第74話 守ってくれた人
一瞬、頭の中が真っ白になったが、すぐに我を取り戻した。
もしかすると、私たちが魔獣と戦っている間に、すれ違いになったのかもしれない。村の老人や逃げ遅れた人たちを助けに行ったのは、何もヒューゴだけではないのだ。他の誰かが、母を案内してくれたのかもしれない。
それは、筋の通った仮定だった。
でも、どうしても、私の心の中の焦燥感は消えない。
母の顔さえ見られれば、きっと落ち着くのだろうが、今はひどく動揺していた。最初にサロメの家に行った時点では母の姿を見ていない。それから森へと向かう道中を逆走した時にも、誰にも会っていない。私の家から森へ行くための最短距離を走ってきた。それでも、誰ともすれ違っていない。魔獣の姿を見て迂回したとももちろん考えられる、考えられるのだ。でも、どうしても。
「レノ!」
私がよろよろと寝室から出てくると、男の声が飛び込んできた。玄関の扉を見ると、ロジェがびしょ濡れの姿で立っていた。息を弾ませ、額から血を流し、全身ボロボロで泥まみれになっている。それを見ただけで、魔獣との戦闘がいかに大変なものだったかがよくわかる姿だった。
「ロジェ、無事だったんだ……!」
「それはこっちのセリフだ!」
ロジェが怒った。
「なんて馬鹿なことをしたんだ! 騎士団から、君とリアムがこの辺りで魔獣に襲われたと聞いて、こっちはどんな気持ちでいたと思ってるんだ!」
ロジェによれば、ちょうどあの傷跡のある男の人が私を助けてくれていた頃、騎士団が到着したらしい。
当然、予想もしない速度での騎士団の到着に誰もが驚いたが、心強すぎる救援に誰もが涙を流して喜んだとのことだった。
「たまたま騎士団の一部が、他の村へ遠征に行っていたそうだ。そんな時にあの成人見習いを見つけて、何があったかを聞き、すぐに動いてくれたんだ」
なんという幸運だろう。村が魔獣に襲われれば、村が壊滅するのはほぼ必然だと言われているらしい。だがこの村は、騎士団がすぐに来てくれたおかげで、少なくとも避難した女性や子供は全員無傷で救出されているらしい。
「みんな、無事だったんだ……」
ほっと一息つきたい気持ちだったが、そうもいかない。私は、一番無事を確かめなくてはいけない人間の無事を、まだ確かめていないのだ。
「母さんは? 母さんは無事なの?」
「何だって? マリアンヌさんはここにいないのか?」
私の言葉に返答したロジェの表情を見て、私はさっと顔色を変えた。
「ロジェは、避難したみんなを見たの?」
「いや、俺は話を聞いてすぐにここに来たから、全員の無事までは直接確認できてない……けど、レノが無茶してるっていう場所を聞いて、てっきりレノがマリアンヌさんを避難させるためにここに来たのかと思って」
気まずい沈黙。
私はぽたぽたと落ち続ける髪の雫を、近くにあった布で拭った。
「分かった。とりあえず、みんなと合流するよ。一度みんなから話を聞かないと、今は情報が錯綜して混乱してると思うから」
「そう、だな。それが一番良い……レノ、怪我してるのか?」
「え? あ、うん。でも騎士団の人が応急処置してくれてるから……」
「だったら猶更、みんなと合流した方が良いな。騎士団の人たちが怪我の治療もしてくれてるから」
どうやらみんなは広場に集まっているらしい。救急キャンプみたいな感じなのだろう。騎士団の人と村人たちが協力し合い、怪我をした男たちの治療に集中しているとのことだった。騎士団の人たちも、全員無事か確かめるため、村人たちに一か所に集まってもらいたいということを言っていたらしい。……リアムはロジェに負ぶっていってもらおう。
危険が去ったという安堵の気持ちがじわじわと胸に広がってきたせいか、肩や背中の傷がじくじくと痛みを訴えかけてき始めているような気がしてきた。母の件もあるし、ここでうだうだしていても仕方ない。空っぽのベッドを何度見ても、空っぽなのだ。
それじゃあ行こうか、と一歩踏み出した時、ふと戸棚の前できらりと何かが光った。蝋燭の光を反射したのだろう。だが、一体なにが落ちているのだろう?
