第1話 鮭フレークを切らした朝
深夜一時。
残業帰りの春日悠人は、台所で小さな犯罪を犯していた。
炊飯器に残った一膳分の白米。
それに合わせたのは、冷蔵庫の『あかね専用棚』から取り出した鮭フレークだった。
瓶の底にへばりついた最後のひとさじを、彼は何の躊躇もなくご飯に投下する。
「うまっ」
満足げに息を吐き、空になったガラス瓶をそのまま冷蔵庫の定位置へ戻した。洗うのが面倒だったからだ。明日、妻のあかねが気づいて捨てるだろう。
これが、我が家の平和を根底から揺るがす大事件の始まりとは、この時の悠人は知る由もなかった。
◇
翌朝六時半。
ダイニングテーブルには、いつものように完璧な朝食が並んでいた。
出汁の香りが立つ味噌汁、焦げ目一つない卵焼き、そして艶やかに光る炊きたての白米。
「おはよう、悠人くん」
エプロン姿のあかねが、天使のような笑顔で出迎えてくれる。
「おはよう。今日もすごく美味しそうだな」
「ふふ、ありがとう。今日のお米はね、少し固めに炊いたの。鮭フレークの塩気と最高に合うように水分量を調整したから」
あかねは鼻歌交じりに冷蔵庫へ向かった。
これが毎朝の儀式だ。
今日の白米に何を合わせるかを選ぶ、彼女にとって神聖な時間。
悠人は箸を手に取りながら、のんきに味噌汁を啜った。平和な朝だ。
しかし――
ピシャリ。
冷蔵庫の扉が閉まる音が、やけに冷たくリビングに響いた。
悠人が顔を上げると、そこには手にガラス瓶を持ったあかねが立っていた。
表情は笑っている。
口角は完璧な角度で上がっているのに、目には一切の光が宿っていない。
「……あかね?」
コトッ。
テーブルの中央、真っ白なご飯の横に、そのガラス瓶が置かれた。
中身は空っぽ。
オレンジ色の残骸が瓶の側面にわずかにこびりついているだけ。
昨夜、悠人が戻した空瓶だった。
「悠人くん」
あかねの声は春風のように優しかった。それが逆に、悠人の背筋を凍らせる。
「あ、いや、それ、昨日の夜にちょっと小腹が空いて……」
「食べたのね」
「うん。すごく美味しかったよ」
必死のフォロー。
しかし、あかねの笑顔は微動だにしない。
「食べたことは、いいの。ご飯のお供は、食べられるために生まれてきたのだから」
「そ、そうだよね」
「でもね」
あかねはゆっくりとテーブルに手をつき、悠人の顔を至近距離で覗き込んだ。
「補充する約束だったよね?」
◇
記憶が蘇る。
先週、あかねが言っていた。
「この鮭フレークがなくなりそうになったら、必ず補充してね」と。
そして、「空瓶をそのまま戻すのは、白米に対する一番の裏切り行為だから」とも。
だが、ただの鮭フレークの瓶一つで、そんな大げさな、と聞き流していたのだ。
「ごめん、忘れてた」
「忘れてた」
あかねが、その言葉を静かに反復する。
「この、水分量まで調整した完璧な白米を前にして、『忘れてた』で私の朝を奪ったのね」
室温が下がった気がした。
「空瓶を冷蔵庫の定位置に戻すということは」
あかねは、瓶をくるりと回した。
カラカラと乾いた音がする。
「朝起きて、さあ今日も鮭フレークと完璧な白米で一日を始めよう、という私のささやかな希望を、一度持ち上げさせてから叩き落とすという、極めて残酷な拷問なの」
「そんな、大げさな……」
「大げさ?」
あかねの首が、こてんと傾く。
「悠人くん。私が毎朝、どんな気持ちでこの食卓を作っていると思う?」
その声に、初めて震えが混じった。
「私が欲しかったのは、高い鮭フレークじゃない。この完璧な朝に、あなたと一緒に、同じものを『美味しいね』って言い合える安心だったのに」
狂気じみた執着の裏にある、彼女の切実な願い。
ただ、平和な食卓を囲みたかっただけなのだ。
「あかね……俺……」
反省し、謝罪しようとした悠人の言葉を遮るように、あかねはスッと顔を上げた。
その目は、再び冷酷な光を取り戻していた。
「というわけで、罰として今日の悠人くんの朝ごはんは、白米と、この空瓶の匂いだけです」
「えっ」
「おかずは没収します。空瓶の底に残った鮭の香りを嗅ぎながら、白米を噛み締めて、己の罪を悔い改めてください」
そう言うと、あかねは悠人の前のおかずをすべて自分の手元へと引き寄せた。
「ちょ、あかね!卵焼き!俺の卵焼き!」
「空瓶を戻すような人間に、出汁の繊細な風味は分かりません」
「そんな殺生な!」
◇
その日の夜。
悠人は会社帰りに鮭フレークを買った。
いつものやつ、と言われていたが、いつものやつが分からなかったので、一番それっぽいやつを選んだ。
「ただいま」
「おかえり」
「買ってきた」
袋から出して渡した。
あかねは瓶を受け取り、ラベルを見た。
成分表を見た。
そして、悠人を見た。
「これ、いつものじゃない」
「え?」
「製造元が違う」
「……そんなに変わらなくない?」
あかねは答えなかった。
ただ、瓶を持ったまま、静かに台所へ歩いて行った。
悠人は玄関に立ったまま、明日の朝が少し怖かった。
完璧に炊き上がった白米と、虚無の空瓶。
こうして、春日家の食卓を巡る、小さくも壮絶な戦争の幕が上がったのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
正直に告白します。この話を書きながら、私は何度も「あかねさんの気持ち、分かるな」と思いました。
鮭フレークじゃなくてもいいんです。納豆でも、梅干しでも、お気に入りのふりかけでも。「これがないと朝が始まらない」というものが、誰にでも一つくらいあると思うんです。そしてそれを、悪気なく踏み越えてくる人間が、なぜか一番近くにいる。
笑えるけど、笑えない。そういう夫婦の日常を描きたかった。
次回も悠人のうっかりと、あかねの静かな報復をお楽しみください。




