↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妻が『白米の裏切り』を絶対に許さない  作者: そらのことのは


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/8

第4話 最後の明太子

金曜日の深夜。


一週間の激務を終えた悠人は、缶ビールを片手にリビングのソファに沈み込んだ。

あかねは友人との夕食で外出中。

久しぶりの一人時間だった。


「今週も疲れたなあ……」


冷蔵庫を開けると、温められるよう準備された夕食と、いつものあかねの『専用棚』が目に入る。

整然と並んだ瓶や容器の中に、見覚えのない桐の箱があった。


蓋には達筆な筆文字で『博多・極上明太子』と書かれている。


そして箱の正面には、黄色い付箋がペタリと貼られていた。


『触(・)る(・)な(・)』


短く、力強い二文字。

普段のあかねの丸文字とは違う、筆圧の強い文字だった。


悠人は少し迷ったが、アルコールが回り始めた頭が都合のいい解釈を始める。


「触るなってことは、全部食べるなってことだよな。ちょっと味見くらいなら……」


桐の箱を開けると、宝石のように赤く輝く明太子がひと腹、丁寧に収められていた。


一口食べた瞬間、悠人の脳天に雷が落ちた。


「なにこれ……うますぎる」


ピリッとした辛味の後に豊かな旨味が口いっぱいに広がる。

ビールが進む。

進みすぎる。


「もう一口だけ……」


深夜の静寂の中、背徳感という最高のスパイスが悠人の理性を溶かしていった。


気がつけば、桐の箱は空っぽになっていた。


◇


翌朝。


リビングに入った悠人は、部屋の空気が物理的に重くなっているのを感じた。


テーブルには白米と味噌汁だけが置かれ、その中央に空の桐の箱と『触るな』の付箋が鎮座していた。


あかねは椅子に座り、静かに手を組んでいる。


「お、おはよう……」


「おはよう、悠人くん」


声は穏やかだ。

しかし、目が完全に笑っていない。


「悠人くん。日本語の確認をしましょう。この付箋には、何て書いてある?」


「……触るな、です」


「そう。触(・)る(・)な(・)。では、この箱の中身はどこへ行ったのかしら」


「俺の、胃袋の中に……」


あかねはゆっくりと立ち上がった。


「でもね、私が怒ってるのは、明太子を食べたことじゃない」


悠人は身構えた。


「『触るな』って書いた私よりも、それに気づかなかった悠人くんを責めたくなる自分に、腹が立ってるの」


あかねは空の箱を手に取った。


「私の言葉が、悠人くんには届いてない。冷蔵庫の壁紙と同じになってる」


その言葉が、胸に深く刺さった。


「あの明太子はね、今朝、悠人くんと一緒に炊きたての白米と食べるために、一ヶ月前から取り寄せて、少しずつ大切に食べていたものなの」


あかねの声が、わずかに震えた。


「明太子は白米の親友よ。あの完璧な塩気と辛味は、温かい白米の甘みと出会って初めて完成するの。それを深夜に、冷たいビールの当てとして単独で消費するなんて……」


あかねは空の箱を見つめた。


「明太子に対する冒涜であり、白米に対する裏切りよ」


◇


悠人の脳裏に、先週の義母の言葉がよぎった。


『この子、昔から食卓だけは壊されたくなかったの』


あかねが怒っているのは、高級な明太子を食べられたからではない。

今朝、二人で「美味しいね」と言い合いながら温かい食卓を囲むはずだった『約束』と『信頼』を壊されたからだ。


「ごめん、あかね」


悠人は言い訳を飲み込み、深く頭を下げた。


「俺がバカだった。あかねが今朝のために準備してくれてたのに、俺の身勝手で台無しにした。本当にごめん」


あかねは少し驚いたように目を見開いた。

いつもの悠人なら「新しいのを買うよ」と的外れな返答をするところだった。


「……分かってるなら、いいの」


あかねは小さくため息をつき、付箋を剥がした。


「今日の朝ごはんは、おかずなし。白米の甘みだけを噛み締めて、明太子への謝罪の気持ちを深めてください」


「はい……」


「それと」


あかねはキッチンへ戻りながら、背中越しに言った。


「来週、もう一度同じものを取り寄せるから。今度は、絶対に一緒に食べるのよ」


「……うん」


◇


白米だけを口に運びながら、悠人は冷蔵庫の専用棚を思い返した。

整然と並んだ瓶や袋。

それぞれに、あかねの小さな字でメモが貼ってある。


今まで、一度も読んでいなかった。


あかねはずっと語りかけていたのだ。

冷蔵庫の中から、ずっと。


「あかね」


「なに?」


「今度から、冷蔵庫のメモ、全部読むよ」


あかねの手が、お茶を注ぐ途中で止まった。


「……本当?」


「本当。あかねの言葉を、ちゃんと読む」


あかねは振り返り、少しだけ、いつもの笑顔を見せた。


「じゃあ、来週の明太子、楽しみにしてる」


「俺も」


白米の甘みが、いつもより深く感じられた。


明太子は消えた。

でも、その代わりに少しだけ深くなった信頼が、白米の湯気の向こうに立ち上っていた。


春日家の食卓を巡る小さな戦争は、今日もまた一つ、愛情に変わっていく。


そして冷蔵庫の扉には、新しい付箋が一枚貼られていた。


『今度いっしょに食べよう』


その文字を見た悠人の胸に、小さく温かいものが灯った。


彼はまだ知らない。

次に冷蔵庫を開けたとき、「停電」という最大級の地雷が、静かに彼らを待っていることを。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


背徳感が最高のスパイスになってしまった悠人。

その気持ち、分からなくはないのですが……。


消えた明太子の代わりに残ったのは、冷蔵庫のメモがあかねのラブレターだったという気づきでした。

来週の明太子を、今度こそ二人で食べられることを願いつつ。


次回もお付き合いください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。