「どうした?」
私が玄関の扉ではなく戸棚の方に向かったので、ロジェが不思議そうな声を出した。
「あ、いや、何か落ちてるみたいで」
何かが光を反射したから、と戸棚の前に行こうとすると、こつりと足に何かが当たった感触があった。光ったのはもう少し先のはずだが、と思いつつも、軽く蹴飛ばしたものを拾い上げた。
「ヌーロの、種……?」
その丸くて軽い感触を手の中で転がして、私は小首を傾げた。戸棚の戸は閉まっている。勝手に落ちてくるようなものではない。そもそもヌーロの種は住民票みたいなものだと思ってるから、貴重品ということで、袋に入れて戸棚に入れておいたはずだ。
「ダメじゃないか。ヌーロの種は、大事にしないと」
私の手の中で、蝋燭の明かりに照らされてるそれを見て、ロジェは苦笑しながらこちらへやってきた。
「でも、いつもは戸棚に閉まってあるのに」
母が取り出したのだろうか? 何のために?
……ああ、避難するために、貴重品を取り出したのかもしれない。それなら納得だ。
私は戸棚を開けて、ヌーロの種を仕舞おうとして。
「え?」
そこには、お金の入った袋がそのまま置いてあるのを見て、思わず声が出た。ただ、その隣にあるはずの、ヌーロの種を入れる袋が見当たらない。
お金は持って行かず、種だけ持って行った?
……何のために?
じわじわと胸の中に不安が広がる。この部屋に入ってきたときの違和感を思い出し、頭の中に警鐘が鳴り響く。ただ、一体何に対して警戒をしたらいいのかが、さっぱりわからない。
「どうした?」
「種がないの、一個しかなくて、母さんと私で、二個あるはずなのに……」
私はそう言って、その場にしゃがみこんで、手燭で床を照らした。もしかすると、もう一個が落ちているかもしれないと思って。
そして気付く。ヌーロ入れの袋が近くに落ちていることに。
そしてもう一つ、気付く。ロジェの足元に、何か赤い丸い、石のようなものが落ちていることに。
「宝石か?」
ロジェが驚いて、数歩下がった。宝石となれば、金貨が必要なほど高価なものになる。ロジェが自分の足元に落ちていることにビビって距離を置こうとする反応は、めちゃくちゃに正しい。
ただ、私の頭には疑問しかなかった。宝石なんて、この戸棚になかったはずだ。私は椅子を踏み台にして、何度もこの戸棚を開いている。そして、現金をここに入れたり持って行ったりするたびに、残金確認として、中身を全て確認していたのだ。だから、ついこの間の街行きの時までは、確実に宝石なんていうものはここになかったのだ。
「なんで宝石なんてものが……?」
ヌーロの種入れの袋に一粒の種を仕舞いながら、私は宝石を手に取り、もう一度床を照らした。だが、あとは埃や私たちが残した泥の足跡しかなくて、そこにはもう何も落ちていなかった。
もう一個はどこにいったんだろう、そう思いながらも、しゃがんだまま私は宝石を明かりに照らした。風に揺れる炎の揺らめきと共に、深紅の美しい輝きは複雑な色を見せる。照らされたり、影を伸ばしたり。私の手のひらサイズで、その宝石はずっしりとした重みがあった。
ただ、宝石と言っても、『私』のイメージにあるような装飾品として形を変えた姿ではなく、原石のような、結晶の形をしていた。
……採掘でもしてきたのだろうか? でもなんでそんなものが? 母を助けに来てくれた人がうっかり落としていったとか? 考えていても答えは出そうになかった。
私はそれを手に持ったまま立ち上がろうとして、ふと手に違和感を感じた。いや、先ほどから感じてはいたが、気にしないようにしていたのかもしれない。私は一旦、床に石を置いて手を振って、もう一度石を手に取った。やはり、変な感じがする。
「………?」
まるで、赤い実を食べたときに身体に感じるような、何かの流れを感じた。ただそれは赤い実を食べたときのような身体の内側を流れていく感覚ではなく、身体の外側で、この石の中で何かがぐるぐると流れているような感覚だった。
この気持ち悪さは私だけなのか確認したくて、私は顔を上げてロジェを見た。一度これを手に持ってみてくれないか、そう言いたくて。ぱちりと一瞬ロジェと目が合ったが、外から泥の撥ねる音が聞こえてきた。
