第2話 『鮭風味』は鮭ではない
翌朝、悠人は恐る恐るダイニングルームの扉を開けた。
昨夜、スーパーで適当に掴んだオレンジ色の小瓶。
あかねに渡した時の、あの氷のような視線が忘れられない。
一晩中、胃がキリキリと痛んでいた。
テーブルには、いつものように完璧な朝食が並んでいる。
出汁の香りが立つ味噌汁、ほうれん草のお浸し、そして艶やかに光る炊きたての白米。
しかし、その中心に鎮座しているのは、悠人が買ってきたあの小瓶だった。
あかねは椅子に座ったまま、腕を組み、その小瓶をまるで不発弾を見るような目で凝視している。
「お、おはよう、あかね」
「おはよう、悠人くん」
声のトーンは普通だ。
悠人は少し安堵し、自分の席についた。
「昨日はごめん。ちゃんと買ってきたから……」
「悠人くん」
あかねが、静かに小瓶を手に取った。
「私が昨日お願いしたのは、何だったかしら?」
「鮭フレーク……」
「そう。鮭フレーク」
あかねは小瓶をくるりと裏返し、裏面のラベルを悠人の目の前に突きつけた。
「では、ここに書かれている商品名を読んでみて」
悠人は目を細めた。細かい文字が並んでいる。
「ええと……『鮭風味そぼろ』」
「風味」
あかねが、その二文字だけを静かに切り取った。
「次。原材料名の最初は何?」
「……魚肉加工品」
「魚肉加工品」
あかねは小瓶をテーブルに置き、ふう、と深くため息をついた。
「悠人くん。これはね、鮭ではないの」
◇
「でも鮭エキスって書いてあるし! 色もピンクだし、パッケージにも鮭の絵が……」
「悠人くん」
あかねの声が、一段と静かになった。
「本物の鮭フレークはね、成分表の最初に『鮭』って書いてあるの。原材料は配合量の多い順に書かれているから、一番最初に書いてあるものが一番たくさん入っているの」
「そ、そんなに違うもの?」
「全然違う」
あかねは立ち上がり、冷蔵庫の奥から小さな瓶を取り出してきた。
見覚えのあるラベル。
「隠してたの?」
「非常用よ。停電とか、災害とか」
一拍置いて。
「あなたが空瓶を戻すとか」
悠人は何も言えなかった。
あかねは非常用の鮭フレークを白米の上にほんの少しだけ乗せ、一口食べた。目を閉じ、小さく息を吐く。
「これよ」
その顔が、初めてやわらかくなった。
「同じ白米なのに、全然違う。ちゃんと鮭の脂の甘さがある。塩加減が、このお米の水分量に合ってる」
次に、悠人が買ってきた鮭風味を一口。
数秒の沈黙。
「……甘い。そして、鮭の味というより、何かのスナック菓子みたいな不自然な風味」
あかねは箸を置いた。
「美味しくないわけじゃないの。でもね」
その瞳が、うっすらと潤んで見えた。
「私はね、悠人くん。ごまかしのない、本物のご飯を一緒に食べたいの。安いからとか、適当でいいやとか、そういう妥協で食卓を埋めたくない」
◇
「でも、味はそんなに変わらないんじゃない? ご飯に乗せちゃえば、全部同じっていうか……」
言ってはいけない言葉だった。
あかねの纏う空気が、明確に変わった。
静かな悲しみから、深い絶望へ。
「……全部、同じ」
あかねは虚空を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「大豆に鮭の匂いをつけて、ピンク色に着色すれば、それはもう鮭と同じ。そう言いたいのね」
「いや、そこまでは……」
「じゃあ、私たちのこの食卓も、そういう『偽物』でいいってこと?」
その言葉が、胸に深く刺さった。
「私が毎朝、どんな気持ちでこの食卓を作っていると思う?」
あかねは愛おしそうに、自分の前にある白米の入ったお茶碗を両手で包み込んだ。
「私が欲しかったのは、高い鮭フレークじゃない。この完璧な朝に、あなたと一緒に、同じものを『美味しいね』って言い合える安心だったのに」
狂気じみた執着の裏にある、彼女の切実な願い。
ただ、平和な食卓を囲みたかっただけなのだ。
「あかね……」
「でも、伝わってなかったみたい」
あかねはスッと立ち上がった。
「今日の私の朝ごはんは、塩むすびにします。その『鮭風味』は、買ってきた悠人くんが責任を持って、一人で消費してください」
◇
あかねがキッチンへ去った後、悠人は一人取り残された。
目の前の鮭風味を一口食べてみる。
確かに甘く、不自然な風味が口に広がった。
美味しくないわけではない。
でも、いつものあの鮭フレークとは決定的に違った。
台所からは、あかねが静かに塩むすびを握る音が聞こえてくる。
『偽物でいいってこと?』
あかねの言葉が、胸にチクリと刺さる。
ただのご飯のお供の話なのに、なぜか自分が夫婦の根幹に関わる重大な裏切りをしてしまったような気がしてならなかった。
しばらくして、あかねが戻ってきた。
手には小さな塩むすび。
「あかね」
「なに」
「俺、スマホで写真撮っていい?」
「何の?」
悠人は非常用の鮭フレークを指差した。
「いつものやつ。メーカー名と商品名。今度は絶対に間違えないように」
あかねは少し驚いたような顔をした。
「……どうぞ」
悠人はスマートフォンを取り出し、ラベルを撮影した。
そして、メモアプリを開いて文字を打ち込む。
「何書いてるの?」
「『成分表の最初が鮭のやつ。非常用は触らない。米の硬さはお供に合わせて変えてる。気づくこと』」
あかねの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「ふーん」
「あと、もう一つ聞いていい?」
「なに?」
「あかねは、俺と他の誰かが全部同じに見える?」
「見えるわけないでしょ」
「鮭フレークも、それと同じってことか」
あかねは少し考えてから、答えた。
「そういうこと」
悠人は咀嚼しながら、その言葉の意味を噛み締めた。
鮭フレークに、顔がある。
そういうことらしかった。
◇
その夜、悠人は会社帰りに少し遠いスーパーまで足を伸ばした。
鮭フレークの棚の前で、スマートフォンの写真と見比べながら、真剣な顔でラベルを読み比べる。
完全に不審者だったが、構わなかった。
「これだ」
ようやく、写真と同じラベルを見つけた。
値段は、昨日の鮭風味の半分以下だ。
「高ければいいってもんじゃない、か」
レジに向かいながら、悠人は思った。
あかねが守っていたのは、鮭フレークじゃない。
「誰かと本物を分かち合える食卓」だったのだ。
その手には、"風味"ではない、本物の鮭フレーク。
彼の中で、"ご飯のお供"という存在が、少しだけ違う意味を持ち始めていた。
一方その頃、春日家の食卓では。
あかねが一人、炊きたての白米と鮭風味フレークを前に、小さく呟いていた。
「あなたも悪くないの。でも、本物には敵わないのよ」
誰にともなくそう言って、彼女はそっと箸を動かした。
白米にとっての「日常」を守る戦いは、まだ始まったばかりだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
狂気の裏には、訳がある。
たかが鮭フレークですが、されど鮭フレーク。
あかねの執着も、悠人のうっかりも、
全部「本物を一緒に味わいたい」という
不器用な愛情の表れなのかもしれません。
次話もよろしくお願いします。




