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妻が『白米の裏切り』を絶対に許さない  作者: そらのことのは


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第1話 鮭フレークを切らした朝

深夜一時。

残業帰りの春日悠人は、台所で小さな犯罪を犯していた。


炊飯器に残った一膳分の白米。

それに合わせたのは、冷蔵庫の『あかね専用棚』から取り出した鮭フレークだった。

瓶の底にへばりついた最後のひとさじを、彼は何の躊躇もなくご飯に投下する。


「うまっ」


満足げに息を吐き、空になったガラス瓶をそのまま冷蔵庫の定位置へ戻した。洗うのが面倒だったからだ。明日、妻のあかねが気づいて捨てるだろう。


これが、我が家の平和を根底から揺るがす大事件の始まりとは、この時の悠人は知る由もなかった。



翌朝六時半。


ダイニングテーブルには、いつものように完璧な朝食が並んでいた。

出汁の香りが立つ味噌汁、焦げ目一つない卵焼き、そして艶やかに光る炊きたての白米。


「おはよう、悠人くん」


エプロン姿のあかねが、天使のような笑顔で出迎えてくれる。


「おはよう。今日もすごく美味しそうだな」


「ふふ、ありがとう。今日のお米はね、少し固めに炊いたの。鮭フレークの塩気と最高に合うように水分量を調整したから」


あかねは鼻歌交じりに冷蔵庫へ向かった。

これが毎朝の儀式だ。

今日の白米に何を合わせるかを選ぶ、彼女にとって神聖な時間。


悠人は箸を手に取りながら、のんきに味噌汁を啜った。平和な朝だ。


しかし――


ピシャリ。


冷蔵庫の扉が閉まる音が、やけに冷たくリビングに響いた。


悠人が顔を上げると、そこには手にガラス瓶を持ったあかねが立っていた。

表情は笑っている。

口角は完璧な角度で上がっているのに、目には一切の光が宿っていない。


「……あかね?」


コトッ。


テーブルの中央、真っ白なご飯の横に、そのガラス瓶が置かれた。

中身は空っぽ。

オレンジ色の残骸が瓶の側面にわずかにこびりついているだけ。


昨夜、悠人が戻した空瓶だった。


「悠人くん」


あかねの声は春風のように優しかった。それが逆に、悠人の背筋を凍らせる。


「あ、いや、それ、昨日の夜にちょっと小腹が空いて……」


「食べたのね」


「うん。すごく美味しかったよ」


必死のフォロー。

しかし、あかねの笑顔は微動だにしない。


「食べたことは、いいの。ご飯のお供は、食べられるために生まれてきたのだから」


「そ、そうだよね」


「でもね」


あかねはゆっくりとテーブルに手をつき、悠人の顔を至近距離で覗き込んだ。


「補充する約束だったよね?」



記憶が蘇る。


先週、あかねが言っていた。

「この鮭フレークがなくなりそうになったら、必ず補充してね」と。

そして、「空瓶をそのまま戻すのは、白米に対する一番の裏切り行為だから」とも。


だが、ただの鮭フレークの瓶一つで、そんな大げさな、と聞き流していたのだ。


「ごめん、忘れてた」


「忘れてた」


あかねが、その言葉を静かに反復する。


「この、水分量まで調整した完璧な白米を前にして、『忘れてた』で私の朝を奪ったのね」


室温が下がった気がした。


「空瓶を冷蔵庫の定位置に戻すということは」


あかねは、瓶をくるりと回した。

カラカラと乾いた音がする。


「朝起きて、さあ今日も鮭フレークと完璧な白米で一日を始めよう、という私のささやかな希望を、一度持ち上げさせてから叩き落とすという、極めて残酷な拷問なの」


「そんな、大げさな……」


「大げさ?」


あかねの首が、こてんと傾く。


「悠人くん。私が毎朝、どんな気持ちでこの食卓を作っていると思う?」


その声に、初めて震えが混じった。


「私が欲しかったのは、高い鮭フレークじゃない。この完璧な朝に、あなたと一緒に、同じものを『美味しいね』って言い合える安心だったのに」


狂気じみた執着の裏にある、彼女の切実な願い。

ただ、平和な食卓を囲みたかっただけなのだ。


「あかね……俺……」


反省し、謝罪しようとした悠人の言葉を遮るように、あかねはスッと顔を上げた。

その目は、再び冷酷な光を取り戻していた。


「というわけで、罰として今日の悠人くんの朝ごはんは、白米と、この空瓶の匂いだけです」


「えっ」


「おかずは没収します。空瓶の底に残った鮭の香りを嗅ぎながら、白米を噛み締めて、己の罪を悔い改めてください」


そう言うと、あかねは悠人の前のおかずをすべて自分の手元へと引き寄せた。


「ちょ、あかね!卵焼き!俺の卵焼き!」


「空瓶を戻すような人間に、出汁の繊細な風味は分かりません」


「そんな殺生な!」



その日の夜。


悠人は会社帰りに鮭フレークを買った。

いつものやつ、と言われていたが、いつものやつが分からなかったので、一番それっぽいやつを選んだ。


「ただいま」


「おかえり」


「買ってきた」


袋から出して渡した。

あかねは瓶を受け取り、ラベルを見た。

成分表を見た。

そして、悠人を見た。


「これ、いつものじゃない」


「え?」


「製造元が違う」


「……そんなに変わらなくない?」


あかねは答えなかった。

ただ、瓶を持ったまま、静かに台所へ歩いて行った。


悠人は玄関に立ったまま、明日の朝が少し怖かった。


完璧に炊き上がった白米と、虚無の空瓶。


こうして、春日家の食卓を巡る、小さくも壮絶な戦争の幕が上がったのだった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


正直に告白します。この話を書きながら、私は何度も「あかねさんの気持ち、分かるな」と思いました。


鮭フレークじゃなくてもいいんです。納豆でも、梅干しでも、お気に入りのふりかけでも。「これがないと朝が始まらない」というものが、誰にでも一つくらいあると思うんです。そしてそれを、悪気なく踏み越えてくる人間が、なぜか一番近くにいる。


笑えるけど、笑えない。そういう夫婦の日常を描きたかった。


次回も悠人のうっかりと、あかねの静かな報復をお楽しみください。

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