それと同時に、複数の足音も。すぐにロジェは険しい顔をして玄関の扉を見た。
「誰だ?」
ガシャガシャとした金属がこすれ合う音も聞こえる。私は誰かが様子を見に来てくれたのだと思って、その場に立ち上がった。だが、そこにいたのは、見慣れない黒い甲冑だった。三人が順番に、家の中に勝手に入ってきた。
「騎士団の人ですか?」
それとも、武装した状態の村の男たちはこんな感じになるのだろうか。そう思って声をかけたが、ロジェは警戒したように手に持っていた槍を構え、私を引き寄せ、自分の背に隠した。
そこでやっと私は、『ロジェにも見覚えのない人たち』が今、家の中に入ってきているのだということに気付き、私は背筋が凍った。
「何が目的だ、今すぐここから出て行け!」
ロジェが怒鳴った。槍を構え、いつでも攻撃が出来るように全身に力をみなぎらせている。甲冑の人たちは視線を合わせるかのような仕草をした後、腰にぶら下げていた剣を抜いた。こんな狭い家の中で身体の大きな黒い甲冑が三体と、ロジェが武器を構えているのだ。その切っ先は、手を伸ばしてしまえば届いてしまうような距離。
「その子をこちらへ」
甲冑の一人から、低い声がした。男の声だ。その声に聞き覚えがあるような気がして、私は小首を傾げたい気持ちだったが、そんなわけがないと首を横に振る。
どうして私を指名するのかはさっぱり分からないが、あまり良い理由ではないだろう。だって、問答無用で私を攫おうとしているのだ。しかし魔獣だけじゃなく謎の黒甲冑にまでモテるなんて。全然うれしくないモテ期だ。
「一体何者だ」
ロジェがそれに応じるわけもなく、質問を重ねた。場に沈黙が落ちる。互いに、互いの出方を伺っているような時間が過ぎていった。それは秒数にすればとても短かったのだろうが、私にとっては息さえ潜めてしまうような、とても長い時間に感じられた。
緊張の糸が切れたのは、一際大きな風が吹いた瞬間だった。
その風は家の中にまで入ってきて、私が持っていた手燭の火を消した。明かりを失った室内は、再び暗闇へと戻る。扉が開きっぱなしになっているので、目が慣れれば大丈夫なくらいの薄暗さだが、明かりが突然消えると、一瞬その暗さで目が見えなくなる。
それを利用したのだろう。ロジェが目の前で動いた気配がした。私の手を引いて、二人でこの場から逃げ出すつもりらしい。
ロジェは私をほとんど突き飛ばすようにして、玄関の扉の方へと押しやった。押された時の衝撃が傷口に響き、私は思わず顔をしかめた。
最初はロジェの身体も私と同じ方向に向かっていたようだった。だが、数歩進んだところで、突如キィン! という大きな金属音が鳴り響いた。そこでロジェの足が止まったようだった。
私はとにかく避難経路を確保しなければ、と出口へと走った。そうして開かれっぱなしの扉に到着した瞬間。
ドス、という鈍い音。
カラン、と何かが床に落ちる軽い音。
その音がするのと同時に、私の身体も、突如として目の前に現れた、真っ黒なものに顔から突っ込んだ。
「……一体、何が、」
目の前の真っ黒なものは甲冑のような硬さに比べれば柔らかく、温かった。ふわりと懐かしい匂いがした気がした。
それと同時に、すぐそばで何かがドサリと倒れる音がした。そのため、私は目の前のものよりも、すぐ後ろにいたはずのロジェが気になって、振り返った。
「………ロジェ?」
少しだけ、暗闇に目が慣れてきた。玄関の扉の側だというのもあったからだろう。いつの間にか、外の雨は止んでいたらしい。雲間から伸びる月明かりに、室内が照らされていた。
そして、私は見た。床に倒れているロジェの顔を。
「ロジェ?」
私は震える声で呼びかけ、床に膝をつき、その体に手を伸ばした。眠ったように目を閉じているロジェの表情は変わらない。床についた膝に、湿った感触があった。それは生暖かくて。……生臭くて。
「………そ、んな、」
そっとロジェに手を伸ばし、肩を揺らした。だがロジェの表情は変わらない。変わらないのだ。あれほど何度も見せてくれていた爽やかな笑みも、からかうような表情も。
もう、見せることは無い。閉じられた瞳は、もう開くことはない。
あまりの衝撃に、私は頭の中が真っ白になった。
そんな、どうして。
私を守ろうとしたから?
