第3話 義母は全部知っている
土曜日の午後、春日家のインターホンが鳴った。
「お邪魔します」
玄関に現れたのは、あかねの母・節子だった。
上品な笑顔の奥に、何かを見透かすような鋭い目を持つ女性だ。
「お義母さん、いらっしゃいませ」
「近くまで来たものだから。これ、お土産」
節子が差し出した紙袋には、高級そうな鯛みその瓶が入っていた。
「わあ、ありがとうございます!」
あかねの目がキラリと光る。
まるで宝石でも見つけたかのような表情だった。
◇
ダイニングテーブルには、炊きたての白米と鯛みそが並んだ。
「それじゃあ、いただきましょう」
悠人は箸を取り、何の躊躇もなく鯛みその瓶に突っ込もうとした。
その瞬間。
「待って」
あかねの鋭い一言で、空気が氷点下まで下がった。
悠人の箸が、瓶の口から数ミリのところで止まる。
振り返ると、あかねが能面のような表情で悠人を見つめていた。
「悠人くん」
「あ、あかね?」
「直箸」
あかねは静かに立ち上がり、悠人の手から瓶を取り上げた。
「共有のお供に、個人の箸を入れる。これは、家族の食卓に対する最も深刻な冒涜よ」
「いや、俺まだ何も食べてないし……」
「問題はそこじゃないの」
あかねはキッチンから専用の取り分け匙を持ってきて、美しく鯛みそを小皿に盛った。
そして瓶をアルコールで拭き、冷蔵庫の専用棚へ厳重に格納する。
悠人は、ただその儀式を見守るしかなかった。
◇
食後、あかねがキッチンでお茶を淹れている間、リビングには悠人と節子だけが残された。
「驚いたでしょう?」
節子が苦笑いを浮かべた。
「いえ……俺が悪かったんで」
「あの子、ご飯のことになると異常なの。でもね」
節子の表情が、少し寂しげになった。
「理由があるのよ」
「理由?」
「あかねが小学生の頃、私たち夫婦、とても仲が悪くて。毎晩のように喧嘩をしていたの」
悠人は息を呑んだ。
あかねから、そんな話は一度も聞いたことがなかった。
「食卓はいつも冷え切っていた。お父さんは怒鳴って、私は泣いて。あかねは一人で、冷たいご飯を黙って食べていたの」
節子は遠い目をした。
「ある日、あかねが泣きながら言ったの。『ご飯の時くらい、笑って食べたい』って」
その言葉が、悠人の胸に深く刺さった。
「この子、昔から食卓だけは壊されたくなかったの。だから今も、完璧な食卓を作ることで、家庭の平和を守ろうとしてる」
節子は悠人の目を真っ直ぐに見た。
「面倒な娘でごめんなさいね。でも、あの子が悠人さんに怒るのは、信頼してるからよ。壊れそうな食卓の前では、あの子は怒らなかった。怒るのは、壊れないと信じてる相手にだけ」
◇
「お待たせ」
あかねがお茶を持って戻ってきた。
いつもの穏やかな笑顔だった。
悠人は湯呑みを受け取りながら、あかねの横顔をじっと見つめた。
専用棚。
温度管理。
直箸への怒り。
それらはすべて、彼女なりの「祈り」だったのだ。
絶対に壊れない、温かい場所を作るための。
「どうしたの? 私の顔に何か付いてる?」
「いや……今日の鯛みそ、すごく美味しかったなって」
「でしょう? お母さんが選んでくれたんだもの」
あかねは嬉しそうに笑った。
その笑顔を守るためなら、食卓のルールくらい、いくらでも覚えてやる。
悠人は心の中でそう誓い、温かいお茶を啜った。
節子は二人のやり取りを見ながら、安心したように微笑んでいた。
この若い夫婦の食卓は、きっと大丈夫。そんな確信を込めて。
春日家の小さな戦争は、今日もまた一つ、愛情に変わっていく。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「怒るのは、壊れないと信じてる相手にだけ」
義母のこの言葉に、あかねのめんどくささの全てが込められています。
執着の裏にあったのは、ただ温かい食卓への切実な願いでした。
その不器用な愛情に気づいた悠人の成長を、
引き続き見守っていただけると嬉しいです。




