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妻が『白米の裏切り』を絶対に許さない  作者: そらのことのは


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第4話 最後の明太子

金曜日の深夜。


一週間の激務を終えた悠人は、缶ビールを片手にリビングのソファに沈み込んだ。

あかねは友人との夕食で外出中。

久しぶりの一人時間だった。


「今週も疲れたなあ……」


冷蔵庫を開けると、温められるよう準備された夕食と、いつものあかねの『専用棚』が目に入る。

整然と並んだ瓶や容器の中に、見覚えのない桐の箱があった。


蓋には達筆な筆文字で『博多・極上明太子』と書かれている。


そして箱の正面には、黄色い付箋がペタリと貼られていた。


()()()


短く、力強い二文字。

普段のあかねの丸文字とは違う、筆圧の強い文字だった。


悠人は少し迷ったが、アルコールが回り始めた頭が都合のいい解釈を始める。


「触るなってことは、全部食べるなってことだよな。ちょっと味見くらいなら……」


桐の箱を開けると、宝石のように赤く輝く明太子がひと腹、丁寧に収められていた。


一口食べた瞬間、悠人の脳天に雷が落ちた。


「なにこれ……うますぎる」


ピリッとした辛味の後に豊かな旨味が口いっぱいに広がる。

ビールが進む。

進みすぎる。


「もう一口だけ……」


深夜の静寂の中、背徳感という最高のスパイスが悠人の理性を溶かしていった。


気がつけば、桐の箱は空っぽになっていた。



翌朝。


リビングに入った悠人は、部屋の空気が物理的に重くなっているのを感じた。


テーブルには白米と味噌汁だけが置かれ、その中央に空の桐の箱と『触るな』の付箋が鎮座していた。


あかねは椅子に座り、静かに手を組んでいる。


「お、おはよう……」


「おはよう、悠人くん」


声は穏やかだ。

しかし、目が完全に笑っていない。


「悠人くん。日本語の確認をしましょう。この付箋には、何て書いてある?」


「……触るな、です」


「そう。()()()。では、この箱の中身はどこへ行ったのかしら」


「俺の、胃袋の中に……」


あかねはゆっくりと立ち上がった。


「でもね、私が怒ってるのは、明太子を食べたことじゃない」


悠人は身構えた。


「『触るな』って書いた私よりも、それに気づかなかった悠人くんを責めたくなる自分に、腹が立ってるの」


あかねは空の箱を手に取った。


「私の言葉が、悠人くんには届いてない。冷蔵庫の壁紙と同じになってる」


その言葉が、胸に深く刺さった。


「あの明太子はね、今朝、悠人くんと一緒に炊きたての白米と食べるために、一ヶ月前から取り寄せて、少しずつ大切に食べていたものなの」


あかねの声が、わずかに震えた。


「明太子は白米の親友よ。あの完璧な塩気と辛味は、温かい白米の甘みと出会って初めて完成するの。それを深夜に、冷たいビールの当てとして単独で消費するなんて……」


あかねは空の箱を見つめた。


「明太子に対する冒涜であり、白米に対する裏切りよ」



悠人の脳裏に、先週の義母の言葉がよぎった。


『この子、昔から食卓だけは壊されたくなかったの』


あかねが怒っているのは、高級な明太子を食べられたからではない。

今朝、二人で「美味しいね」と言い合いながら温かい食卓を囲むはずだった『約束』と『信頼』を壊されたからだ。


「ごめん、あかね」


悠人は言い訳を飲み込み、深く頭を下げた。


「俺がバカだった。あかねが今朝のために準備してくれてたのに、俺の身勝手で台無しにした。本当にごめん」


あかねは少し驚いたように目を見開いた。

いつもの悠人なら「新しいのを買うよ」と的外れな返答をするところだった。


「……分かってるなら、いいの」


あかねは小さくため息をつき、付箋を剥がした。


「今日の朝ごはんは、おかずなし。白米の甘みだけを噛み締めて、明太子への謝罪の気持ちを深めてください」


「はい……」


「それと」


あかねはキッチンへ戻りながら、背中越しに言った。


「来週、もう一度同じものを取り寄せるから。今度は、絶対に一緒に食べるのよ」


「……うん」



白米だけを口に運びながら、悠人は冷蔵庫の専用棚を思い返した。

整然と並んだ瓶や袋。

それぞれに、あかねの小さな字でメモが貼ってある。


今まで、一度も読んでいなかった。


あかねはずっと語りかけていたのだ。

冷蔵庫の中から、ずっと。


「あかね」


「なに?」


「今度から、冷蔵庫のメモ、全部読むよ」


あかねの手が、お茶を注ぐ途中で止まった。


「……本当?」


「本当。あかねの言葉を、ちゃんと読む」


あかねは振り返り、少しだけ、いつもの笑顔を見せた。


「じゃあ、来週の明太子、楽しみにしてる」


「俺も」


白米の甘みが、いつもより深く感じられた。


明太子は消えた。

でも、その代わりに少しだけ深くなった信頼が、白米の湯気の向こうに立ち上っていた。


春日家の食卓を巡る小さな戦争は、今日もまた一つ、愛情に変わっていく。


そして冷蔵庫の扉には、新しい付箋が一枚貼られていた。


『今度いっしょに食べよう』


その文字を見た悠人の胸に、小さく温かいものが灯った。


彼はまだ知らない。

次に冷蔵庫を開けたとき、「停電」という最大級の地雷が、静かに彼らを待っていることを。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


背徳感が最高のスパイスになってしまった悠人。

その気持ち、分からなくはないのですが……。


消えた明太子の代わりに残ったのは、冷蔵庫のメモがあかねのラブレターだったという気づきでした。

来週の明太子を、今度こそ二人で食べられることを願いつつ。


次回もお付き合いください。

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