私の、せいで?
私が茫然とロジェに寄り添っていると、頭の上で声がした。
「殺してしまう必要は、あったんでしょうか」
それはひどく、懐かしい声。
「君たちは人間を軽んじすぎる。何度も言っているでしょう」
「……申し訳ございません」
「今回の件は、過剰防衛ですね。私もその瞬間は見ていました」
「……甲冑の隙間を確実に狙ってきていました。それで、つい………」
「ええ。不幸な事故です。ですが、あなたの技量ならば、もう少しうまくやれると思ったんですが……」
私の後ろで、優しい声で、男はロジェの死を悼んだ。
それと同時に、大きな甲冑の男の名を呼んだ。
「ランメルト」
私はのろのろと顔を上げた。床に膝をついているせいで、ただでさえ大きな黒い甲冑の男の姿が、より一層大きく見える。甲冑の男は仕方なさそうに、頭部を取った。それを小脇に挟み、私の方に向かって頭を下げる。
「すまない。君の知り合いを殺すつもりはなかったんだ。ただ、計画の実行には目撃者が不要だったというのも事実だ。まさか、君以外がここにいて、こんなにもすぐにこちらを殺そうと動くとは思っていなかったから……」
ランメルトはそう言って、申し訳なさそうな顔をした。
「レノは優しい子ですから。きっと、君をいつか、許してくれるでしょう」
今は心の整理が必要でしょうけどね、と私の後ろにいる男が優しく言った。私の心臓は先ほどから、はちきれんばかりに脈打っていて、頭の中は真っ白になっていた。
ここでの用は済んだ、と言わんばかりに、甲冑の男たちは家から出て行った。
残ったのは、ロジェと、私。
そして、後ろにいる男。
「……可哀想に。痛かったでしょう」
後ろから背中の傷跡をなぞられた。ピリ、とした痛みが走ったが、私は頑として後ろを振り向かず、奥歯を噛み締めて身を縮こまらせた。ただ、俯くと、目の前にいるロジェの顔が見えてしまうので、ぎゅっと目をつむった。
「よしよし。もう大丈夫です。痛いことは終わりました。よく頑張りましたね」
男は子供をあやすように私に言った。背中と肩に、暖かいぬくもりを感じた。強張った筋肉をほぐしていくようなその暖かさを感じていると、痛みがどんどん薄れていくのが分かった。
「大変だったでしょう。もう、何も心配することはありませんよ」
優しくて甘い声が、まるで愛する子供に与えるような声が、頭の中をじわじわと侵食していく。
「レノ。さあ、こっちを向いて」
私はのろのろと立ち上がった。そして、ゆっくりと振り返り、そこにいる人の姿を視界に入れた。
月明かりを受けて、その人は優しく微笑んでいた。
青色の髪はまるで夜空のような色をしていて、深い緑の瞳は慈愛に満ちている。
私と目が合うと、嬉しそうに微笑んだ。
「………父さん」
私は絶望に満ちた声で、そう言った。




