第4話 最後の明太子
金曜日の深夜。
一週間の激務を終えた悠人は、缶ビールを片手にリビングのソファに沈み込んだ。
あかねは友人との夕食で外出中。
久しぶりの一人時間だった。
「今週も疲れたなあ……」
冷蔵庫を開けると、温められるよう準備された夕食と、いつものあかねの『専用棚』が目に入る。
整然と並んだ瓶や容器の中に、見覚えのない桐の箱があった。
蓋には達筆な筆文字で『博多・極上明太子』と書かれている。
そして箱の正面には、黄色い付箋がペタリと貼られていた。
『触るな』
短く、力強い二文字。
普段のあかねの丸文字とは違う、筆圧の強い文字だった。
悠人は少し迷ったが、アルコールが回り始めた頭が都合のいい解釈を始める。
「触るなってことは、全部食べるなってことだよな。ちょっと味見くらいなら……」
桐の箱を開けると、宝石のように赤く輝く明太子がひと腹、丁寧に収められていた。
一口食べた瞬間、悠人の脳天に雷が落ちた。
「なにこれ……うますぎる」
ピリッとした辛味の後に豊かな旨味が口いっぱいに広がる。
ビールが進む。
進みすぎる。
「もう一口だけ……」
深夜の静寂の中、背徳感という最高のスパイスが悠人の理性を溶かしていった。
気がつけば、桐の箱は空っぽになっていた。
◇
翌朝。
リビングに入った悠人は、部屋の空気が物理的に重くなっているのを感じた。
テーブルには白米と味噌汁だけが置かれ、その中央に空の桐の箱と『触るな』の付箋が鎮座していた。
あかねは椅子に座り、静かに手を組んでいる。
「お、おはよう……」
「おはよう、悠人くん」
声は穏やかだ。
しかし、目が完全に笑っていない。
「悠人くん。日本語の確認をしましょう。この付箋には、何て書いてある?」
「……触るな、です」
「そう。触るな。では、この箱の中身はどこへ行ったのかしら」
「俺の、胃袋の中に……」
あかねはゆっくりと立ち上がった。
「でもね、私が怒ってるのは、明太子を食べたことじゃない」
悠人は身構えた。
「『触るな』って書いた私よりも、それに気づかなかった悠人くんを責めたくなる自分に、腹が立ってるの」
あかねは空の箱を手に取った。
「私の言葉が、悠人くんには届いてない。冷蔵庫の壁紙と同じになってる」
その言葉が、胸に深く刺さった。
「あの明太子はね、今朝、悠人くんと一緒に炊きたての白米と食べるために、一ヶ月前から取り寄せて、少しずつ大切に食べていたものなの」
あかねの声が、わずかに震えた。
「明太子は白米の親友よ。あの完璧な塩気と辛味は、温かい白米の甘みと出会って初めて完成するの。それを深夜に、冷たいビールの当てとして単独で消費するなんて……」
あかねは空の箱を見つめた。
「明太子に対する冒涜であり、白米に対する裏切りよ」
◇
悠人の脳裏に、先週の義母の言葉がよぎった。
『この子、昔から食卓だけは壊されたくなかったの』
あかねが怒っているのは、高級な明太子を食べられたからではない。
今朝、二人で「美味しいね」と言い合いながら温かい食卓を囲むはずだった『約束』と『信頼』を壊されたからだ。
「ごめん、あかね」
悠人は言い訳を飲み込み、深く頭を下げた。
「俺がバカだった。あかねが今朝のために準備してくれてたのに、俺の身勝手で台無しにした。本当にごめん」
あかねは少し驚いたように目を見開いた。
いつもの悠人なら「新しいのを買うよ」と的外れな返答をするところだった。
「……分かってるなら、いいの」
あかねは小さくため息をつき、付箋を剥がした。
「今日の朝ごはんは、おかずなし。白米の甘みだけを噛み締めて、明太子への謝罪の気持ちを深めてください」
「はい……」
「それと」
あかねはキッチンへ戻りながら、背中越しに言った。
「来週、もう一度同じものを取り寄せるから。今度は、絶対に一緒に食べるのよ」
「……うん」
◇
白米だけを口に運びながら、悠人は冷蔵庫の専用棚を思い返した。
整然と並んだ瓶や袋。
それぞれに、あかねの小さな字でメモが貼ってある。
今まで、一度も読んでいなかった。
あかねはずっと語りかけていたのだ。
冷蔵庫の中から、ずっと。
「あかね」
「なに?」
「今度から、冷蔵庫のメモ、全部読むよ」
あかねの手が、お茶を注ぐ途中で止まった。
「……本当?」
「本当。あかねの言葉を、ちゃんと読む」
あかねは振り返り、少しだけ、いつもの笑顔を見せた。
「じゃあ、来週の明太子、楽しみにしてる」
「俺も」
白米の甘みが、いつもより深く感じられた。
明太子は消えた。
でも、その代わりに少しだけ深くなった信頼が、白米の湯気の向こうに立ち上っていた。
春日家の食卓を巡る小さな戦争は、今日もまた一つ、愛情に変わっていく。
そして冷蔵庫の扉には、新しい付箋が一枚貼られていた。
『今度いっしょに食べよう』
その文字を見た悠人の胸に、小さく温かいものが灯った。
彼はまだ知らない。
次に冷蔵庫を開けたとき、「停電」という最大級の地雷が、静かに彼らを待っていることを。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
背徳感が最高のスパイスになってしまった悠人。
その気持ち、分からなくはないのですが……。
消えた明太子の代わりに残ったのは、冷蔵庫のメモがあかねのラブレターだったという気づきでした。
来週の明太子を、今度こそ二人で食べられることを願いつつ。
次回もお付き合いください。




