく感じられた。
そして、冷蔵庫の専用棚の奥で、ひっそりと膨らみかけている消費期限切れ間近の謎のタッパーが、次なる小さな戦争の火種として、静かに出番を待っていることを、この時の二人はまだ知らなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
停電って、どうしようもないですよね…
でも、土鍋で炊いたご飯の温かさと、
キャンドルの光で食べるご飯のお供は、
なんだか特別美味しそうでした。
救出しすぎて明日の朝ごはんが消滅したのは、
また別の問題ですが。
次回もよろしくお願いします。




